雲隠

ヒラノ

見えない未来


嫌い。

雨の降りそうな森の匂いが嫌い。

湿っぽくて、鼻にふわりと来る何とも言えないあの匂い。



あとは、濡れた下駄の感触が嫌い。

普段はつややかな木の板の踏み心地がざらりとしたものに変わって、足の裏で以て汚いものでも踏んでいるみたいな気になるから。


周りの人間たち。

冷酷で、残酷で、利己主義で、それでいて、時折優しくして来たと思ったら大半は思い違い若しくは酷い思い込み。本当に優しくしてくれる人達の優しさと、見返りを求めたりあまりにも冷たすぎる人達との温度差。

その温度差に胸を傷めながら、何もしない、こと。

自分。何もしない、自分。


嫌いなものは生きてる私の周りに満ち溢れている。

だけど、そんな私が一番嫌いなのは、

紛れもないこの私だ。

身の回りの嫌なものを探す以上に、

私の中には嫌な物が溢れている。


自分のことを好きな人間なんて、

よっぽどの楽天家か、もしくはどうかしている。

それが私の思いだった。

私は私が嫌いである。











この村は、昔から小さな島のようなものだ。

住んでいる人の数もさほど多くなく、それでいて自然だけは豊かである。

集落を囲むように生えている木はもう何百年生きているのか、予想することさえも面倒になる、らしい。

しかしここ一帯に四季を感じさせてくれるのもその木で、春が来れば一斉に咲き乱れた桜が 集落全体の雰囲気の色をも変える勢いで桃色を広げ、甘い香りと切なさを振り撒く。 夏になればあっけなく桃色を散らしてしまって、今度は緑。こんもりと丸く生い茂った葉で、私達の住む側と反対側……つまり、木の奥とを分断する。


