第4話 あなたと休日を(後編)
土曜の昼前、トヨシマ市イケフクロ駅前は、トウキョウ湾岸都市のあちこちからやって来る若者たちで賑わう。大海嘯でも水没しなかったかつての副都心イケフクロは、失地回復戦後、トウキョウ圏においてシンジュクと並ぶ大都市として発展しつあった。聳え立つサンシャイン60ビルは復興と不屈のシンボルとしてPRされ、今はその展望台とプラネタリウムを目当てに来る観光客も少なくない。ケイも小等部の頃、学校の科学見学でイケフクロのプラネタリウムを観に来たことがあった。あの時は大変だった。クラスに編入されたばかりのメイハが、人工の星々に手を届かせようと席から跳び上がったのだ。幸い跳んだのは一度きりで、暗かったせいか先生にはバレずに済んだ。隣の席だったから、すぐにしがみついて止められただけだけど。助走もない一跳びで、彼女はプラネタリウムの天井に手が届きかけていた。もう一回跳んでいたら、スクリーンを破壊していたんじゃなかろうか。あまり頑丈じゃないらしいし。
駅前通りの〈反り像〉前、裸の男女が背を反らせて上下につながった奇妙な銅像のため、そう呼ばれる定番の待ち合わせスポットで、ケイは自分の身なりをチェックした。もう何度目だろう。彼女に伝えた時刻の30分ほど前に到着してから。三回目までは数えていた。鏡の替わりになりそうなガラスもないから、自身の目で眺めるだけだけれど。朝の天気予報で今日は初夏並みの陽気らしいから、上は一昨日買ったばかりの白のティーシャツにグレーのサマージャケット、下は普段も履いてるブルーのデニムでまとめた。今朝、姉さんに見せて感想を訊いたところ「まあ及第点てとこかしら。この間まで中等部生だったことを踏まえて。可もなく不可もなくって感じね」だそうな。
行き交う人の喧騒を眺めると、ケイはひどく場違いな舞台に立たされたような気分になる。自分と同年代から上くらいの男女が多く目につくのは、自分がこれからその中の一組になるからだろうか。変じゃないかな僕。不安だ。界獣と戦うよりも。何せ女の子とデートなんて生まれて初めてのことだ。上手くエスコートできるだろうか。
それもこれも、ことの始まりは3日前。ケイがメイハとアヤハと、珍しく早く帰宅した姉と本宅で夕食を囲んでいたときのことだ。
「ウルスラさん、そろそろ帰国するんじゃないの?」
何処で聞きつけてきたのか、姉のシグネがそんなことを言い出した。アジフライにレモンを絞りながら。
「そうだね」
そのことはケイも考えていたことだった。というかここ数日、頭のほとんどをそのことが占めていた。偶然の出会いと、選択と戦い、その終わりが近づいている。この手の剣は、やはり返すべきだと思う。扱うほどに、身に余る力だと思うのだ。
でもその前に、彼女に何かしたいと思った。貸し与えられた力に見合うと思えるものは、自分の中を含めて見当たらないけれど。
僕がいい、と言ってくれた彼女に、何かを。
「帰国前に何かあげるか、してあげたいんだけど、何がいいかな?」ケイは思い切って訊いてみた。こういうことは同性の意見のほうが参考になるはず。「プレゼントか、好きな料理でもと思ってるんだけど」
「一応は考えていたのね。愚弟ながら感心感心」シグネはアジフライにソースをかけて、言った。「でもどうせなら、全部載せでいきなさい。デートして、美味しいもの食べて、プレゼントよ」
パキッとと木の折れる音と、こほんと咳き込む音はほぼ同時。ケイが音を追って見ると、メイハの右手で箸が折れていて、アヤハが味噌汁のお碗を置いてハンカチを口に当てていた。
「どうしたのさ二人とも?」
「すまん。少し力加減を間違えてな」
「ちょっとお味噌汁が熱くて……」
メイハはキッチンに予備の箸を取りに行き、アヤハはコップの水を飲んでいる。
メイハの後ろ姿を見送りながら、ケイは思い出す。そういえば最近はなくなったけど、メイハ、昔はしょっちゅう箸を折ってたよなあ。家に来たばかりの頃、だいたい週に二、三膳は壊すから、慣れるまで割り箸使ってたっけ。
「デートか……でも、僕が誘ったりして引かれないかな?」
ウィンディゴとの戦いの後も、ちょくちょく彼女の夜間の探索に付き合ってはいるけれど、改めてデートに誘うとなると気恥ずかしいし想像しただけで緊張もする。デートってあれだろう? 男女が好意を深め合うためにするアレなわけで。
「大丈夫よ大丈夫。私が保障するわ。賭けてもいい。だから誘ってみなさいな。別に、二人で一緒に遊んで食事してプレゼントするだけでしょ。それとも何? その先に進みたい?」
「そ、そんなわけないだろっ」
「ま、冗談はさておき」シグネは弟を見つめて言った。その視線は、ほんの少し遠い何処かを見ているようで。「思い出作りって大切よ。特に節目の区切りになることは。ケイも何年かして大人になったらわかるから」
そうまで言われてしまうと、ケイにもそれしかないと思えてくる。そうだよな。ちょっと二人で一緒に行動して食事するだけで、別にここ数日の日常と大して変わらないさ。
「わかった、誘ってみるよ」
「その前に、兄さん、デートに着ていく服とか持ってるんですか?」
「あ……」
アヤハに言われて、ケイははたと気づく。余所行きのカジュアルなんて、デニムと適当なシャツ、トレーナーくらいしか持ってない。店の手伝い賃は、ほとんどが参考書やヨロイのメンテ費、オプション購入に消えている。
「仕方ないですね、わたしが見繕ってあげます。仕方ないですから」ケイの表情からすべてを察したように、アヤハは一つ大きく息をつくと言った。「明日の放課後、空けておいてくださいね。ケイ兄さん」
アヤハはにっこり笑っているが、その笑みには有無を言わせぬ凄みがあった。僕、何か気に障ることしたっけ? ケイは思い返すも心当たりがなく。
「ありがと、よろしく」
としか言えず
「やるわねアヤハ」
姉からそんな、意味不明な言葉が聞こえた気がした。
ケータイの時刻表示を見れば、針は11時22分を示している。待ち合わせの時刻まで、あと8分ほどだ。ケイは今日のコースを頭の中でシミュレートする。まずは軽くランチで、それからプラネタリウムを観に行って、それから……
ふと、周囲の物音が小さくなったこと気づいて、ケイはケータイから顔を上げた。行き交う人たちが足を止め、同一の方向を見ている。その視線を追って見て、時が止まった。そんな気がした。
妖精が、歩いている。こちらに向かって。
いつもの若草色のスカーフを、リボンのように結んでさりげなく耳先を隠している。首元にフリルの付いた白のブラウスにワイドのデニムパンツ、ロング丈のレースガウンはシンプルだが、シンプル故に彼女の美しさを際立たせていた。
