夢幻地獄 〜赤い魔物に魅入られた少年〜

コータ

悪夢のような一日

 田んぼや草原ばかりの風景に、ポツポツと小さな家が並んでいる田舎町。のどかで美しい景色を日光がさらに彩っている。


「レイトーン! こっちだよぉ! きゃはは」


 細いたんぼ道を十歳くらいの少年が、犬と共に駆けている。狼を小さくしたような犬は少年によく懐いていて、鬼ごっこをして戯れている。今日は友達がみんなどこかに行っているので、犬しか遊び相手がいなかった。


「今日の僕は早いぞぉ! 補助魔法がかかってんだ。それー! ……?」


 駆けっこコースを進む中、彼は何かに気がついて足を止める。レイトンと呼ばれていた犬も同じくして少年のすぐ隣に座り、木の上にいる何かを見つめた。


「ねえねえ、あれってさあ。鳥じゃないよね?」


 彼は枝の上にいる何かをしきりに観察する。影に隠れて見えなかったが、どうやら人のようだ。


「誰だろ。ねえ知ってる?」


 少年はまたもレイトンに質問をする。不思議そうな表情をしているつぶらな瞳としばらく見つめあってから、彼は勇気を出して声をかけてみることにした。


「こ、こんにちは」


 枝の上に寝そべっている何かは返事をしない。少年は先ほどよりも、ちょっとだけ大きな声を出してみた。


「こんにちはー。こんにちは」


 まだ返事はない。もしかして死体? 緊張のあまり、次の声は彼自身の予想よりずっと大きく村に響く。


「こん、にちはぁああ!」

「のわぁ!?」


 叫び声に驚き伸び上がった体は、枝の支えを無くして真っ直ぐに地面に落下する。


「いててて……」

「ごめんなさい! あ、あの。大丈夫?」


 頭から落ちたように見えたその男は、よく見ればまだまだ若い。おおよそ十代後半といったところだった。


「あー。大丈夫大丈夫。飛び起きるのは慣れているからね。こう見えて」

「こう見えて?」


 眠そうにあぐらをかいている青年は、見かけは騎士のようだった。金髪は肩まで伸びていて、白いプレートメイルを身につけている。こんな格好で寝ていて体が痛くないのだろうかと、まじまじと眺めていると青年は、


「こう見えて丈夫だからさ。もっとゴツゴツした鎧でも寝れるんだよ。寝ることにかけては、俺の右に出る人はいないね!」


 と屈託のない顔で笑った。ズレた自慢だと思ったが指摘はしなかった。


「ふーん。ねえお兄ちゃん、どこから来たの? 名前は?」

「俺はレオ。ずーっと、ずーっと遠い国からやってきたんだ。少しの間ここに泊まっていきたいんだけど、大丈夫かなぁ」

「この村に宿とかないよ。泊めてもらうしかないけど」

「いやいや。ここでいいよ!」


 レオと名乗った青年は右手の人差し指を大樹の枝へ向けた。


「え! ほんとにここで寝るつもりなの?」

「うん。俺はどこでも寝れるんだ。だって寝ることにかけては世界一だから」

「変な世界一だね」

「まーね。褒められたことはないなぁ」


 そういつつ、レオはもう一度大樹を登り始める。いつもはよそ者を威嚇する狼犬は、なぜかそわそわと彼の周りを駆け回るだけで何もしない。会ったばかりなのに好いているようだ。


「僕はヒューイっていうの」

「ヒューイ。いい名前だね。ねえヒューイ、今日だけこの村にお邪魔するからさ。大人のみんなには黙っておいてよ」

「なんで?」

「寝れないから。すぐ去っていくからさ。頼んだよ。俺とヒューイの秘密ってことで。約束だよ」

「ん。わかった!」


 スルスルと大樹の枝まで登りきったレオは、出会った時と同じ姿勢で横になると、すぐに寝息を立て始めた。


「わああ! もういびきかいてる! ホントに寝るのは世界一かも」


 ◇


 この村には娯楽がほとんどない。子供にとっては永遠とも思えるほど、長い時間を感じることもあり、ヒューイはいつも新しい何かを求めていた。

 だから彼は、今日突然村の大樹に現れた騎士風の男、レオが気になって仕方がなかった。そして彼のことを知っているのは、恐らく自分だけなのだ。秘密や約束という言葉が魅惑的に感じられて仕方がなかった。