秋は紅葉、冬は真綿の膜の様な雪の枝。力強い枝にしんなりと身を預けた雪の塊が、またもや色を変えるのだ。

勿論のこと、一日の中でも村は変わる。朝、昼、夜と。


冒頭に挙げたのは私の呟きである。

あれらの様な 私の嫌いなもの、嫌なものがこの世には沢山溢れているものの、この木々が、時間が魅せる色達のことは、素直に、迚も愛している。

自分達だけの装いを 時間や季節ごとにお洒落に変えるのではなく、その衣替えに村全体をも仲間としてくれるから。


退屈な村も木の色に合わせて色づき、

雰囲気を丸切り変えられるから。だから好き。

__________


「…恵、千恵!」


目覚まし時計はまだ鳴らない。

時計が鳴るよりも先に、布団の頭側にある窓から射す光が 私の網膜を照らして目を覚まさせた。それから、まだ覚めきらない頭に容赦無く飛び込む母親の声。


「早く起きなさい、いつまで寝てるつもりなの!」


こんな朝早くじゃ学校はまだだし、体は未だ眠っていたがって、頭もまだ眠りに戻りたくて鈍いままなのに、そんな私の小さな要望などお構い無しである。


「もう、朝からやめて頂戴、こんな早くから元気ねえ……」


眠ってやろうとして目を瞑りっぱなしでいても母の声が明らかに勝るので、そう零しつつ、仕方無しに私は布団の上に身を起こした。

真っ直ぐに正座をすると、頭の上に跳ね上がっていたらしい髪の束がゆっくりと眼前に落ちてくる。

寝癖のせいでどこから来ている髪か解らないそれを適当に払い、私は溜息をついた。

毎朝ややこしい形になるこの寝癖も、嫌い。きっと私の髪質のせい。


「元気ねえじゃないよ、千恵あんた今何時と思ってるの!」

階下から飛んで来ていた筈の母の声が、

私が布団の上でぼうっとすればするほど近くなる。

そして最後、仕方ない動き出すかと立ち上がった時には、白地に控えめな花の模様のついた襖が勢いよく開かれていた。すぱん、と耳に残る大きさの音に思わず身を竦める私。


「何時よ、随分早いじゃないの」

「これが早いですって?時計よく見てみなさい」

「時計……?」


そこで私は、

目覚まし時計が鳴らなかった理由を知った。


「…………止まってるわ」

「あんたいい加減自分で起きないと駄目よ」


「時計、止まってる……」


始業は八時半。現在、七時五五分、過ぎ。

着物で登校している為、家から学校までは徒歩。

通学なんかに高い車を使ったら怒られる。

五分で着替えたとしても、

着物着て、顔を洗って、朝ご飯食べて、

今こうしている間にも時間は過ぎて……


「というか勝手に止まるのがいけないんだわ。

目覚まし時計なら私が起きるまで鳴り続けるべきよ!」


「何言ってるの、あんたなかなか起きないんだから時計止めないし、そんな事してもお母さんが煩い思いするだけよ。もう支度して行きなさい」


慌てて跳ね起き、

焦る手でこんがらがりながらも服を着替えると共に、

私は時計への不満を集めて母にぶつけた。

私を起こしさえすればもう他人事らしく(間違っているわけでは無いが) 落ち着いて突っ込んでくる母は、私を暫し見守ったのち再び階下に戻って行った。


黒い髪を適当に整えて、私は姿見を覗き込む。

急いだ手つきではあるがきちんと編んだ小さな三つ編みが両肩にちょこんと垂れていて、柔らかな羽織の上で朝の光を受けている。鶯色の和服に白の羽織が映えて、遅刻しそうだが我ながら気分が良くなった。