こちらを認めて、彼女の琥珀色の瞳がいつものいたずらな笑みに変わる。そこでようやく、ケイの中で目の前の妖精のような美少女とウルスラが一致した。
「ケイ、お待たせ!」
「うわっ!」
脚に羽でも生えているかのように、ウルスラが胸に飛び込んでくる。受け止め、少しよろけるだけで済んだのは父の稽古のお陰か。ケイは慌てて体勢を整えると、ウルスラを下ろして抱きかかえた腕を離す。鼓動が速いのは急に動いたせいだ。きっとそうだ。いつものパーカー姿で来るとばかり思っていたのに。不意打ちだ。今朝、僕が先に部屋を出されたのはこのためだったのか。「貴婦人には色々準備があるんだよ」とか何とか言っていたっけ。
「いや、たいして待ってないよ。待ち合わせの時刻にはまだ早い、し……」
顔に集まる熱を悟られまいと、ケイは当たり障りのない言葉を選ぶ。
しかし小さな赤毛の貴婦人は、それがたいそう不満のようで。
「んー」ケイを見上げながら、ウルスラはその形の良い眉根を寄せる。「言うべきことがあるでしょう? 我が騎士」
彼女は貴婦人として扱ってほしいとき、口調と態度が少し変わる。変わった時は、騎士のように振舞うと機嫌が良い。出会って十日ばかりの関係だけれど、ケイは彼女についてそんなことを学んでいた。
「今日もお美しいです、レイディ」
何とかそれっぽい言葉を頭からひねり出す。ケイは騎士のことなど絵本でしか知らない。なので気恥ずかしい真似事でしかないのだけれど。この貴婦人と騎士ごっこも、そろそろ終わるのだと思うと少し寂しい。
「まあギリギリ及第点かな。ケイがエイジアの出身なのを踏まえれば」
「しょうがないじゃないか。女の子とデートなんて、初めてなんだから」
姉さんと似たようなこと言うなあ、と思いながらケイがぼやく。
「ふーん、そう、ボクが初めてなんだ」何気ないケイのぼやきを聞いて、ウルスラが相好を崩した。「今日のボクは機嫌がいいから、加点して満点合格! ケイもなかなかカッコいいよ!」
ウルスラはするりケイの横に移動すると、彼の左腕を抱え込んだ。
薄手のサマージャケットとシャツ越しに、ケイの腕に彼女の体温が伝わってくる。
「ちょ、ウルスラ」
当たってる。色々。柔らかい二の腕とか、押しつけられるとそれなりにある胸とか。見た目よりある胸とか。ケイは彼女のスキンシップに言葉を失う。左腕の感触に意識のほとんどが持って行かれてしまう。
「今日はちゃんとエスコートしてよね、我が騎士」
そんなケイを面白そうに嬉しそうに見上げて、ウルスラは腕を抱えて颯爽と歩き出した。
* * * * *
二人連れだって歩くその姿は、傍から見ればニホン人の少年と異国の少女の、それはそれは初々しいカップルで。
少年少女が歩き出す際のほんの一瞬、メイハは少女と目が合った。その琥珀色の瞳は、見せつけ、勝ち誇るような色をしていた。
「姉さん、缶、潰してます」
妹に言われ、メイハは左手のコーヒー缶を見る。小さなスチール缶が、いつの間にかひしゃげて更に小さくなっている。ほとんど飲み切っていたので、あまり手が汚れずに済んだのは幸いだった。
「サンシャイン通りに向かってますね」
その方向を見もせずにアヤハが言う。メイハが見ると実際にそのとおりで、ケイとウルスラは行き交う人ごみの中を、サンシャイン60ビルに続く通りへと向かっていた。
「プラネタリウムの前に、食事のはずです」アヤハは見えない何かを読み上げるように諳んじる。「通り裏の異人街あたりのお店でしょうか」
「たぶんそうだろうな。ケイの財布の中身からして」
答えながらメイハは歩き出す。そのすぐ傍らをアヤハが続いた。傍から見れば、こちらも兄妹かあるいはカップルのように見える。
メイハはパンツルックに薄いサングラス。アヤハは赤のベレー帽に縁の太い伊達眼鏡で変装していた。変装だけでなく、見た目の関係も偽装するのは男避けのためだ。メイハもアヤハも一人あるいは一緒に歩くと、見知らぬ男が寄って声をかけてくる。面倒でかなわないので、姉妹二人で行動する時はよくこうしていた。ふとメイハは思い出す。そういえば以前、男装姿をマキに見られて「いいよメイいいよー!」と興奮され、何枚も写メを撮られたことがあった。何がいいのか今でもさっぱりわからないが。
メイハは潰した缶を自販機横のゴミ箱へ放りこむ。ケイと異国娘が、予想どおりサンシャイン通りの裏通り、メイハたち学生が呼ぶところの「異人街」へと入っていくのが見えた。サンシャイン通りから一本外れたこの通りは、大海嘯で帰国が困難になった外国人が営業する店が多く立ち並ぶ。USAのハンバーガーショップや、バラタ藩王国のカレー屋等々。もはや気軽に訪れることのかなわない異国の料理が、学生でも手が出るリーズナブルな金額で味わえる。そのためメイハらネリマ市の学生は休日、イケフクロに遊びに行くとなると、大抵はこの異人街をコースに入れた。
この異人街、更に一本通りをずれると、男女が逢瀬に使うホテルが幾つもある。メイハは遠目に、無駄に煌びやかな看板を眺めて思う。ケイはああいった施設に行ったことが、行きたいと思うことがあるのだろうか。いやあるわけない。当たり前だ。そうに決まっている。行かせるはずもない。ケイもワタシもまだ未成年なのだからな。行かせてなるものか。そもそも今日、せっかくの休日を潰してこんな格好で尾行するような真似をしているのも、ケイが不埒なことをしないか、怪しいことをされないか監視するためだ。ブリタニアやUSAはふしだらなことが色々と進んでいるとか聞くしな。
3日前、ケイが早々に夕食を終えて店の二階に戻った後、メイハはシグネに言った。あの異国娘は得体が知れない。危ないのではないかと。
「あら、ケイが心配?」訊き返すシグネは、楽し気にメイハを見つめている。食後のほうじ茶を飲みながら。「大丈夫よ。とぼけて見えて、人を見る目だけは確かだから。あなたたちだってそうだったでしょ?」
「む……」
そう言われてしまうと、メイハは返す言葉がない。初めてケイと出会った時の有様は妹ともども、今、振り返ってみると相当ひどかった。風体的な意味でも、行動的な意味でも。
しかしあの娘は違うのだ。自分たちのような出来損ないとも、ケイやシグネら汎人とも。言いたいことは喉元まで来るのに、上手く言葉にできない自分がもどかしい。
メイハの沈黙を別の意味に取ったのか。シグネは諭すように話し出す。
「よくある短期留学生とか、転校生とかとの思い出作り。大人になってから懐かしく思い出す、少年の頃の記憶……邪魔するのは野暮ってものよ」