 お昼を過ぎ、もうすぐ日が落ちようという時、居間でレイトンと遊んでいたヒューイには、一つ気になることがあった。


「あのお兄ちゃん。お腹空いてないのかな。ねえレイトン、お兄ちゃんにリンゴ分けてあげよっか?」


 二階の自分の部屋に駆け上がり、しまっていたリンゴをバスケットに入れる。半分は優しさであり半分は好奇心だった。早る足どりで玄関まで向かった時、彼は急に母親に呼び止められる。


「ヒューイ。今日はもうお外には出ないはずでしょう」

「あ、うん。でも、ちょっとお庭に出るだけだよ」

「じゃあそのバスケットは何かしら。ダメよ! 今日はもう、家にいなくてはダメ」


 母親は険しい顔のまま玄関に立ち塞がると、反感をあらわにしている少年の頭を優しく撫でる。


「隣町や他の町でもね、今とっても怖いことが起こっているの。あなたも聞いたことくらいはあるでしょう。大きな角を持った怪物のこと」


 彼は急に恐ろしくなった。怪物のことなら知っている。二本の角を持ち熊よりもずっと大きな体をしていて、世界中で人間を食べまくっていると言われる存在。でも、自分たちの所にはこないんじゃないか、という根拠のない気持ちも何処かにはあった。


「もし。すみません」


 二人が玄関前で話をしていると、扉の向こうから女性の声が聞こえる。


「あ、はい。どなた様ですか」


 母親が扉を開けた先には、白いローブに身を包んだ金髪の女性が立っていた。


「うわああ! 綺麗なお姉ちゃん」

「こら! ヒューイ。いきなり失礼でしょう」

「うふふ。気になさらないでください。はじめまして、聖女アリシアと申します。少しだけお伺いしたいことがございますの。実は村の皆様全員に周っているのですが」

「まあ! 聖女様でしたの。お手を煩わせて申し訳ございません。お茶くらいしかございませんが、居間でお話をお聞きしてもよろしいでしょうか」


 普段とは違う、かしこまった母親の様子にヒューイは不思議な気分になる。いつも男勝りで豪快にみえ、時として父親以上に剛気な母が、名前を聞くだけでおっかなびっくりしているのだ。


「あ、いえ。お家に上がるのは遠慮させていただきます。急ぎの用なのですが、この辺りに魔物らしきものが現れたりはしておりませんか?」

「魔物……ですか。いえ! 隣町や他の村々ではちらほら話を聞きますが、この村にはまだ……」

「襲撃には遭っていないのですね。私の仲間たちも聞き込みを続けておりますが、今のところ確かに襲われてはいないようです。少しほっとしています。私達はとても危険な上級の魔物、レッドデーモンを討伐するために送り込まれたのですが。出会うことさえ叶わない状況です」


