第88話 醜聞

「ああっ!?何だと?行商人ごときが、もう一度言ってみろ」


【キキョウ商会】の優男の胸ぐらを、掴み上げたハーン子爵は、自分よりも拳ひとつ分ほど背の高い男を睨みつける。


 すると男は、両手を上げて害意のないことを示すと、首を長くして左右に振りながら静かに答える。


「いやいやいやいや、だってこんな醜聞、王家に聞かれたら一発で終わりじゃないですかぁ」

「まだだ!まだ終ったとらん!ここにいる奴らを……」


 そう言いかけて、ハーン子爵はハッとして慌てて口を噤む。

 すると優男は糸目をさらに細めると、胸ぐらを掴まれたまま、子爵の言葉を継ぐ。


「ここにいる奴らをってとこですかね」

「なっ!?」


 子爵が驚いた隙をついて、男は行動する。

 胸ぐらにある子爵の手首を、自らの両手で固定すると、身体を後方にひねって子爵を地面に叩きつける。

 いわゆる【小手返し】である。


 この間、わずかひと呼吸。


 誰も止める暇もない早業であった。


 地面に大の字になった子爵の顔に、キキョウ商会の男は自らの膝を乗せてその動きを制圧する。


「ふがっ、もがぁっ」

「ああ、無駄ですよ。人が起き上がるためには重心の移動が必要なんですが、こうして人の部位の中で一番重い頭を抑えられちゃ、どんなに力持ちでも立てませんよ」


 そんなことを飄々と説明する男。


「ですけどね。いつまでも、こんなむさ苦しい野郎の顔に膝を乗せているのも、気持ちが悪いので……ほいっと」


 そう言いながら男が指先を宙に彷徨わせると、途端に子爵の身体が動かなくなる。


「なっ、何をしたぁ!貴様あ!こんなことをしてただで済むとは思うな!」


 男が立ち上がり、膝が離れたために話ができるようになった子爵は罵詈雑言を並べる。

 だが、その身体は地面に貼り付いたかのように微動だにしない。


 子爵の言葉を完全に無視して、自らの膝のホコリを払った男は、自らが子爵にしたことを告げる。


「【影縫い】ってやつです。いかがです?私はこれだけは得意なんですよ」

「貴様ぁ!殺して……ふがぁっ!」


 再び大声で叫ぼうとする子爵の顔を踏み潰す男。


 何があったのか、その場にいた人々は誰ひとりとして理解が出来ない。


 変な男が城門の前で騒いでいるので見物に来てみれば、領主がニヤけた男に投げ飛ばされた上に足蹴にされている。


「バカか?アイツ、殺されるぞ」

「やべぇ、ここにいたら巻き添えだ」 

「逃げなきゃ」

「ああ、早く逃げろ」


 身の危険を感じて、蜘蛛の子を散らすように逃げていく人々。


 しばらくすると、あたりにはわずかな人々しか残らなかった。


 相変わらず大声で騒いでいる奴隷商人。

 身動きの取れないハーン子爵と、それを足蹴にしている優男。


 そして、自分たちの主に対する無礼な行為に色めき立っている側近たちと、その者たちだけであった。


 あまりの暴虐に民心は離れているが、一部の側近からは忠誠を誓われているハーン子爵ではあったが、今や彼を助けられる者は誰もいなかった。


 アッサリと側近の背後を取った面々は、何も屈強な男ばかりではなかった。

 戦闘に不向きと思われがちな女子供おんなこども、老人たちもまた側近の首に刃を突きつけていたのだった。


 しかも、その身のこなしは誰も彼もが子爵領の兵士たちよりも、練度が高かった。


「なっ、何者だ……?」


 そう呟いた側近には答えずに、優男は自らの懐に手を伸ばす。


「まずは、身分を証明するものとして、こちらをご覧下さい」

「ひいいいっ!」


 そう告げた優男が、倒れている子爵のすぐ目の前の地面に、懐から取り出した一本の短刀を投げつける。

 突然、顔面スレスレに短刀が飛んできたために、情けない悲鳴を上げる子爵。


「驚いてないで、よく見て下さい。そこにある紋章を」


 優男の言葉に、視線を上げた子爵は驚きに眼を見張る。



 その柄には王家の証である【双頭の竜】と、【大きな瞳】が組み合わされた紋章が刻印されていた。


 双頭の竜の図柄を勝手に用いることは、一族郎党全てが処罰されるほどの大罪。

 ゆえに、これはまさに正当な身分の証と言えた。


 その紋章を見た子爵は愕然とする。


「【王の瞳】……」


 その言葉を聞いた側近は、もうすべてが終わりだと悟る。


 子爵領の不正を明らかにするために、王の直轄部隊が派遣されたのだ、と。


  

 子爵や側近が言葉を失っていると、優男がやんわりと挨拶をする。


「申し遅れました。私は【王の瞳】を統括している【アカザ・キキョウ】。そしてそこにあるのは私共の配下の者です。ごきげんよう皆さん。そしてさようなら」


 

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