シグネの言葉に、そんなものか? とメイハは胸の内で反論する。あのブレナンとかいう娘、間違いなくケイに対してよからぬことを考えているぞ。ケイはあれこれと誤魔化すが、夜ごと連れ回されてもいるようだし。何よりワタシを「Ras gymysg」と呼んだあの逆さまの目つき。言外に「オマエは相応しくない」と言っているのが聞こえた。言葉自体の意味は、アヤハ曰くブリタニアのカムリ地方の言葉で「混ざりモノ、混合物」らしいが……
「ケイを獲られたりしないわよ。幼馴染って、けっこう強いのよ? 姉と弟みたいとか、兄と妹みたいとか言われてたのに限って、唐突に赤ん坊の写真付き年賀状送ってくるんだから。ユキナとかヤヨイとか。気づけば独り身は私とミユキくらいで。あいつら、出会いがなくてーとか言ってた癖に……」
話しながら何を思い出しているのか。語るシグネの目が徐々に生気を失い濁ってゆく。口の端に笑みが浮かぶが、その目はまったく笑っていない。御幡の家で暮らし始めて6年余。メイハはシグネが誰かと付き合っているとかいないとかの話を聞いたことがなかった。
とりあえず、メイハは理解した。あの娘に関してシグネはあまり当てにならない。さっさとアジフライを尾まで口に入れバリバリとかみ砕いて飲み込むと「ごちそうさま」と手を合わせる。
アヤハと相談せねばならない。ケイがよからぬ女に惑わされぬように。メイハは食器をキッチンに運ぶと、手早く済ませるため勢いこんで洗い始めた。
ケイと異国娘がハンバーガーショップに入るのを見届けてから、メイハは屋台のケバブサンドを二つ買った。一つをアヤハに渡すと、自分の分に無造作に齧りつく。
「しかしあの娘、何者なのだろうな?」
サングラス越しの視線の先では、ケイとウルスラが窓際のカウンター席に着いたところだった。
「姉さん、食べながら話すのは行儀が悪いですよ……って、ああもうこぼれてます」
「今更だぞアヤハ」窘める妹の言葉を受け流しながら、メイハは手のひらに付いたソースを舐め取る。「ケイに会うまで野犬と大差なかったんだ。それを思えば、ワタシたちも随分と文明化したものさ」
メイハと対照的に、アヤハはサンドの具材がこぼれないように、器用に千切りながら食べている。
「わたしたちだけならともかく、御幡の家の評判や、児相の心象にも響くから言ってるんです」
「む……」
痛いところを突かれ、メイハは言葉に詰まる。今でも月に一度は児童相談所の査察があり、御幡家が玖成姉妹の生育環境として適正か否かチェックされている。当然、姉妹の素行が悪ければマイナスの評定が下されるわけで。マイナスが積み重なれば、最悪、御幡家から引き離されてしまうかもしれない。食べ方の行儀作法くらいで、とも思うが万一のことも考えてしまう。どう転んでも、親権喪失状態の実父実母の元に戻ることはなかろうが。
メイハはハンカチを出すと手を拭い、ソースをこぼさぬように丁寧に食べ始める。
「で、あの女が何者かですけど」アヤハはサンドを千切る手を止めた。「姉さんには、どう見えてますか?」
「アヤハと同い年くらいの、娘だな。背丈も似たようなものだ」
メイハがハンバーガーショップに視線を戻すと、カウンターの小娘はハンバーガーにケチャップとマスタードを盛りまくり、隣のケイがそれを引き気味に見ていた。身長はケイより少し低いくらいだから、160センチあるかないかか。ニホン人にはまずいない赤い髪に、琥珀色の目。
「顔は、まあ美しいのだろうな。世の男どもはああいった顔が好きそうだ」
その男の中にはケイも入るのか。入るのだろうな、と思うとメイハはひどく胸がざわざわした。なんなのだこの感覚は。
「そうですか。わたしには美しいとか醜いとかが、まだよくわかりませんが」アヤハは紅い瞳を宙空に彷徨わせる。「あの女の足音は、ひどく年を経たものの音。あの女の声は、幾星霜を超えた遥か遠くから聞こえてきます。きっと見た目どおりの存在では……人間では、ありません」
* * * * *
彼女の髪の色は、落日の陽の光に似ている。良く晴れた日の夕暮れに見る、湾の向こうの水平線のように。強く、赤くて。一日の終わりをイメージするせいか、不思議と少しもの悲しくて。
イケフクロ海浜公園の湾を臨む道を歩きながら、ケイはそんなことを思った。三歩ほど先を歩くウルスラが、時折くるりと回ってこちらを向く。その度に表情を変えながら。
「プラネタリウムって初めて観たよ。あれだね、人工の星々も悪くはないね」
「大海嘯の前は、星空ってあんな感じだったの?」
「そうさ。今でもブリタニアのストーンヘンジで観測できる場所がいくつかあるよ。いつか一緒に見たいね!」
笑ったり。
「でも、次に観た映画はいま一つだったかな。後半ぽっと出のヒロイン?が目立ち過ぎだよ」
「そうかな? 勇ましくて、僕はけっこうあの子、好きだけど」
「我が騎士、減点」
眉根を寄せてむっとしたり。
「え、なんで?」
「貴婦人をエスコート中に、他の女のことなんか誉めたらダメさ」
「お話の中の人物じゃないか」
「それでもさ。まあ巨大人型兵器のアクションは見ごたえあったし、塩の大地のラストシーンはボクも嫌いじゃないけどね」
USAのハンバーガーショップで軽食の後、ケイは予定どおりウルスラとプラネタリウムを鑑賞した。45分ほどのコースの内容は、大海嘯前に見ることができた星々と星座、それにまつわる神話物語だった。その後はゲームセンターで少し時間を潰して、映画館へ。上映していたのは、大海嘯前の小説作品を映画化したもの。作品そのものは発表当時、高評価と低評価が真っ二つに割れる異色作だったらしい。ケイは原作から好きだったのもあって、けっこう楽しめた。しかし同伴の小さな貴婦人には、どうやらイマイチだったようで。反省せねば、とケイは思う。その反省を次に生かせる機会が自分にあるのか。はなはだ疑問ではあったけれど。
これで今日の、ケイにとっては生まれて初めて女性を誘ったデートはほぼ終わり。やるべきことは、残すところ一つだけ。ケイはジャケットのポケットの中身を確認すると、ウルスラがこちらを向くのを待つ。
ウルスラは踊るような足取りで公園の手すりに手をかけると、赤く染まる空を臨んでからケイの方を向いた。
「あのさ……」
言いかけて、ケイは言葉を飲み込んだ。夕陽に溶け込みそうなウルスラが、一瞬、今とは違った姿に見えたのだ。
落日の陽射しのような赤い髪はそのままに。背丈がメイハと同じかやや高いくらいに伸びて。面立ちもややほっそりとした、琥珀色の瞳の美女が目の前にいた。湾を染める夕陽を背にした彼女の様は、さながら一枚の絵画のようで。
