とある男子学生の平凡なる日常
片瀬京一
勉強には集中力が大事
現代を生きる僕らには何かと誘惑が多い。
面白い漫画や小説はスマホを使って何時でも簡単に読めるし、TVドラマや深夜アニメだってリアルタイムで視聴しながらSNSで語りたい。
とはいえ、そんな誘惑に負けてばかりでは、ただでさえ自慢できる成績ではない僕の成績なんて、みるみる落ちてしまう事だろう。
僕らの祖父母の時代よりも昔から色々と意見が交わされているけれど、人物を批評するのに手っ取り早くて簡単な『学歴』という指標がある現代社会――いわゆる学歴社会において、僕の学校での成績は全てにおいて優先される。
改めて言う事でもないが、僕は平凡な人間だ。
何も「こんな社会を変えたい!」などと大きなことを言うつもりはさらさら無い。そういう大きな事は、僕よりも優秀な人材に任せておけばいい。
とは言うものの、自分が望む未来を手に入れるためには、それなりに努力が必要なのも事実であり、両親の庇護のもと学生という非常に弱い立場であるこの僕には、学歴という虚構をより高く持ち上げる為、日々机に向かい勉強する事を強いられているわけなのである。
「はぁ……面倒だなぁ」
『学習机』というその名称に対し、あまり『学習』という用途に使った覚えのない机に向かいながら、僕は何度目かのため息をついた。
正直に言えば、僕は勉強が嫌いだ。
友人に言わせると「お前、眼鏡のくせに頭が悪いよな」と馬鹿にされる位の学力しか持ち合われていない。
僕に言わせれば視力と学力には何の関係性もないのだが、世間一般では『眼鏡=頭がいい』という図式が成り立つらしい。偏見もいいところだ。
そもそも勉強なんてちっとも楽しく思えないし、テスト前だというのに机に向ったところでやる気もあまり出ない。
今もダラダラと教科書を広げ読んでみるものの……。
「なんかちっとも頭に入ってこないわ」
という状況である。
時刻はすでに夜の10時を回り、夕食後の満腹感と入浴後の心地良さに、睡魔が僕をベッドへと誘惑している。
その結果、テストに備えて早々に机に向かったまでは良かったものの、勉強の方はちっとも捗っていなかった。
僕は持っていたシャープペンを机の上に放り投げて眼鏡を外すと、目頭を揉み解しながら背もたれに寄りかかった。僕の体重を受け止めた背もたれが、不愉快そうにギィと音を立てる。
何とはなしに天井を見上げると、いつも通りシミュラクラ現象によって人の顔の様に見える天井の染みが、虚ろな目で僕を見下ろしていた。
しかし、そこで僕は小さな違和感を覚えた。
「あれ? 染みが……1つ多い?」
いつもであれば、いびつな楕円形の染みが両目と口の様に配置されているのだが、今日はそれに加えてもう1つ染みがあるのだ。
不思議に思いながら僕は机に置いた眼鏡に手を伸ばし、妙に黒光りするそれを改めて凝視してしまい思わず絶句した。
「ちょっ……まっ……」
強張る身体に鞭を打ち、刺激しない様にそっと距離を取る。
それは脂ぎった光沢を持ち、浅黒い身体をした昆虫だった。
長く細い触角を左右に揺らしながら、天井に張り付いている。
その次の瞬間、何の前触れもなくソイツが落下してきた。
「うおぉ!」
反射的に身を捩りそれを回避すると、僕の強引な回避行動によって押し退けられた椅子がひっくり返り大きな音を立てた。
「夜中に何騒いでんの!?」
「ごめんなさい!」
母親の怒声に反射的に謝罪を返しながら僕は周囲を伺う。
なにしろ全人類の敵と呼んでも過言ではない相手が攻めてきているのだ。
よりにもよって、この僕の部屋に!
「どこ行った!?」
落下の軌道的に……アイツが落ちたのは学習机の上のはずだ!