「もう、千恵!」

又階下で母が呼ぶ。朝食を急かしている様だ。

私もこれ以上は流石にのんびりしていられなくて、

じりりりり、と今頃けたたましく鳴り出した目覚まし時計を思い切り押さえつけたのち部屋を飛び出した。


*


結局、家の門を出たのがそれから少し経った頃。

洗面を終え、喉に詰まりそうな朝食も終え、

危なっかしく下駄を履き外に出て少し行くと、仲の良くていつも迎えに来てくれる紅ちゃんが、痺れを切らした様子でこちらの角を覗き込んでいた。


「千恵ちゃん!遅い、遅刻してしまうじゃないの」


私と色違いの羽織の肩を弄りながら、紅ちゃんは僅かにむくれている。私よりも背が低くて、初等科の女の子が怒っているようである。

いつも迎えに来てくれるが、彼女は必ず早く来て、支度の遅れがちな私の家の前でこうして急かすのがもう常だ。

口調が強くなってもこの子は可愛らしい。

私といえば、未だ眠くてはきはきとした声が正直辛い。

口には出さない様にしているけれど、少しだけ耳が痛くって。

私が早起きを出来る日はいつになったら来るのだろうか。


「ごめんね。朝ぴしっと起きるのは、どうにも私には向いてないみたいなのよ」


「千恵ちゃんのことは好きだからそれでもこうしてお迎えに来るけど、いつかそのうちとんでもない遅刻して、先生に私まで怒られる未来が見えるようだわ」


「今までも遅刻して来たけど、そんなことなかったでしょ?」

「私はこれからの話をしてるのよ……」


そんな話を受けながら道中初めに少し早歩きをしたおかげで、"滅茶苦茶に急がなくてもどうにか間に合いそう"な時間にまで漕ぎ着いた。


漸く歩幅を緩めつつ、私達の会話はいつの間にか方向転換をしていた。

それも、朝からというにはかなり難しい方向へ。


「そういえばよ、千恵ちゃん。

今日先生にお話すること、ちゃんと考えてるの?」


私よりもしっかりしている紅ちゃんが、下駄の爪先を見て歩いていた私の顔を覗き込んだ。

「考えてるよ」

「千恵ちゃん偉いのね。てっきりまだだと思ってたわ」

「考えてはいるけど…いまいちわからなくて結局なんにも」

「前言撤回ね」

悪気のない言い回しに苦笑して、だって、と今度は斜め前の空に視線を移す。


所属学年が一年進んでから、私達は自分の将来について学校でよく問われる様になった。

明治以降の日本。海の外の国でこそ戦争があるものの、

子供だからだろうか、私達は変わらない日常を過ごしている。

そんな中で、学校を出たらどうしたいのか。

まだ文明開化のお祭りの名残があるこの街で、

女学校を出てその中に飛び込む自分を想像しても……

いや、想像すらも出来ない。

元々こういうことを考えるのが苦手故に、


「だって将来のことなんか想像つかないじゃあないの」

「だから、それをちゃんと今から考えなきゃいけないのでしょ?」


「なら、紅ちゃんは女学校出たらどうしたいのよ?」

あまりにも得意でない話題に眉根を寄せて尋ねれば、

紅ちゃんは急に目を輝かせた。


「私?私はちゃんと考えてあるわ、やりたいことがありすぎて困るくらいだもの」


だから先生に全部お話して、学校出たらどうすればいいか、どこ行ったらいいか聞くのよ、とこちらを見て笑った紅ちゃんは、私にはなぜだか別人に見えた。


いつも一緒にはしゃいでる子だとは思っていたけど、それだけだった。

でも、彼女は恐らくちゃんと自分の意見を持っている。

ぱっと目が輝いたところを見ると、詰まったり言葉を濁らかしたりせず話されると、自分にそれが無いということを微かに思い知らされた。


「……すごいのね、あんたは」

「え?そうでもないよ、思たことを言っただけだもの」

そして、

「千恵ちゃんは、こういうの苦手?」


苦手というか……と言葉を濁す自分とは違うのだ。

曖昧に首を振って、苦手やないけど まだよくわからないわ、と返したら、まあその辺の大人に比べたら私ら子供だものね、と笑い返してくれた。


改めて前を向くと、校門が見えていた。

その傍に立っている金属製の時計を見上げると、

針は始業の五分前を指していた。

どうにか間に合ったが、

こんな心臓に悪い朝はもう御免被りたかった。

朝は寝坊するし、部屋を出ようとすると狙ったように時計が鳴り出して心臓がひっくり返るほどに驚いたし、

なんだかまだ学校も始まる前から不運だったなぁ、と私は肩を落とした。


*


今朝は不運だったが、始まりが不運なら全てが不運、

今日の私は学校でも何かといけない生徒だった。


始業に間に合ったかと思えば当直にあたっていたのを忘れていて初っ端から先生にこっぴどく叱られたし、運動の時間には転んで級友達に笑われたし、言語の時間中 滅多に使わない万年筆を使うと中の液が盛大に漏れるし、とことん不運。


「せめて着物が汚れなかっただけ感謝しないといけないわ……」


終礼後は図書室に籠る紅ちゃんとは朝だけ一緒なので、

帰り道の私は自動的に一人になる。

友達は欲しいがあまりに群れるのは好きでないので他に連れる友達もなく、疲れた下駄をからころ鳴らしながら私は帰路に着いていた。


お道具の入った鞄の革を両手で握り提げながら、

小さな歩幅で家を目指す。

吹いた風が項を通り抜け、すうっと涼ませたのを機会にして、溜め息と共に目を上げた。


不運な私の心がいくら沈んでいようが知ったこっちゃないと言わんばかりに眩しい夕焼け、少し憎々しい程である。

私の手元も頬も強い橙に染めて、今日一日中ずっと昇り通していた太陽もそろそろ帰ろうとしている。

振り向けば私のちんまりとした影が伸びていて、仕事から帰る人ばかり、知らない人ばかりの人通りの中少し物寂しくなった。


一度寂しくなると誰かに甘えたくて、でもそんなこと恥ずかしくて、だけど人前での自分を知っているからこそ出来なくて、結果余計に寂しくなってどうしようもない。

誰かに優しくされたくて 頭を撫でられる時の心地良さを思い出すと、思いがけず涙が出た。

もうそうなると、今日の失敗とは関係なかったはずの自分の嫌なところまでもが頭の中に湧いて出て、目から溢れ、地面に点々をつけた。

段々人通りが少なくなっていくが、見られたくなくて俯き歩いた。

時折風に吹かれる羽織を直し重ねて、

軈て花屋敷の塀を伝って角を曲がり、隣町を通る。


____ そこで、私は己の目を疑った。


この角を曲がった先には車の停留所があって、

それと反対方向に帰れば紅ちゃんが朝迎えに来る辺りに着く筈だった。

いや、筈では無い。着くのだ。流石に私も、自分の家までの道のりにくらい自信がある。


「ここ、……どこ?」


それなのに、口をついて出たのは間抜けな言葉だった。


曲がった先は、そんな見慣れた景色では無かった。

外国の技術を知り先へ先へと進む日本の赤茶色い煉瓦の建物は消え失せて全て灰色に変わっており、建物に沿っていた生垣も柵も塀も色を失い、枯れ、等間隔に並んで立つガス灯の灯も全てが消えている。