潮風が彼女の赤い髪をゆらす。ケイが瞬くと、ローティーンのいつものウルスラの姿が重なって見える。
そのことに気づいているのかいないのか。ウルスラは真っすぐにケイの瞳を見つめ、口を開いた。
「ねえケイ、キミさえよければ、ボクと……」
* * * * *
調べろって、言う方はラクよね言うだけだから。
内心で愚痴りながらも、戦術陰陽士の占部ユミはノート端末を叩く手を止めなかった。10日ほど前から始まった、新トウキョウ湾岸都市の異変。都市と市民を界獣の脅威から守る防衛システムは、呼応者による二度の襲撃を受けている。一度目はほぼすべてが破壊され、二度目は何とか限定的な破壊で収まった。三度目もあるだろうと考えるの当然だし、些細な異変も見逃したくないというのも、まあわかる。
「だからって、何もウチがあれこれ調べる必要ないじゃない」
思わず口に出てしまう。10日前から遡って三ヶ月間の、新トウキョウ湾で観測されたD類個体の数と移動パターンを調べ、それ以前との相違点を探れ。顕著な相違が見出されなければ、更に時間を遡れ。ついでに5日前のW類の唐突な消失についても、使鬼の観測情報をまとめておいてくれ。夜勤明け間際に命じられた時には、割と本気でこの隊長に殺意が芽生えた。W類の消失についてはもう報告書を上げたじゃない。これ以上何を調べろってのよ。そんなんだから嫁き遅れんのよ。私、知ってんのよ。海浜警備大時代からの彼に浮気されて、あれこれトラブって第三管区に飛ばされてきたの。
海浜警備隊第三管区ネリマ保安部の観測室で、ユミはコーヒーに手を伸ばした。紙カップごしの温度はもう冷めきっている。膨大なデータをまとめながら、平行して使鬼による警戒網のチェックもしなければならない。観測室中央に置かれた水盤は、今のところ何の警報も発していない。眠い。ああもう兎にも角にも人手が足りない。戦術陰陽士が少なすぎるのよちくしょー。ネリマ保安部に私とアズサとイスズの三人だけってどういうことよ。そもそもこんな調査仕事、第三管区本部でとっくにやってるでしょうに。
ユミが脱線する思考を野放しにしていると、甘い香りが漂ってきた。その方向を振り仰いで見ると
「お疲れ様、占部さん」伊勢一等警士が、カップを二つ持って立っていた。「陣中見舞い、かな」
「ありがとうございます。伊勢警士」
キーを叩く手を止めて、ユミが受け取ったのはホットココアだった。口をつけると、その温かさと甘さが心地よい。
「別に期限を設けられた仕事じゃないんだろ? 適当なところで切り上げればいいのに」
「そうも言ってられないんです。私にも予定があるんで」ユミが眠気と戦いながらもこの仕事を進めるのは、それが理由だった。「変に頭に引っかかることを残して、彼に会いたくないんですよ」
海浜警備隊という仕事柄、取れる休みも不定期だ。ユミは彼と会える貴重な時間を、頭に気がかりな仕事を留め置いて過ごしたくはなかった。
「もうすぐ結納だっけ?」
「はい。来月の予定なんですが」そのことを考えると、ユミは少し思案してしまう。「有休、申請してるんですけどね……」
これまでの警備任務が継続するならまだしも、都市を脅かす異変が続いている中で、海浜警備隊員が休暇を取得できるかどうかはかなり怪しい。
「結納、結婚か……」伊勢がぼんやり視線を宙にさ迷わせる。「俺らみたいな仕事してると、なかなか大変だよな」
「そういう伊勢さんはどうなんです? あまり浮いた話は聞きませんけど」
「彼女いるように見える?」伊勢はおどけて、空いた左手をひらひらと動かした。「前線勤務について7年目さ。そんな暇ないって」
それを言ったら、私も似たようなものなんだけど……ユミは思う。まあ確かに時間のやりくりは大変で、彼も自分もマメな性分だから関係が続いて、ここまで漕ぎつけたのは確かだろう。
この二つ年上の同僚も、それなりにマメで気配りが上手いほうだ。こうして差し入れにもやってくるし。能力はあるのだろうがちょっとアレな隊長の元、第一小隊が比較的高水準で機能しているのは、見えない彼の力によるところが大きい。伊勢にその自覚はないようだけれど。トウカなどわかり易いくらい彼に懐いてる。男女のそれと言うより、大型犬がご主人について回るのに近い気もするが。
「この間の、W類と会敵しそうになった時のことなんだけどさ」伊勢は唐突に切り出した。「何か、気づいたことはない?」
「何かって……報告書に挙げたとおりで、私にも何が」
なんだか、と言いかけて、ユミは強烈な悪寒と吐き気に襲われた。せり上がってくる胃液と内容物を抑え込もうと、咄嗟に両手で口を覆う。気持ち悪さに体が屈んで縮こまり、椅子から転げ落ちかけたところを伊勢に支えられた。ユミの頭の中で、新トウキョウ湾を飛ぶ使鬼たちが一斉に啼き始める。
メヲサマシタ、メヲサマシタ、メヲサマシタ
ユミは吐き気をこらえ、涙が滲む目で観測室中央の水盤を見た。新トウキョウ湾を模した図を覆う水の中で、青い粒子が混沌の渦と化して荒れ狂っている。ものの数秒で渦は治まり、無数の青い粒子塊が湾岸に沿って顕れた。その数、百に留まらず。
「何なんだよ、これ!?」
同じものを見て、伊勢が言った。震える声音に滲むのは驚愕と、それ以上の恐怖。
青い粒子塊は、使鬼が観測したD類特種害獣の位置と数を示していた。
* * * * *
驚愕に見開かれる、琥珀色の目。口を抑えて倒れるウルスラを、ケイは抱え込むように支えた。
「ウルスラ!」
彼女が抑えきれなかった吐瀉物に、一張羅がびしゃびしゃにされてしまう。つんと鼻を衝く臭いには、映画館で食べたキャラメルポップコーンのそれが混じっていた。たくさん食べてたしなあと思い出しつつ、ケイはウルスラの背を撫ぜさする。
「大丈夫、じゃないよね」
食べ過ぎだろうか。とにかく休ませようと、ケイは手近なベンチへとウルスラを運ぼうとして
「……だ、ケイ」
袖を掴まれ、止められた。絞り出すようなその声は聞き取り辛い。ケイは聞き取ろうと顔を近づける。すると、ぐいと思いがけない強い力で引かれ、真正面からウルスラと向き合った。
「〈夜明けの風〉を出すんだ! 急いで!」琥珀の瞳が、これまで見たことのない険しさを帯びてケイを射る。「早く! ボクは平気だから」
ここは湾岸公園の只中、人目だってまだまだあった。
そんなケイの躊躇を、海面を突き破る波砕音が吹き飛ばす。散る水飛沫がパラパラと、通り雨のようにここまで届く。手すりの向こう、僅か数十メートル先で、海棲型界獣が大顎を上向け、夕刻の空に向かって咆哮を轟かせた。
pHh'nnnnnnnnnnnnggggluuuuuuUUuuiiiIIIiiiiiiii!!!!