 聖女は細い肩を落とし、目を少年よりも下まで伏せている。自分を責めている様子だった。


「聖女様達は悪くありません。皆魔物が悪いのです。私達にできることがあるなら、何でもおっしゃってください」

「あ、ありがとう……ございます。すみません、私がこんなことじゃ、いけないのに」


 気がつけば細い肩は震え、瞳からは大粒の涙が溢れている。母はつられて泣きそうな顔になり、空気は自然と重くなってしまう。


「聖女様。どうか、お気を確かに。ご自分を責めるのはおやめください」

「すみません。レッドデーモンに殺された皆さんのことを考えると、いつもこうなってしまって」


 彼女はひとしきり泣いた後、ようやく我に帰った。少しばかり長い時間だったため、ヒューイは可哀想なお姉ちゃん、と思いつつも退屈な気分になっていた。


「とにかく、以降の時間は厳重に戸締りをして、一歩も外に出ないようにしてください。いつ魔物が襲いかかってくるのか、想像もつかないのですから」

「はい。承知しました。必ず守ります」

「それから、もう一つ。この街に、奇妙な若い男が現れたりはしなかったでしょうか。金髪で、白い鎧を纏う騎士然とした青年です」


 ヒューイは、あっと声に出そうになり、咄嗟に下を向いてごまかした。聖女が話している奇妙な若い男というのは、きっとレオに違いないだろう。


「さあ……私は見てないです。ヒューイ、知ってるかい?」

「え!? し、知らないよ。全然知らない」


 首をブンブン横に振る。ヒューイはレオとの約束を守りたかった。


「そうですか。お時間をいただき申し訳ございませんでした。では、私はこれで」


 聖女は手を前に組み、祈る動作をしている。向かいにいる母親も同じように祈る。それが終わると白いローブを翻し扉から去っていった。


「大変なことになったねえ。ヒューイ、今日はもう家から出ちゃいけないよ。お客人が来たら私が出るから。わかったね?」

「はーい」


 少年は不満げに唇を尖らせて返事をすると、小走りで二階の部屋に向かう。母はそんな息子の後ろ姿を眺め、一抹の不安を感じていた。


 ◇


「よいしょ、よいしょ」


 二階の自室からロープを垂らし、ヒューイは一階にいる母親にはバレないように静かに降りていく。庭にいたレイトンが興奮して近寄ってくるが、今はそれが厄介でたまらない。


「シー! レイトン、シーってば」


 レイトンはまた遊んでくれると勘違いしているのだろう。でも、今から向かう場所へは一人で行こうと考えていた。そして、できる限り迅速に遂行しなくてはいけない。


「ごめんな。明日また遊ぼ」


 ヒューイは地面まで降りきるとそのまま駆け出した。目的地は村一番大きな大樹。レオが今も居眠りをしているはずの場所だ。


「急がないと。あの兄ちゃん、魔物に食べられちゃうかも」


 彼の右手には小さなバスケットがあり、中にはリンゴが四個入っている。避難させると同時に、何か食べるものをあげようと思っていた。大樹までの距離は長く、既に夕日は落ちて夜になってしまった。


 もう大樹はすぐそこだと思っていた時、


「僕? こんな時間に何しているの?」


 背後から鈴の音を思わせる声がした。ヒューイが咄嗟に振り返ると、そこには先程会ったばかりの聖女がいる。


「お姉ちゃん! あ、えーと。これは……」

「夜はとっても危ないから、お家に帰っていたほうがいいわよ。それとも、何か事情でもあるの?」


 彼女は少年を心配している様子で、近づくとしゃがみ込んで視線を合わせてくる。青い瞳が夜なのに輝いて見えた。


「えーと、えーと」

「何か、私には言えないことでもあるの。無理にとは言わないけれど、話してくれれば力になれるかも」


 ヒューイの胸の奥に、罪悪感が膨れ上がっていく。悪さをして大人達に怒られ、泣かされて反省する形とは違う、もっと深い罪の意識。その気持ちと約束を天秤にかけた時、一体どっちが重いのか解らない。


「あ、あのね。魔物がくるかもしれないって、教えなきゃいけない人がいるの」

「そうだったのね。僕が教えてあげないと、その人は魔物に気がつかないの?」

「うん。だから! 教えたら……それとリンゴをあげたらお家に帰るの。それだけ」

「じゃあ私、僕が用事を済ませるまで見守っていてあげる」


 小さく微笑む聖女の顔に、少年は胸を弾ませてしまう。もしかしたら初めて抱く恋心なのかもしれなかった。気恥ずかしくなり、何も言わずに大樹へ走る。


 息を切らせながら、目的の大樹の前にやってきた少年と、背後にいる聖女は共に上空を見上げている。ここでレオが眠っているはずなのだが、何か違和感があった。普段の大樹とは異なる、奇妙な何か。


「お兄ちゃん! ねえ、お兄ちゃん!」


 呼びかけてはみたが反応はない。暗くなっている為、ここからではよく見えないようだ。


「……ねえ、僕」

「もう! しょうがないなー。起こしに行ってくる」

「待って! 僕!」


 大樹をよじ登ろうとしたヒューイの手をアリシアが掴み、引っ張り寄せるとそのまま彼女は駆け出した。一体何が起こっているのか理解できない。


「どうしたのお姉ちゃん!?」

「いるわ! あの大樹の上に……」

「いるって何が?」

「赤い、悪魔よ。私だけじゃとても叶わない! 応援を呼ぶ必要があるわ。今は逃げるの!」


 ヒューイの背筋が急激に冷たくなり、額から汗が流れる。何処へともなく走り続ける二人は、いつしか村の外れに向かっていた。確かに感じる。何かおぞましい気配を。


「きっと人間に化けて、夜になるのを待っていたのかもしれないわ」

「嘘……じゃあ。あのお兄ちゃんが……」


 あんなにも気さくでカッコよくて、とても戦いなんてできそうにない青年の姿を思い浮かべ、ヒューイは何も言えなくなる。騙されていたのかと考えているうちに、普段使われていない小屋に駆け込んだ。