おまけに人っ子一人歩いてやしない。


「いつも通りのとこ、曲がったわよね……?」


からころ、……ころ、からん、……ころん…………


歩いていた私の下駄の音も頼りなく止まって、

完全に立ち止まった私はその異様さに戸惑う。

百歩、千歩、おまけで一万歩譲って街の景色が変わったのは置いておくとして、人が一人も居ないのはどうしたことだろう。学校に行っている間に何かあって避難したというわけでもなさそうだ。第一それなら、私達は家族の元へ帰されるべきである。


「不気味……」

何か言っていないと、静まり返った街に自分も呑まれてしまう気がして、呟いた。

しかし、こういう時だけ謎の行動力が沸くのも謎である。消極的な私からすれば 立ち止まり胸を抱いてしゃがみ込みそうなものだが、足はすぐに再び動き出した。

下駄の音が寂しく響く。驚きで涙も止まっていた。


兎に角家の方へ家の方へと歩いていくと、

確かに私の家はそこにあった。

だけどその中に人気(ひとけ)は無く、やはり外観は灰色に変化していた。私の家だけど、私の家ではないみたいに見えた。


「ただいま……」


辺りの空気も相まって流石に少し窮したが、私の家であることに変わりはないし、帰宅しただけであって何も泥棒などでは無いのだからと思い切り、普段通り声をかけつつ内へと入ってみた。