応えるように、方々より更に咆哮が上がる。重なり合うその咆声は、いくつあるのか数えきれない。いつの間に? どうして? 市の警報だって鳴っちゃいない。ケイの脳裏を疑問が渦巻く。しかし界獣は答えるはずもなく街に迫る。
ケイはウルスラを放し、そっと立たせると駆け出した。具合の悪い彼女の近くでは戦えない。駆けながら、何かを掴むように右手を突き出す。大剣が顕れ、鞘が滑ると銀の輪が巡り鎖が伸びる。絡まり合う暗い銀の螺旋は少年の身体を覆い、巨大な騎士へと変貌させる。
脚に翅を生やしたウルスラが、〈夜明けの風〉の左肩に跳び乗った。
「危機だ、我が騎士。〈
オトシゴって何さ? ケイが思う間もなく、界獣は間近に迫る。
とにかく市街に上陸させるわけにはいかない。背の大剣を手に取ると、ケイは手すりを跳び越え〈夜明けの風〉を駆る。瞬く間に迫る海獣を正面に捉え、黄色に光る刃を振り抜き頭部を断ち割る。海面へと崩れるその背を踏んで跳び、更に前へ。左右から、また僅かに間を開けて海中からの接敵が、翅翔妖精たちからもたらされる。
しかしそれは、まだ近くに来ているものだけだ。その後方から更なる数の巨影が市街に接近しつつある。
「ボクも、今回はナビだけとはいかないか」
〈夜明けの風〉の肩の上で、ウルスラが身を翻す。次の瞬間、その姿は戦鎚を手に甲冑を帯びた戦装束となった。
「もしかして、戦うつもり? 生身で?」まさかと思いつつ、ケイは問う。「まだ具合だって……」
「気遣いは無用さ、我が騎士。こう見えて、それなりにやれるんだぜ」ウルスラは不敵な笑みを浮かべ、戦鎚を右肩に担ぐ。尖った耳先がぴょんと立つ。「キミと出会ったあの夜だって、何度も追い払ったんだ。援護くらいわけない……来るよ! 左は任せて!」
ウルスラは兜を被ると〈夜明けの風〉の肩から跳んだ。脚の翅から光の粉を散らして。
本当に大丈夫なのか? 一抹の不安を覚えるものの、ケイに心を配り続ける余裕はなかった。右から、次いで足元に界獣が迫る。近いのは右。軟体とも脊椎動物ともつかぬ身をくねらせて、右前から界獣が牙を剥いて襲い来る。
短く息を吐きながら、ケイは膝をゆるめて右に倒れ込む。転んだように見えれば僥倖だ。がつん、と界獣の空を咬む音が聞こえる。〈夜明けの風〉が擦り上げるように斬り上げた刃が、界獣の頸部を下から捉えた。
gYi…と呻き一つを残して界獣が崩れ去る。
ケイはそのまま海面を転げて身を起こす。戦えば戦うほどにこのヨロイ、〈夜明けの風〉は身に馴染む。身体に覚え込ませた技術がそのままに使える。手にした剣は思い描いた線をなぞる。三度目の装着でも、これを造ったという彼女に驚嘆せずにはいられない。
海中から次の界獣が跳ね上がり、前肢をかざして落ちてくる。牙から滴る涎が兜に降りかかる。
ケイは右手の柄に左手を添えただ真っすぐに、天を衝くように剣を立てた。
黄の光を帯びた切っ先が、界獣の鼻先に刺さる。重力がその巨体を押し落とす。前肢が〈夜明けの風〉を捉える前に、巨体は砕けて水面に散った。
「ウルスラ!」
ケイはすぐさま小柄な貴婦人の姿を探す。ゴギャン!と響く打撃の音に振り向けば
「Ewch allan !!」
宙を舞い跳ぶウルスラが、牙を剥く界獣の頭に戦鎚を叩きつける。打突の瞬間、戦鎚の鎚頭が巨大化し、界獣の頭をその上体もろとも叩き伏せた。
GyyyYYYYyyiiIII!!
呻くような咆え声を上げ、界獣が水中に倒れ込む。
「とどめは頼むよ、Sir!」界獣の背を蹴飛ばして、ウルスラは〈夜明けの風〉の肩に舞い戻る。「この戦鎚、〈夜明けの風〉や雌鴉の鎗ほどの決定力はないんだ」
ケイは体勢を戻そうとする界獣目掛けて駆け、大剣を振り下ろす。刃が鼠径部から体幹まで潜り込み、界獣の巨体を破砕した。
これで四体の界獣を撃破。残りはどれくらいなのか。騎内の俯瞰映像を見て、ケイは息を呑んだ。
「何なんだよ、これ!?」
海棲型界獣〈深きもの〉を示す無数の青い光球が、新トウキョウ湾岸に沿って浮かび上がる。一見してその数は数十を下らない。そのことはまだ理解できる。海棲型界獣は、太平洋から出現しニホン列島に接近するものだ。
ケイが理解できないのは、界獣を示す青い光球が、今なお唐突に湾上に現れることだ。湾の外から入り込んでくるのではなく、湾内に。何もない海中に、いきなり顕れたとでもいうのか。
「呼び寄せてるのさ」ケイの疑問に、ウルスラが答えた。「南太平洋の海底にある、ヤツらの巣から」
「南太平洋って、冗談でしょ? 距離だって……」
「できるんだよ」告げるウルスラの目は真剣そのもの。いつもの遊び心は欠片もない。「〈深きものども〉が奉仕する高位存在なら、海中に低位のモノを通す"穴"を開けるのなんて容易いことさ。20年前の資料でも、この現象は記録されてる」
ケイにはウルスラの言っていることの意味が半分もわからない。しかし、押し寄せる界獣の大群、20年前の現象という言葉は簡単に一つの事件に結び付く。この国で生まれ育った者なら誰でも同じだろう。
「失地回復戦」
「そうだよ。ケイ」兜の面頬を上げ、ウルスラは頷いた。ケイの発したたった一つの単語に、すべてを理解したかのように。「20年前、キミの国は新トウキョウ湾に顕れたアレと、アレの呼び込んだD類奉仕種族〈
そんな事、ケイは聞いたことがなかった。学校の社会の授業でも何でも、失地回復戦は"大海嘯で界獣に奪われた旧統京圏の奪還"を目指し、達成した出来事だと教えられる。
それが、新トウキョウ湾に顕れた何かとの戦いだったというのか。知らされた事実に愕然となりながら、ケイは翅翔妖精たちから送り込まれる映像を見た。界獣を示す青い光球は、徐々にだが今なお増殖している。
事態が察知されたのか。市街から、けたたましいサイレンの音が鳴り響く。続いて緊急避難警報の放送が流れている。しかしその言葉は、ケイの頭にほとんど入ってこない。このヨロイ〈夜明けの風〉がどれくらい高性能でも、界獣が市街に達する前に、そのすべてを殺し尽くせるとは思えない。数が、違い過ぎる。
「選択肢は、いくつかあるよ」沈黙するケイに、囁くようにウルスラが告げた。「ここで踏ん張ってとにかく〈深きものども〉を殺しまくれば、この一帯の市民の退避と、海浜警備隊が来るまでの時間を多少なりとも稼げる。あるいは到底相手にしきれる数じゃないから、退却するのも現実的かな。いずれにせよ、犠牲者は出るだろう。せいぜいその数が若干変わるくらいさ」