 二人は藁が敷かれた床に座り、乱れた息を整えようとする。しかしヒューイの心臓の音は小さくなるどころか高まる一方だ。自分たちの他に何かが近づいてきているような気配に、彼は確かに気がついていた。


「そういえばおかしなことがあったの。私の仲間達が何処に行っても見つからないのよ。もしかして……」

「もしかして、何?」


 それ以上は何も言わない聖女に、少年はもどかしさを覚える。暗い室内ではただの息遣いしか解らず、ここで魔物に襲われたらと思うと怖くて堪らない。


「きっと大丈夫、大丈夫よ」


 小さく震え出したヒューイを、聖女は優しく抱きしめた。柔らかい感触にしがみつき、必死に泣き叫びたい衝動を抑える。もし近くにいる魔物にバレてしまったら、もう終わりだと思った。


「あなたは私が守るから、安心して」

「お姉ちゃん……」

「泣いてはダメよ。お友達に笑われてしまうわよ。男の子は我慢しなくちゃ」

「うん」


 きっと大丈夫、きっと大丈夫。アリシアの優しい声が耳元に入ってくる。しかしその声は、いささか震えているような気がした。


「僕ね、近所の友達に約束したんだ。今度木登りを教えてあげるって。難しい字の書き方を教えてやるって」

「あら。先生になるのね」

「うん。隣の家にいるアレックと、ノール。それから、ロドマンとも約束してる。僕、みんなから木登り名人って呼ばれてるんだよ」


 ひそひそ声でヒューイは話を続けようとする。アリシアも恐怖で心がいっぱいになっているに違いない。少しでも紛らわせなくては。彼女の心臓の鼓動まで伝わってくる。激しくなっている。


「お姉ちゃん、大丈夫?」

「ええ。私は大丈夫よ」


 アリシアの体に、先ほどよりも力が入っていることがわかる。緊張を解こうと背中を撫でようとしたが、少年の腕の長さでは届かない。自らを抱き寄せる手に触れ、撫でるようにした。


「ねえ僕。君のお友達、今はどうしているのか、知ってる?」

「え? うーんと。今日はまだ会ってないんだ。多分お家にいるんじゃない」

「私は知っているのよ。僕のお友達の居場所。今はお家にはいないわ」

「え?」


 聖女の口調が変わった。暖かな声色から、まるで氷を頬につけられているような冷たい声に。


 ヒューイは不思議に思い、暗闇でよく見えない聖女の顔を見上げた。いつの間にか彼女は両手を離し、立ち上がって彼を見下ろしている。少しずつなれてくる視界と、木窓からの月明かりによって、聖女の顔半分だけが瞳に映る。


「あなたのお友達はね。みんなここにいるの」

「……お腹?」


 彼は自分でも間抜けな声を出していると思った。瞳を閉じた聖女は、雪のように白い人差し指を自身のお腹に向けている。彼女が何を話しているのか、少年には全く理解が及ばない。


「そう。私のお腹の中で、素晴らしい栄養に変わっている最中よ。騒がれないようにお口を塞いでいただいたから、残念なことに悲鳴が聞けてないの。でもね。僕は遠慮せずに、泣き叫んでいいのよ。そうそう。私ね、実はここに一人で来たの。仲間なんて一人もいない。だって私は———」


 まぶたを開いた彼女の瞳は、赤く光を発している。それは殺意が滲みでた邪悪な輝きだった。


「私がレッドデーモンなのだから」


 少年の思考が動き出す。絶望の歯車が回り始めていることに嫌でも気がついてしまう。


「え、え。ちょ、ちょっと待って。待って! 何? 冗談でしょ? ねえ」


 冗談であるはずがないことは少年にも解っている。砕けそうな腰をあげ後退りをするが、逃げ場はどこにもない。初めから彼を、誰にも知られないように閉じ込めるつもりでここに誘導したのだろう。