家の中に少し顔を覗かせるも、物音がしない。

しんと静まり返って、「千恵、おかえり」と呼ぶ母の声もしなかった。


街が突然色を失って、それだけやない、

住んでる人まで失って、何もかもがおかしい。

駐在所を探してみたが、驚いたことに駐在所なんか寧ろ根こそぎどこかへ行っていた。

僅かに燻る怯えよりも最早呆気に取られながら、

それでもどこかに、自分と同じように戸惑っている人間が居やしないかと私は歩いた。


灰色になった街の中、文明開化のお祭り騒ぎなんかはすっかりなりを潜めてしまっている。

あれほど騒いでいたのは大人達なのに、その大人達がここから先だけ一人もいない。

泣きながら歩いていた所は確かに、人が居た。

人目を気にしたから、だから、俯いて歩いたのだから。


一日でこんなに失敗させて挙句の果てには街から彩りを奪いひとりぼっちにするなんて、神様はえらい意地悪なことをする。

下駄の鳴る音だけを無人の路に響かせて歩き回り、私はいつの間にか、もっと知らない場所にいた。


先程は色が無くなっただけで

見慣れた道の面影はまだあったが、見覚えすらない場所だ。

来た道を覚えておけるだろうかと背後を振り向くと、先程居た路地が少し向こうに見えていた。それに勇気付けられて、私はそのまま歩を進める。


「……!うわぁ、」

そして、思わず感嘆の声を漏らした。


気づくと、

目の前に大きな大きな鳥居が聳え立っていたのだ。

街外れの神社やお宮さんとは比にならない程の大きさの、朱と漆の美しい鳥居。朱の部分は剥げもせず輝き、下の方はカッキリと、黒色と分かれている。

思ったよりも村の奥の方なのだろうか、上空は黒々とした木に覆われて、ここら一帯薄暗い。だが、そんな中でも朱がよく映えている。


「立派な鳥居なのね……」

私は灰色の街の衝撃も忘れて、それを見上げた。

ぽかんと口を開いて、傍から見たらきっと阿呆みたいな顔つきをしていたに違いない。


からころ。下駄を鳴らして数歩行き、一礼、端の方を通る様気をつけながら鳥居の中を覗き込む。

真ん中は、神様の通り道。神社の約束。

私達人間は、堂々と通っては行けないのだ。


鳥居のすぐ奥、両脇には阿吽の狛犬。

二匹のこれまたすぐ後ろから、小さな灯の棒がずっと向こうまで続いている。暗いせいか、もう全てに火が灯っていた。

見た目は、普通の、どこにでもありそうな神社である。


引き寄せられる様に手水舎に歩み寄り手を洗い、口を濯ぎ、一歩ずつ神社の奥へと歩んでいく。お道具の鞄の持ち手を握り直した。

お道具を持っていたことさえ、ちょっとの間忘れていた。

「し、失礼します……」

誰の気配も感じられないけれど、私は小さく零す。

狛犬の視線に刺され、両脇の灯りに照らされ、その間を

進んで行った。

私の足音と、息遣いしか聞こえない。

初めての場所に心臓がどくどくと喧しい。

狛犬から受けた視線がまだ背中に染み付いている。


風に揺れて音を立てる木々がまるで、私という存在がこの神社に踏み入るのを拒絶している様だった。

しかしそれに反して、暖かな灯の列と神聖なお宮の佇まいは、私を歓迎している様に思えて来る。


そして思えば、突如変わってしまった街並みと現れた見知らぬ神社に気を取られながらもつい先刻泣くほどの気分だったことは忘れていない。

多少自分を虐めたくなって、見知らぬ場所にでもどんどん入ってしまえ、帰れなくても私なんか迷子でもどうでもなってしまえという気にさえなって、私は一番奥のお堂の前まで来て立ち止まった。


端まで歩いて手持ち無沙汰、ふと前を見た足元。


前方の賽銭箱の手前に広がる石の地面に、手鏡がひとつ転がっていた。


「……鏡?」

こんな所に、誰かの落し物だろうか。

お参りする時に袂から落としたのだろうかと、辺りを見渡したのち私は手を伸ばす。

手に取った小さな四角の鏡は、その周りを金色の枠に縁取られ、くるりと裏返した背面は赤色の縮緬に覆われていた。



___ 瞬間、その鏡が、


瞼が焼けるのでは無いかと思うほどに

熱く眩く輝き出した。


直ぐに割れてしまう鏡を思わず取り落とさなかっただけ

偉いと自分で言いたい。

空いている手で目元を覆い隠し、白く染った瞼の裏が元の暗さに戻っていくまで、固く目を瞑って待ち続けた。



意識が回る。

鏡面から捩じ込まれるかの如く、白い光が吸い込まれていく。眩しすぎて失明してしまったらどうしよう、などと思いながら、光の中を揺蕩っていた私は、そこから意識を失った。




目を覚ました私は 立っていた筈が転んでしまっていたが、まだ先程の神社の中に居るらしかった。

並んでいる灯は、鳥居の入口にあったものと同じものだ。


「…何だったの、いまの……」

驚きの拭えないまま呟いて、転んでいる足先から順に視線を上げていった。

朝履いて来た下駄の鼻緒が片っぽちぎれていて、それはそれでまたなんだか悲しい気分になる。

可愛らしくてお気に入りだったのに。


そして何より、ちゃんと家に帰った時母になんと言おうかと思うと気が重い。


何度目かの溜息を連れて鼻緒で止まった目をもう少し上げると、賽銭箱の屋根の直ぐ上に何かが見えた。


……赤い、何?足?……下駄?