降りかかる理不尽と、突きつけられる選択肢。背後の都市にはメイハがいてアヤハがいて、姉がいて父がいる。タケヤをはじめとした友だちがいて、児相の霧島さんやらお世話になった人たちがいて。手にした武器は強力だけど、大切なすべてを、理不尽から護り抜くには足りそうもなくて。
それでも、とケイは思う。できることがあるのは、幸運なのか凶運なのか。きっと彼女は、僕の答えを知ってて言ってる。
「ウルスラ、やっぱり君は魔女なんだね」
「出会った時に、そうだと言ったよ」
今さらだね、と薄く笑むウルスラに、ケイは言った。
「あれはできないのかな。前にやった『敵対者の力の模倣』とか何とかいうやつ」
「ああ、いいねキミは。最高だよSir Cai」ケイの言葉にその意図を察して、ウルスラが笑みを深くする。「〈
ウルスラが宙に浮く文字をさっと撫ぜると、〈夜明けの風〉の大剣が黄色の光を増し、強くしていく。刃を伝う黄色の光は、炎のようにゆらめき躍る。
「寄ってくるよ、Cai。世界を侵す、祀りえぬ神の手勢どもが」赤い髪の魔女は面頬を下ろし、戦鎚を構える。「さあやろう、我が騎士。カトライスへ駆けた三百騎のように。うるわしのカナンのように。殺して、殺して、殺すのさ!!」
* * * * *
手すりに足をかけたところで腕を引かれ、メイハは我に返った。
「無茶です姉さん!」そう言うアヤハ自身も、珍しくその紅い瞳に動揺を隠せていない。「追って泳いで行っても、界獣はどうにもできません」
界獣の咆哮が轟き合う中。メイハとアヤハの目の前で、ケイは巨大な騎士に変じて海へと駆け出していった。肩に赤毛の小娘を乗せて。
「ケイは一体何をしてるんだ?」誰ともなく訊きながら、メイハは手すりの向こうの光景から視線を外せない。「騎士のようなヨロイで、界獣を斬り殺しているぞ」
「駆動音と形状はブリタニア連合の星辰装甲ハイランダー…… いえ、ナイツに近いようですが。わたしはみたことも読んだこともない。公表されていない騎体ですね」
ブリタニア製のヨロイで、ケイが界獣と戦っている。乙種方術甲冑の勉強などしていることから、将来の進路にそっちを考えているだろうことはメイハも察していた。それがいきなり何なのだ? 異国の娘と遊び歩いていると思えば、剣を振り回して界獣どもと大立ち回りを繰り広げている。
「恐らく、いえ確実にあの女が手引きしたのでしょう」アヤハの声音は静かだが、内に滾る怒りを隠せていない。「兄さんはああいうひとですから。ろくな力もない癖に、誰かを助けようと手を伸ばしてしまう。相手が人でも、人でなくても」
街でサイレンが鳴り響き、公園内の人々が我先にとシェルターに向けて駆け出してゆく。
海上の騎士が、夕陽に向けて黄色に燃える剣を突き上げる。陸に向かう界獣どもが、次々に咆哮を上げて行く先を変えた。一斉に、剣を振りかざす騎士に向かって。
波のように押し寄せる界獣を、ケイの駆る騎士は斬り殺す。殺し続ける。どういう仕組みなのか、刃が一撃するだけで界獣はぼろぼろと砕けて海に消えてゆく。騎士が振るう剣の間を縫って、鎧姿の娘がハンマーを振るう。物語の妖精のように、脚の翅から光の粉を振りまきながら。
ケイは界獣と戦っていて、自分はそれを見ていることしかできなくて。しかし今、この状況で何ができる? 何をしたい? メイハは己に問いかける。ワタシはケイをどうしたい?
その時、世界を貫いたのは音か、匂いか。はたまた色か味か圧力か。聞くもの嗅ぐもの見るもの味わうもの感じるもの生きとし生けるものすべてが、ただ一つのその感覚に塗り潰された。
其は人知の及ばぬ深い深い海の底から。強大なる神の眷属がいずる先触れ。
「何だ、この感じは……」全身を圧するような奇怪な感覚に、メイハは戸惑う。「アヤハ?」
傍らの妹は、目線を宙に置いている。何かを"みている"。メイハがそれを理解した瞬間、後方で甲高い悲鳴が次々に上がった。
言い表せない嫌なものを感じ取り、メイハはアヤハを抱えると横っ飛びに跳び退いた。宙に浮く身をくねらせて、悲鳴の元を見る。
「っ!?」
公園の出入り口付近。門扉の前で、一人の若い女が変形してゆく。女が体を掻きむしるたびに、ブラウスが裂け人のものだった皮膚と肉が剥げ落ちて、人ではない何かになってゆく。蚯蚓か烏賊のような触手がぐずぐずと蠢きながら縒り合いねじれ合って形を成し、飛行など到底できそうにない未熟な皮膜の翼が一本だけ生え伸びる。更に生え伸びた一本の触手が、悲鳴を上げて立ちすくむ女の胸を貫いた。
撒き散らされる血飛沫に、周囲の人々は脱兎のごとく駆け出しその場を離れてゆく。倒れ伏す女の傍らに、目を見開いたまま固まった幼女を残して。
その時、どうしてそんなことをしたのか。メイハは後になってもよく説明できなかった。
メイハは左わきに妹を抱えたまま、そばに乗捨てられていた自転車を右手で掴むと投げつけた。女だった怪物に向かって、全力で。
衝撃に、若い女だった怪物の巨体が揺れ、折れたスポークが幾本も刺さる。泥除けのスチール片が喰い込んで体液が垂れ、地面を赤く濡らしてゆく。
iIIIiaaatttaaAAAAA!!
怪物が呻きを上げ、尖った触手をメイハたちにさし伸ばす。弾丸じみた速さで迫るそれを、メイハは左に跳んでかわした。常人では在り得ない一二メートルほどの距離を、ただ一蹴りで踏破しながら。
怪物の触手は、更に狙いを定めて毒蛇のように鎌首をもたげている。何だか知らんが厄介な。こっちは早くケイの状況を確認したいのに。メイハは胸の内でひとりごちながら、今度は駐車してあった水陸バイクに手をかけた。街は緊急避難警報が鳴り響いている。もう見ている輩はいないよな。
メイハはハンドルを掴むと、頭上に振り上げた。100キログラムを下らないそれを、右腕一本で。ぶつぶつと切れる筋繊維と軋む骨、軟骨が発する痛みに顔をしかめる。この程度、何のことはない。あの時のケイに比べれば……鋭い呼気とともに、バイクを投げる。
ほぼ一直線に飛んだバイクは、怪物にぶつかった瞬間にバッテリーが損壊し大破炎上。蠢く線虫塊のような巨体を青い炎で灼いた。
AAAAAAAAtttAAAaaaaaaaA!!