「うふふふ。逃げれないわよ坊や。そして誰も助けになんか来ない。あなたを美味しくいただいた後、ここから去ることにするわ。たっぷり堪能させてもらうからね」


 神聖な聖女の雰囲気など欠片も残されていなかった。彼女は不自然なまでに発光した両眼を見開き、徐々に少年に接近してくる。恐怖のあまり歯がカチカチと音を立てている。少年は壁際に追い込まれ、今にも小便を漏らしそうになっている。


「い、嫌だ。誰か助けて、助けてぇえええ!」

「いいわ。その調子よ。素敵な悲鳴をあげて頂戴。い・く・よ」


 アリシアは瞬時に飛び上がり、少しずつ肥大化する体で少年に飛びかかり——。


「があう!?」


 ヒューイの瞳には、はっきりと映っていた。狭い木窓を突き破り、何かがアリシアの体を貫いたことを。それは一本ではなかったらしく、次々と彼女の四肢に突き刺さり、中途半端な落下により深く減り込んでいるようだ。無数の剣が刺さっていた。


「ぬううああああ!」

「え、え!? 何? 何?」


 次の瞬間、閉じられていた扉が一人でに開く。少年は悶え苦しみ動けないアリシアを置き去りにして、なんとか駆け出す。小屋から脱出した彼の目前には、まるで昼寝から覚めたようにとろけた顔をした青年が立っていた。


「やあヒューイ。大変だったね」

「レオ兄ちゃん!? どうして」


 彼は昼間に出会った時と同じように、涼しげな微笑みを見せると、整った長髪を乱暴に掻いた。


「魔物の気配がしたからさ。もしかしたらと思ってね。それにしてもしぶとい奴らだあーなー。全員やっつけたと思ったんだけど」

「あ、ありがと! 僕、レオ兄ちゃんがいなかったらきっと」

「まだ安心しちゃダメだよ。ほら」


 レオが指先を向けると、まるで手品のように小屋が崩壊する。


「う、うわああ!?」


 ヒューイには状況が全く飲み込めなかった。しかし、粉々になった小屋からアリシアが歩いてくることは解る。


「よりにもよって、勇者レオ。お前だったとはな。お前だけは避けたかった」


 彼女はもはや聖女は愚か、人間としての姿でもない。大きなバッファローを思わせる角とギラついた両眼、筋骨隆々であり全身は赤い体毛に覆われ、身長は三メートル以上はある怪物へと変貌していた。


「だが、私は他の魔物達とは違う。人間を殺すことにおいて、私は誰より優れている魔族だ」

「ヒューイ。安心していいよ。そして俺のことは、放っておいて大丈夫だから。じゃ、始めようか」


 目前に見える青年は勇者だったのか、とヒューイは驚きを隠せない。しかし更に彼を驚愕させたのは、レオは戦うと言っておきながら、突如体を地面に預け、まるで眠るような姿勢をとったことだ。


「え? れ、レオ兄ちゃん! 兄ちゃん!?」


 眠るような姿勢ではなく、彼は本当に眠っていた。今戦うと宣言したばかりであるにもかかわらずである。


「何の真似かな? ……ふん! 舐めおって馬鹿めが。死ね!」


 両手の巨大な爪を振り上げ、一瞬でレッドデーモンはレオの側まで駆け寄る。長さも大きさも鋭さも、比類する者が存在しない左右の爪を一気に振り下ろした。


 次の瞬間、激しい金属音とともに爪が途中で動きを止められていた。ヒューイはただ呆気にとられ、自然と後ずさっていた。眠っているレオのすぐ前にもう一人のレオがいて、両手の剣で爪を止めている。


「貴様!? どうなっている……」

「さっきは俺のこと知ってるような口ぶりだったのに。リサーチが足りないな。俺は夢を具現化させて戦うんだよ」


 夢? 少年は呆気に取られて足を止める。今戦っているレオは彼自身の夢であり、実体化された存在ということなのだろう。しかし理解をするには難解すぎたし、幻想的すぎた。


 気がつけば幻想のレオは全身から白い光を発し、レッドデーモンを弾き飛ばす。赤い怪物は狼狽つつも口から炎を吐き出した。しかし火球はレオが瞬時に作り出した氷に阻まれる。


