第34話 野乃香の母親が突然家に戻る

 夕方、梅香から電話があった。最近、母親の彼氏の姿を見かけなくなったので、電話も頻繁にはかかってこなかったが、何かあったのだろうか。


「ねえ、ねえ、野乃香! 大変よ~~っ!」

「どうしたの! 何かあったの?」

「大変っ! お母さんが、帰って来たの!」

「え~~っ、そんなあ、まずいわっ!」

「だから、とりあえず早く戻ってきて」

「わかった。学校の帰りにそっちに帰る!」

「そうして」


 学校が終わり、九時を過ぎ一人で家に帰った。来夢と一緒に生活していることを伝えていなかったので、帰らないわけにはいかない。来夢も急に何があったのか驚いていたが、急いで家に戻るようにいった。


「ただいま~」

「ああ~~っ、野乃香、本当に久しぶり! 元気だった?」

「うん、まあ。元気だよ」

「色々あって大変だったでしょう?」

「お母さんの、付き合ってた人が家の前で張り込んでたり、私に迫ってきたり、もう大変だったんだよ」

「迷惑ばっかり掛けちゃったね。私も、もうあの人はこりごりよ」

「それがわかったら、もう会わないでね」

「うん、うん、そうしたいけど……」

「まだ付きまとってるの?」

「う~ん、そうじゃなくて、あんなに私に言い寄って来てたのに、急に態度が変わっちゃって、それも寂しくてね」

「ひょっとして、まだ未練がある?」

「未練とも違うんだけど」

「悔しいのね」


 母親は、珍しく目に涙を浮かべていた。あちこちの女性に言い寄る軽薄な男性を好きになった自分に、嫌気がさしているのだろか。それとも、まだ本当は未練があるのだろうか。そこまでは読み取れなかった。時刻は十時になっていた。


「こんな時間まで学校じゃ、大変ね、野乃香」

「いつもの事だから、慣れてるよ。昼間はバイトだし」

「若いからできるのよねえ」

「そうかもしれないね。お母さんぐらいの年で、この生活をしたら大変よ。だけど、もっと年上のおじさんも来てるの。子供も独立したから、もう一度勉強し直したいってね。偉いなあと思うと、自分も頑張れるよ」

「野乃香も偉いわよ。お金があれば、昼間の学校へ入れたのに、私が情けないばっかりに、苦労させちゃったわ」

「お姉ちゃんがいるから、やってられるんだ」

「梅香も偉いよね。働いて、自分で生活して」

「まあ、何とかね。二人姉妹だから、協力してるんだよ」

「えへへ、お姉ちゃんがいてよかった」

「野乃香ったら……」


 一日中歩き回って、ぼさぼさになった髪をそっと撫で、母親は野乃香を優しく抱きしめた。久しぶりの再会に、こわばった気持ちがほぐれてきた。出て行ってからは、馬鹿な母親、情けない母親、と心の中でけなしてばかりいたが、実際目の前で惨めな姿で現れると、同情する気持ちが強くなった。


「あんたたちは、好きな人はいるの?」

「えっ……」


 梅香と野乃香は、突然の質問に顔を見合わせた。どちらが先に答えるべきか、野乃香が悩んでいると、梅香が先に答えた。


「私は……まあ、好きな人がいなくもないけど?」

「へえ、そうなの。で、付き合ってるの?」

「まだ、付き合ってない」

「ってことは、片思いかな?」

「そんなところね。こっちが勝手に憧れてるだけ」


 そんな人がいることを初めて聞いた野乃香は、驚いていた。しょっちゅう話をしていたのに、そんな話題が出たことがなかったので、本当にいたのかと疑いの気持ちもあった。あら、それとも私が話しやすくなるように、下準備をしてくれたのかと勘繰った。


「それで、野乃香は?」

「私も、クラスに好きな人はいるけど……」

「片思いなの?」

「そうかもしれないし、あっちも好きかもしれないし、分からないの」

「そんなこともあるわよね。はっきり気持ちがわからないってことも」

「二人とも、どんな人か慎重に見極めるのよ。一時の熱で付き合ってても、本当にいい人じゃないと続かない」

「お母さん、実感がこもりすぎよ!」

「まあ、しょうがないもんだわね。バカなお母さんだわ」


 その晩は、母が梅香の家に泊まり三人で夜まで話し込んだ。ここの生活も三人では大変だと思ったのか、翌日には自分で契約していたアパートに戻って行った。二人が今まで思っていた身勝手な母親像は少しだけ崩れ、身近な女性として感じられた一晩だった。

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