悲鳴じみた咆声が空気を震わせる。効いている? メイハが次のバイクに手をかけたその時
風が、翔け抜けた。
それが翼持つ人の姿だと、メイハが認識できたのは瞬きの後のこと。白と黒鉄色の翼ある者は、夕陽に煌めく銀の鎗で怪物を貫いた。
a……かすかな呻きだけを残して、音もなく怪物が崩れ去る。先ほどまでの惨劇が嘘のように、跡形もなく。
ちりちりと体内に走る回復痛に眉根を寄せつつ、メイハは翼ある者から目を離さない。今度は何だ? ケイのことといい怪物のことといい、今日は奇妙なことが多すぎる。
翼ある者、槍を持った鎧の女は、怪物の消滅を見届けるとこちらを向いた。
兜で視線の在り処はわからない。しかし周辺に動いている人間はワタシしかいない。メイハは警戒に身構え、妹を抱える左腕に力をこめる。
すると鎧の女は穂先を上げて鎗を立て、両手のひらをこちらに向けた。敵意はないことを示すように。そして躊躇いがちに、兜に覆われていない口元から言葉を発した。
「君、何ものナノ?」
「?」
思いがけない外国訛りの問いかけに、メイハは戸惑う。
すると鎧の女は何かに弾かれるように空を向き、翼を広げて飛び立った。長い銀の髪をなびかせるその姿は、瞬く間に小さくなってゆく。
「何なのだ、まったく」
メイハがごちると、脇でアヤハが身じろいだ。
「姉さん、そろそろ放してください」
「すまんが、しばらくこのままだ。ケイを見に行くには、このままワタシが駆けたほうが早い」
「…あまり揺らさないでください」
「善処する」
メイハは元来た道を駆け戻る。人目はないから全力で。
「聞いてください、姉さん」抱えられたままアヤハが言った。焦っているのか、珍しく口調が早い。「もうすぐ"とんでもないモノ"が来ます。停止しているヨロイがあったら、其処へ。わたしが動かせるようにします」
「とんでもないモノ?」
「わたしにだってわかりません。とにかく大きく、強く、底知れぬほど深く、臨めぬほど高いモノがやって来ます」アヤハはそこで言葉を切ると、言った。胸の内をふり絞るように。「兄さんが、危険です」
* * * * *
左脚に喰いついた界獣の頭を、左手の短剣で刺し貫く。崩れるその様を見届けることなく、ケイは振り向きざまの大剣で背後の界獣を横薙ぎに斬った。
どれほどの間、戦っているのか。夕陽はいまだ赤く燃えている。どれだけ界獣を討ったのか。12匹目までは数えていたけど、もうわからない。乱戦では二刀が有利、なんてこと言っていたのは父さんか。南洋の武術を使うタケヤだった気もする。それも今は納得だ。押し寄せてくる無数の界獣を相手に、気づくと右手に大剣、左手に短剣を使って戦っていたから。
それでも対処しきれない界獣の接近はある。その大半は、ウルスラが巨大な戦鎚で叩き伏せた。あの小柄な体躯のどこにそんな力があるのか。宙で回転する彼女の一撃は、界獣の巨体をやすやすと揺るがした。
寄ってきた界獣は、すべて屠ってきた。ケイはそう思いたかったものの、界獣の中には〈夜明けの風〉を無視するものもいた。その数は決して多くはなかったけれど。これをヘタに追えば、戦線が下がり市街の危険が更に増す。今は、1秒でも早く海浜警備隊方術甲冑部隊が到着することを願うしかない。
ふと、界獣を討つ間隔が長くなっているような気がした。次々に襲いかかるその数が、減っている? ケイが俯瞰映像を確認すると、明らかに〈夜明けの風〉に近づく青い光球はその数を減らし、陸に向かう光球の数が増していた。
同じことに気づいたのか。ウルスラが沈む界獣を蹴飛ばして〈夜明けの風〉の肩に舞い戻る。
「敵のフリの効果が、薄くなってる」荒い息に言葉を切って、ケイが言った。こうして話す余裕ができているのが、その証だ。「どういうことさ?」
「前にも言ったけど、奉仕種族にとって何より優先されるのは、支配者の、主神の意志だ」ウルスラは面頬を上げ、海の向こうを臨んで目を細める。「ボクらが敵対者の紛いものだと気づいたか。どうやらアレは、ボクが考えていたよりも……ぐぶっ」
話の途中でウルスラが口を押さえる。同時に、ケイはそれを聞いた。耳に聞こえたわけではなく、最も近い感覚が音声だったから、脳がそのように認識しただけだ。頭の芯が直接ゆさぶられるような、不快で奇怪なその感覚は生まれて初めて味わうもので。
倒れかけるウルスラを〈夜明けの風〉の右手で支えながら、ケイは見た。
超大な、千年樹の幹ほどの太さのある触手が幾本も、ロケットのように海面から立ち昇るのを。
高層ビルほどもある触手の森が、海上に顕現した。はるか上空に吹き上げられた海水が、辺り一帯に雨のように降り注ぐ。海棲型界獣が、次々に海面から大顎を覗かせ奇怪な咆哮を迸らせる。
PhhhhHhhhHhh'nnnnNnNnnnNNNnnnngggGgGGGGgggLLuuulllLLLluuuluiiiIII mmmGgGggGggGGgllllllwwWwww'naAfhhhhH……
偉大な王を迎えるように。高みの主を讃えるように。
立ち昇った超大な触手が倒れてくる。重力に従って徐々に速度を増しながら。〈夜明けの風〉の頭上へと。
「ぐっ…」
耳から脳をこね回すような、不快な合唱に顔をしかめながら、ケイは〈夜明けの風〉で駆ける。次の瞬間〈夜明けの風〉があった場所を、超大な触手が叩いた。爆音とともに水飛沫が上がって降り注ぐ。豪雨のようなその渦中。落日の赤い光を背にソレは現れた。
無数の超大な触手を蠢かせ、海を割って歪で広大な曲線が盛り上がる。海水の豪雨はすぐに止み、現れたソレは小山のような大きさの蛸のごとき頭部と、巨樹の根の束のような触手を持っていた。
その映像に一瞬、ケイは自身が狂ったかのように感じた。あんな大きさの異常な形状の存在が、目の前にいる事実に現実感が湧かない。目の当たりにしているだけで、ひどく恐ろしい夢を見た後のように、嫌な汗が止まらない。
「これはチャンスだ、我が騎士」べっと口中のものを吐き棄てながら、ウルスラは海中から現れつつあるモノに戦鎚を向けた。「首魁が姿を現した。アレを討てば〈深きものども〉の、界獣どもの顕現は止まる。〈星に伸ばす手〉なら、〈夜明けの風〉の剣なら届くはず。行ける?」
「ああ」ケイは頷いた。アレが皆を脅かす元凶だというのなら是非もない。多少気分は悪くとも、この体はまだ動くから。「行けるよ。要は、アレを叩き斬ればいんだろ?」