 殺し合いに開始の合図はいらない。白い勇者と赤い魔物の乱戦が幕を開けていた。


「わ……ああああ」


 少年にとって初めてみる、本物の殺し合いだった。運動好きで動体視力にも長けた子供の目でも追いきれないほどの俊敏な両者の動きは、それぞれが一流以上であることを伝えていた。


 レオの一閃は恐らく必殺だが、ギリギリのところでかわされ、レッドデーモンの打撃や噛みつき、斬撃も空を切ってばかりであった。しかし、勇者の一挙手一投足は速度をあげていく。


 気がつけば徐々に赤い魔物は体を斬られ始め、真っ赤な体毛から血が飛んでいる。魔物は追い詰められつつあった。


「やった! いけるよ、お兄ちゃん!」

「ふふふふ! 面白い。私をここまで追い込めるとはなぁ。だが、やはり愚か者だ!」


 直後、突然赤い怪物が大きく体をのけ反らせた。腹が大きく膨らみ、もう一度こちらに顔を戻してきたかと思うと、口内から巨大な黒い光が飛び出してくる。


「ヒューイ!」


 レオは咄嗟に少年の側に跳び、彼を押し倒す形で庇う。黒い光は四方八方に飛び、あらゆるものを一瞬で消失させた。周囲を囲んでいた木々が、何もなかったかのように消え去っている。


「あああ。これって」

「大丈夫だよ。何も心配はいらない」


 レオは人の良さが解るにっこりとした笑顔を見せていたが、その姿には奇妙な違和感があった。


「レオ兄ちゃん?」


 彼の体が透け、徐々に消え始めているのが解った。少年は透けた勇者の体の向こうで、実体のほうが血を流していることに気がついた。上半身を爪でえぐられ、早くも血溜まりができている。


「ははははは! お前には守らなくてはいけないものが多すぎたなぁ。子供も自分の体も守りながら戦うなど、ハナから無理に決まっている」


 レッドデーモンはヒューイを殺そうとしつつ、本命はレオの実体だったのだ。少年はレオが殺されたことに気がつき、心の中が掻き毟られるような感覚に陥る。怒りと恐怖がない混ぜになり、狂ってしまいそうだった。


「さて、ではいただくか」


 レッドデーモンは状態を屈め、腰を抜かしたヒューイを今度こそ食うべく走る。馬よりも遥かに早い豪脚は、もう逃げる術さえないことを知らせていた。


 迫ってくる。赤く醜い怪物の顔が。巨大すぎる体躯が。沢山の人を食い殺してきた長い牙が。少年の短い人生がもう終わる。


 絶望感で小さな胸を一杯にしたヒューイは、せめて何も直視したくなくて瞳を閉じた。歯を食い縛り、体を丸くして固めている。噛みつかれる? 体をもがれる? 爪を立てられる?


 しかし、そのどれもがいつまで経っても行われない。悪魔が嬲り殺すことを楽しんでいるのかもしれない。少年は恐怖に怯えながら、ほんの少しだけまぶたを開けた。


「あ、え?」


 今の状況をどう理解すればいいのか。レッドデーモンはなんとかこちらに駆け寄ろうとしているが、どんなに足掻いても前に進めず、後退もできない。粉砕された小屋や森、地面に至る前で、少しずつ歪な形に曲がっていく。