白い鼻緒のついた、漆に濡れて輝く下駄。

入口の鳥居の様に、目の覚める様な朱色だった。


そして慌ててその上を見遣ると同時に、私は息を呑んだ。


「気が付きましたか、お嬢さん」

「……はい?」


見知らぬ者が、賽銭箱の屋根の上にしゃがんでいた。

かけられた声は間違いなくこちらに宛てられている。

私は慌てて、賽銭箱の前から距離をとる。


「驚かせてしまったならすみません。

ですがあなたを怖がらせる気は無いので、どうか警戒しないでください」


それなのに、そんな私を見てもその人は陽気な様子で、困った様な笑みを浮かべた。



「お…お賽銭箱の上に乗ったらいけないわ!」


謝られたが言われなくとも驚きに支配されている私は、

こんな間抜けなことしか言えない。


今日の私に我ながらつくづくと情けなくなったが、彼はこの発言を馬鹿にする様子も無く、笑った。

あっはっは、と、人の良さそうな笑みを見せて惜しげも無く大声で。次いで どう扱っていいものかと困惑する私の目の前ひらりと身軽に飛び降りて、


「あなたが言うことは正しいですよ。降りましょう」


落ち着いて見ると、さほど悪い者でもなさそうだった。本当に見た目だけしか知らないが。

外見は若い青年で、明るく見張られた瞳は私の着物と同じ藤の色。髪は綿雪の様に白く、同じく着ているものも白で、そしてそこに映える朱い下駄。

なんとも美しい色ばかりを取り揃えた容貌をしている。

……が、悪く言えばとても浮いている。


「あなた一体誰なの?私、あのごめんなさい、悪さをしようと思ってたわけじゃあ無くて……」


解らないことは沢山あるのに何をいえばいいのかが解らない。見たことない髪色目の色、初めて会うのにいやに打ち解けた様子で話して来る彼に言う。

「面白い娘ですね。

先(せん)の第一声は怒っていたのに、急にころりと変わってしまって」


「そ、それはお賽銭箱に……」

「ああ、あはは。僕が賽銭箱の上に乗っていたからでした。……それで、ふむ、成程。そうですか、次はあなたなのですね。しかも闘うのが一番の方法と来た」


「次?」

「ですが心配になりますね。ちゃんと帰せる様になれば良いのですが」

「戦う?戦うって何とよ?それよりどうなってるの、朝は普通だった街が……街というよりか、私の家の辺りだけ変なのよ。色もないし、私以外誰も居ないし…」


何者なのかは明かされないが、彼はこの無人の中久々に会った人間だ。そう思った私が尋ねると、眼前で当の本人は怪訝そうに首を傾げた。


「何とって……ご存知ないので?」

ひとつ、正直に頷く。

戦うどころじゃなくて、まだ何も解ってやいない。

「それは勿論、邪神の怪とですよ」

「邪神の……怪?」

「おや、本当に何も知らないと見た。まあ人の子なので致し方ありませんか」


藤の瞳が丸く見開かれる。そこを縁取る睫毛も真白い。


「この世には、邪神と呼ばれる悪い物が住み着いて居るのですよ。其奴と戦ってもらうのです」


「でもそれで、どうして私が戦闘うのよ?私、戦いなんかちっとも出来ないわ」


「いいえ、大丈夫でございます」

「だって、……」

「ここは皆、貴女が勝つ、その為の舞台なのです」


彼が広げた手の先、袖のあたりから、ふんわりと白檀の香りが広がった。

それに釣られる様に、改めて周りを見る。

ずっと後ろに、あの大きな鳥居が見えた。

このお賽銭箱のお宮は、入口からそれなりに歩いてきたところらしい。

しかし、おかしいのはその向こうだった。

鳥居の外は、灰色の路地が広がっている筈だった。

それだけでも普段と比べれば充分におかしかったのだが、

振り向いた今、鳥居の先はもう灰色どころか町の形さえすっかり変わってしまっていた。


何層も何層も廊下が重なった、見上げれば首が垂直になるほど高く聳え立つ建物が並び、その建物には一面に丸提灯の列が巻き付いて全体を赤く染めている。

否、先程とは打って変わって、町全体が灰色から赤色に。

何百何千、恐らく何万と輝いている提灯の光が、この町の全ての光なのだ。そしてべっこう飴の様に滑らかな表面をした石の地面は琥珀に輝いている。

折り重なる廊下の所々に、私と似たような姿の人影もいくつか見える。

こんな鳥居から始まったとは思えないほど奥行きのある街が、ずっと先まで、見えなくなるほど奥まで続いている。再びこの鳥居を出れば、そこはもう全く違う街なのだ。


「……嘘、」

「嘘ではありません。僕は、嘘は嫌いですからね」

「違うわ、そうじゃあないの。私の住んで居た街は消えてしまったの?」

今や完全に知らない場所に居る戸惑いと不安の中、尋ねた。


「いいえ、消えてなどいませんが、貴女には少しだけ此処に居て戴きたいのです。

ご心配なさらずとも、貴女が役目を果たして、知るべきものを知ったら直ぐにでも、元の街にお帰し致します。ええ、きちんと色も戻して」



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