「そうとも、Sir Cai。行こう!」
ケイは海上に現れた蛸状の巨体に向かって〈夜明けの風〉を駆った。ウルスラの送ってくる最短ルートを辿って海面を蹴る。時に進路を阻む界獣を斬り捨て、時に迫りくる巨樹のような触手をかわしながら駆ける。
〈夜明けの風〉左肩上で、ウルスラがいつもの光る文字を手繰る。時折俯くのはいまだ気分が悪いためか。
「星辰コード"HYADES"を"ALDEBARAN"へ。深淵発動機潜行、限界深度まで突っ込む」ウルスラが言った。「少し影響がいくと思うけど、我慢してね、ケイ」
影響? と思うのも束の間、ケイを猛烈な吐き気と眩暈が襲った。こらえ切れず、口の端に胃液がこぼれ出る。脳の芯を強く揺らされたような不快の中、ケイは奇怪な光景をみた。高く高く聳え立つ尖塔群、黒い液体で満たされた湖と、その深奥に座す―
「ケイ!」
名を呼ばれ、ケイは視界を取り戻す。眩さに右を見ると、右手の〈夜明けの風〉の大剣が、巨大な黄色い炎の柱と化していた。黄色い光が刃に沿って濃く大きく膨れ上がり、狂乱する踊り子の衣のように激しく躍って翻る。
「ケイ、大丈夫?」
「ああ」頭の奥に鈍く痺れるような感覚はあるものの、他は問題ない。ケイは大剣を、踊る黄衣をまとう柱を〈夜明けの風〉の右肩に寄せた。「少し、気持ち悪くなっただけだよ」
「いい意味でも鈍感なんだね、キミは」半ば感心半ば呆れたように言いながら、ウルスラは手元のタブレットに目を落とす。「もうすぐ剣の効果範囲に入る。全力で―」
その時、高速で伸びてきた触手が〈夜明けの風〉の左肩甲をかすめた。
バランスを崩し、ウルスラは宙に放り出される。ケイは咄嗟に〈夜明けの風〉の左手を伸ばすも、その手はむなしく空を掴む。
「ウルスラっ!」
不意を突かれたせいなのか。ウルスラは脚から翅を出す間もなく海に落ちた。
救助のため、ケイは〈夜明けの風〉の足を停めようとする。しかし
「ボクのことはいい!」海面から顔を出したウルスラが、制止の声を張り上げた。海水を振り払いながら彼女は叫ぶ。「だからっ、一刻も早くアレを、 〈クトゥルーの落とし仔〉を殺すんだ!」
くと、何? 束の間、耳慣れない奇怪な発音に思考が留まりかけるも、近づくにつれて巨大になる威容がケイの思考を埋め尽くす。的は大きい。これまで見た何よりも。黄炎の衣の柱と化したこの大剣なら、向かって振れば必ずどこかに当てられる。
頭上に降りかかる触手を左にかわし、ケイは弾ける飛沫を振り切って〈夜明けの風〉を駆る。横薙ぎの触手をくぐり抜け、更に前へ。次々に降りかかる超大な触手の林を突進する。
そしてほんの一瞬、触手が途切れた。顕わになる触手の源。山のように聳える、いびつに膨れ上がった軟体の頭部。ケイがソレを頭と判じたのは、青く濁った蛸のような一対の眼があったからだ。
「ぶっとばせ! Sir Cai!」
「
途端に、粘るような抵抗に刃が押し戻された。界獣を斬るようにはいかないのか。でも手応えはある。そう判じたケイは、剣に体を乗せて更に斬りこむ。黄の衣の刃はじりじりと少しずつ進み、ブヨブヨと膨れた丸い頭部に触れた。瞬間
―――――!
認識できない奇怪な音声が轟き、ケイの耳から意識を穿ち抜いた。
「あ、がっ……」
意識が飛びそうになりながらも、ケイが剣を手放さなかったのは奇跡に近い。
黄の衣の刃が折れ曲がる。曲がった刃は巨大な軟体の頭部を逸れ、二本の触手を斬り飛ばした。
――――――――!
ウルスラが〈落とし仔〉と呼んだそれが、超大な触手を〈夜明けの風〉に向かって振るう。
何とか意識を保とうと、頭を振っていたケイに為す術はなく。〈夜明けの風〉もろとも触手に弾き飛ばされた。衝撃に、白く塗りつぶされていく視界に思い出す。ああ、前もこんなことあったっけな……
* * * * *
〈クトゥルーの落とし仔〉は己が触手を抱えるように丸めて引っ込めると、元来た道を戻るように海へと沈んでいった。〈深きもの〉たちもまた、付き随うように退いてゆく。
その様を廃ビルの傾いた屋上で眺めながら、ウルスラは海水に濡れたその身を震わせていた。寒さでも恐怖のためでもなく、身の深奥から汲めども尽きぬ泉のごとく湧きだす歓喜に。
「届く、届く、届いた、届いたよケイ。ボクとキミの剣は確かにアレに、〈古く忘れられた統治者〉の一柱、その座す階梯の一段に確かに届いた」
ウルスラはタブレットを出すと、すぐさまケイの生命維持を確認する。心拍、呼吸とも異常なし。脳震盪を起こして意識を失っているだけだ。若干の打撲と挫傷はあるものの、概ね健康体だ。
ほっと安堵の息をつきながら、ウルスラは思索を開始する。ゴファノンと鍛ち上げた剣は、相応しい騎手を得て〈落とし仔〉の触手を斬り飛ばし撃退するまでになった。惜しむらくは〈落とし仔〉の神蝕空間を突き破るまでに至らなかったことだ。〈落とし仔〉は末端とはいえ神の眷属、現状の星辰出力ではまだまだ足りないということか。深淵発動機の限界深度を更に上げるか、あるいは剣の星辰伝導率を上げるかすれば、次こそは〈クトゥルーの落とし仔〉を撃滅、この次元から完全に放逐できるかもしれない。
翅翔妖精がウルスラの意識に周辺の状況を報告する。海浜警備隊の方術甲冑部隊が、沿岸部に展開を開始していた。
間もなく方術甲冑部隊による〈深きものども〉の追撃、掃討が始まるだろう。ケイと〈夜明けの風〉が捕捉される前に回収し、この場を離脱せねばならない。
「さて、と」ウルスラは〈夜明けの風〉が着水したポイントを確認。跳躍の魔法を脚にかけようとして「……はぁ」
と、大きくため息をついた。両足を、水の女たちが抱え込むように封じている。ハイランドの水妖、メロウだ。
「意外と時間がかかったね、フィオナ」
ウルスラが振り向くと、海上に一騎、大剣クレイモアを背負う青い鎧の騎士がいた。その左肩に一人の女を載せて。
潮風が女の黄金色の髪を揺らす。ウルスラを見下ろすその瞳は、幻惑的な虹の色。ウルスラ以上に長く尖った耳は、人ではありえぬ出自を示す。
「手間をとらせてくれたわね、ウルスラ」
静かな声音は、憤懣を隠しきれず。
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