そう考えた僕は、警戒しながらそっと机の上を見る。
あちこちに古い変身ヒーローのシールが貼られたこの机は、小学校に入学する時に両親が買ってくれたもので、勉強する時はもちろん、僕の数少ない趣味の一つであるプラモデル作りをする時にも使っている年代物である。
「ここには……いないな」
机の上に置かれた教科書やノートをずらしながら用心深く観察するが、ヤツの姿は見当たらない。その代わり武器になりそうなものを見つけた。
「これなら硬さもちょうどいいな」
それは、以前買った雑誌に付いていた付録のポスター……が入っていたダンボールである。そのダンボールを一度広げて固く巻き、棒状の武器とすると、もはや勉強どころでは無くなっていた僕は、改めてヤツの捜索を再開する。
「机の周りには居ないみたいだし……」
今度は壁にハンガーで掛けてある学生服をそっと捲ってみる。
ここにも居ない……。
ふと視線を感じチラリと目を横に移すと、壁を背にして可愛い女の子が立っていた。頬を赤らめ恥ずかしそうな表情で僕を見つめている。
そんな彼女を見て僕も一瞬躊躇したけれど、意を決して彼女にそっと手を伸ばした。
光沢のあるスベスベの髪を撫でる様に手を滑らせ、彼女の頬や首筋、胸のあたりを念入りに調べていく。そのままゆっくりと下半身へ移動する僕の手を、彼女は身じろぎ一つしないで受け入れてくれている。
そして、ほっそりとした彼女の太腿が覗くスカートに手をかけると、僕はそれを一気に捲り上げた。
「ここにも居ないか……」
そこには周囲の壁と同じ壁紙の貼られた平面があるだけだった。
安堵の息を吐きながら捲りあげた彼女のスカートを元に戻す。
「てっきりポスターの下にでも隠れてるのかと思ったんだけど……」
ここに居ないとなると……床か?
六畳一間という限られた面積の中に学習机とベッドが置かれた僕の部屋は、それだけで結構な面積を取られてしまい、それほど多くの床面積は残っていない。
それに加えて本棚まで設置してあるのだから、それはもう狭いものだ。
僕はフローリングの床に無雑作に積み上げられたマンガ雑誌を避けながら、さっきの騒ぎで落としたものだろう、床に散らばったプリントをそっと捲る。
「ここにも居ないか……ってこれ親に見せないとダメなやつじゃん! あっぶねぇ……明日朝一で母さんに見せないと」
忘れない様に『集金のお知らせ』と書かれたプリントを机の上に置く。
その時、偶然視界に入った物に驚き、思わず二度見してしまった。
「う、うそだろ……」
僕の視線の先には、壁にかけられた丸いシンプルな形状の時計。
示す時刻は11時58分――24時間表記で23時58分になる所だった。
「もうこんな時間かよ……やばいな……まだ全然勉強してないのに……」
思わず神に祈りたくなり天を仰ぐ。
だけど、神官でもないただの学生である僕に天啓など当然降りてこないし、時を止めたり戻したりするなんていう便利な特殊能力もない僕では、今更過ぎ去った時間はどうしようもなかった。
するとその時、カサ、カサカサ、と音がして、僕は咄嗟にそっちを見る。
そこには不気味な羽音を響かせながら迫り来るヤツがいた。
「こんにゃろ!」
気合いと共に振り回した武器(ダンボール製)に、確かな手ごたえを感じた。
放物線を描いて飛んだ物体が、たまたま進行方向にあったゴミ箱に吸い込まれて消える。
「やっとくたばったか……」
今、僕の視線の先では、ゴミ箱の中でアイツの死骸がみじめな姿をさらしている。手に持ったダンボールには汚らしい体液がこびり付き、荒れ果てた部屋は激闘を物語って……いや、これはいつも通りか。
僕は人を切った侍が刀を拭う様にティッシュでダンボールを拭うと、丸めてゴミ箱へ放り込んだ。ダンボールも一緒に捨てたいところだけど、ダンボールは資源ゴミ扱いなので燃えるゴミには出せないのだ。ゴミの分別は大事!
……こうして戦いは終わった。
だがもう一つ。勉強という戦いが僕を待っている。
明日の事を考えるとあまり時間は取れないけれど、やれるだけやっておこう――。
――数日後。
あの時のテストが帰って来た。
「今回は良く頑張ったじゃないか」
「はい! ありがとうございます!」
採点が終わった答案用紙を受け取る。
あの戦いの後、戦いの興奮からなのか妙に集中力が増していた僕は、今回のテストで最高点を叩き出していた。
「アイツのおかげで大勝利だなぁ」
ほくほくの笑顔で点数を見ながら自分の席へと戻る。
前に馬鹿にしてきた友人にテストを見せびらかし大いに自慢してやった。
最高に気分がいい。
人類の敵を倒し、テストでもいい点が取れたのだ。
こんなに嬉しいことは無い。
まぁ、自分の部屋に出るのは遠慮したいところだけど……。
でも……別の場所でなら……。
その時、教室内で悲鳴が聞こえた。
とある男子学生の平凡なる日常 片瀬京一 @kyoichi-katase
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