 やがて世界は完全に崩壊し、ただ真っ白い世界に少年と魔物だけがいる。しかし、一人と一匹だけの世界に、意外な来訪者が現れた。


「大丈夫大丈夫。俺と一緒にいる限り、君は殺されることはないんだよ」

「レオ兄ちゃん! なんで!? だってさっき……」


 レッドデーモンもまた、瞳を大きく広げて驚きを露わにしていた。


「馬鹿な! 貴様は私が殺したはずだぞ!」


 少年と魔物のちょうど中間に立っている勇者は、涼しげな瞳を倒すべき存在に向ける。


「殺したあいつも夢の中、ってことだよ。小屋から出た時、君はもう具体化した俺の夢の中にいた。この世界に引き込まれた以上、君の勝ち目はゼロだ」

「ゆ、夢だと? あの戦いが全て、夢?」

「俺は具体化した夢の中に人を引き込めるんだ。それだけが与えられた力であり、決して抗えない魔法。ああそうそう! 君に逢いたいっていう人達がいるんだ。紹介するよ」


 まるでその一言が合図だったかのように、世界が漆黒に変わる。誰かがレッドデーモンの肩を掴んでいる。胴体や頭、身体中を掴まれ、赤い魔物はかつてない恐怖を覚える。


「誰だ!? 一体誰を———」


 振り返った魔物は絶句するしかなかったのだろう。そこには今まで自分が殺して、食ってきた人間達の亡霊がいた。彼らは生前よりもずっと力強く獰猛に思えた。あり得ないほど強い腕力が、魔物の四肢を引きちぎり、どこかに引きずり込もうとしている。


「ぎゃおおおおお! やめろ、やめろやめろ。やめてえええ!」


 断末魔の悲鳴と共に、全身を八つ裂きにされた魔物がどこかに引き摺り込まれていく様に、ヒューイは改めて怯えるほかなかった。やがて黒い世界も終わりを告げ、気がつけばまた森の中に座り込んでいる。


「いやー。あれは相当恨まれていたみたいだね。まさかここまでの悪夢とは」


 呆気に取られていた少年に、勇者は手を差し伸べる。


「ね、ねえ。よく解んないんだけど、アイツはどうなったの?」

「あの通りだよ」


 レオの手を掴んで立ち上がったヒューイは、小屋があった方角に視線を移した。黒い夢の世界で行われたことと同じように、魔物は全身を引きちぎられてただ無残な死体へと変わっている。


「魂まで酷い目に合っているかもしれないね。まあそれは、自業自得ってやつだからさ。しょうがないね」

「……」


 そう言うとレオはヒューイの頭を優しく撫でる。しばらく呆然としていたヒューイは、ようやく自分が助かったことに気がつき、白い鎧に抱きついて泣きじゃくった。


 ◇


「お兄ちゃんは、あの怪物をやっつける為に村に来たの?」


 後日、ヒューイはレオの見送りにやってきた。彼は大人達から、魔物を倒したことを心の底から感謝されていたが、お礼などは一切断っていた。早々に土地を立ち去ることにしたらしい。


「んー。まあ、確かに魔物の匂いみたいなのは感じていたんだ。いるんだったら倒しておかないとな、とは思ってたけどね。どっちかと言うと、ついでかな」

「ついで?」


 秋の風のように爽やかな微笑を浮かべつつ、青年は頭を掻く。


「言いにくいんだけど、ちょっと逃げてるんだよ。面倒な人が多いんだ。大人って」

「お兄ちゃんあんなに強いのに、逃げる必要なんてあるの?」

「勝てやしないよ。到底かなわない相手なんだ。この悩みは、なかなか理解してもらえないけど」


 たった一日の付き合いでしかないけれど、ヒューイはレオに強い好奇心と憧れを抱いた。眠ることで戦う人なんて、きっと他に誰もいない。


「お兄ちゃんって、やっぱり変わってるね!」

「みんなに言われるよ。変人勇者って呼ばれたこともあるくらい」

「ねえ、また会える?」

「会えるんじゃないかなぁ……あ!」


 遠目に見えた何かに、彼は一瞬目を見開くと、


「じゃあ! またな!」


 と手を振って一気に駆け出していく。ヒューイは呆気に取られつつも、とにかくいっぱいに手を振った。


「え? あ、じゃあねー!」


 あっという間に小さくなっていく背中。その俊敏さには驚くばかりだ。だが、その後を追いかけ猛然と駆ける馬車の姿を見て、ヒューイはまたもビックリしてしまう。馬車は一台だけではなく、何台も走っているようだ。あれではレオであっても追いつかれるのではないか。


「レオ様ー! お待ちくださぁーい!」


 荷台から叫び声を上げているのは、どこかのお姫様ではないかと思うほど綺麗な女性だった。しかも、他の馬車から見える顔も、皆若い女性のようだった。


「到底かなわない相手って、もしかしてあのお姉ちゃん達かな? レイトン、どう思う?」

「ファア……」


 レイトンは呑気に欠伸をしている。間抜けな返事をされたようでつい笑ってしまう。

 数年後、勇者に憧れを抱いたヒューイもまた冒険者となり、世界を駆け回ることになった。

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