カーブミラー越しの風景

真白涙

カーブミラー越しの風景

 横断歩道を渡る時は、白線の上しか歩いちゃいけない。黒いところにはワニがいて、そこに触れたら噛みつかれるから。

小さい頃、よくそんなことを考えては遊んでいたなぁ。今思い返すと、たかが横断歩道を渡ること一つによくそんな楽しみを見いだせていたな、と感心してしまう。

 高校二年生の僕にとって、この横断歩道は馴染み深いものだ。小学校、中学校、そして高校も途中まで同じ方面だからランドセルに背負われていた小学一年生の頃から約十年間、学校に行く日は毎日この横断歩道を往復している。

 いつも何の気なしに歩いていたこの横断歩道が特別なものになったのはいつだったか。思春期に入って一年で十二センチ身長が伸びた。そしたら、見えるようになったのだ。

 何がだって?

 カーブミラーが見えるようになったのだ。

 大通りに面しているこの十字路には、安全のためにカーブミラーが取り付けられている。ミラー部分で形は丸く、支柱はオレンジのペンキが塗られたなんの変哲もないカーブミラー。

だけど、そこには映るのだ。

 上半分ほどは空が下半分は横断歩道と奥には街の風景が映っていて、右寄りに電話局の赤い鉄塔がそびえたっている。

 ちょうど小高い所にカーブミラーがあるから、目を凝らすと奥には住宅街までことができる。

 そこに映る絵がなんというか、こう、エモい。

 青い空と白い雲の晴天の日もいいし、灰色の空に色とりどりの傘の花が咲く雨の日もいい。でも、僕が一番好きなのは夕方の空、ピンクと紫と水色の水彩画みたいなグラデーションが綺麗な時間と、雲一つない快晴の青空が綺麗な日だ。


「おはよー」「おはよ」「ねぇ、数学の宿題むずかしくなかった?」「大問二とか全然わかんなかったよ」「ママ―、おしっこ行きたい」「え!?保育園まで我慢できる?もーそういうことは家を出る前に言ってってば」「はい、これからお伺い致しますので」


 何号線だか忘れちゃったけど、結構大きな道路なので横断歩道の待ち時間は長めだ。ここを待ち合わせにしている学生。お母さんと手を繋いだ小さな男の子。つま先の尖った革靴を履いているサラリーマン。様々な人がここに居て、行きは学校や職場、帰りは家へと向かう為に交差する。

 そんな日常の、だけど同じシチュエーションは二度として起きない日常の光景を、こうして待っている間にカーブミラー越しに見るのが僕は好きだ。

 今日の天気は晴天で、雲一つないさっぱりとした青が空一面に広がっている。こんなに天気がいいと学校なんて行かずにピクニックをしたくなってしまう。おにぎりやサンドウィッチでも持って、芝生の上にブルーシートを敷いて寝転がったらきっと気持ちがいいんだろうなぁ。

 


 空にはグレーの綿あめみたいな雲が所せましと並んでいて、しとしとと柔らかな雨が降っている。僕はなんとなく詰襟のホックを緩めた。


「最悪、靴浸水したんだけど」

「うわっ、替えの靴下持ってきた?」


 ショートヘアの女子はビニール傘、ポニーテルの女子は水色のストライプの傘を差していて、そんな会話をしながら信号が変わるのを待っている。


「持ってきてるけど……帰りにまたこの靴履くのヤだ~」

「あ~、帰りまでには乾かないだろうねぇ」


二人を見ていて気がついた、そうかもう衣替えの季節か。女子は二人とも僕の学校の夏服を着ていた。

 カーブミラーを見上げてみる。灰色の空でも赤い鉄塔は真っすぐに伸びている。スーツ姿のお父さんと保育園くらいの女の子が手を繋いでやってきた。黒い傘とピンクの傘。ミラー越しに傘を見ると色とりどりの花が咲いているみたいに見える。

 花と言えば、この交差点にも花がある。僕は花に詳しくないからよくわからないけど、白くて尖った花びらが六枚ある綺麗な花だ。

 少し萎れているけれどこの雨で元気になってくれるといいなぁ。そんなことを考えながら空を見上げる。灰色の雲は分厚い。まだまだ降りそうだ。

  ピッポ―、ピッポ―、ピッポ―。

 最近、この横断歩道に音響装置が付いた。目が不自由な人でも安心して横断歩道を渡れるように、とのことだろうか。ついでにガードレールも新しくしたらしく、ぴかぴかで白い新品のガードレールは雨を弾いて佇んでいる。

 信号が変わったので、女子学生二人組も、お父さんと手を繋いだ女の子も向こう側に歩き出していく。

 僕も早く学校へ行かないと。




 手~のひらを太陽に~透かしてみれば~真っ赤に流れる~僕のちしお~、なんて幼稚園で歌った童謡を思い出す。歌詞通り、夕日に手のひらをかざしてみれば陽の光も相まって、ほんのり赤く透けて見えた。

 ワンッ、グルグルルゥ~!

 穏やかな気持ちが一転、突然吠え出した犬に僕は盛大に肩を揺らした。


「こらっ、吠えないの。お行儀良くしなさい」


 威嚇するような犬の鳴き声に飛びのいてしまった。品の良さそうな女性がリードを引っ張る柴犬をキツイ声で咎める。小さい頃、大きな犬に噛まれてからというもの、犬は苦手だ。こっそり距離を取るも、毛を逆立てて牙をむき出しにしながら威嚇してくる。

 信号が変わって、飼い主さんに引きずられるように犬が連れて行かれてから僕はホッと胸を撫でおろした。あ~、怖かった。僕が何をしたっていうんだろうか。

 やるせない気持ちになりつつも、ガードレールを見上げる。

魚眼レンズのような円に映し出された世界は今日も鮮やかだった。

千切れ雲が浮かぶ茜色の空。優しいオレンジ色の光が柔らかく降り注いで街を照らしている。オレンジ色に照らされている数々の家は、これから帰ってくる住人をただ静かに待っている。

 空の色が刻一刻と変化していく。オレンジ色からピンクへ、そして薄紫へと静かに夜へ移り変わっていく。

 僕も帰らなきゃ。今日の晩御飯は何かなぁ。そんなことを考えながらもカーブミラーに映る綺麗な風景から目が反らせなくて、どこにでもあるような風景なのになぜか心がきゅうっと狭くなるような心地がして日が暮れるまで切り取られた美しい風景を見つめていた。




 雲一つない完璧な青空。朝からこうも天気がいいと、なんだか前向きな気持ちになれる。肺一杯に空気を吸い込むように背伸びをした。うん、気持ちがいい。

 ガードレールに映る世界はまるでアニメ映画に出てきそうなくらいに綺麗な風景だった。どこまでも続く青い空、目覚め始めた街がせわしなく動き出す。赤い鉄塔は今日もピンと背筋を伸ばしていて、頑張ろうと思わせてくれる。


「うわっ、今のトラックスピード出し過ぎ」

「ここ大通りだから飛ばす車多いよね」


 そう話すのはあの日、雨の日にも見かけた夏服の女子生徒二人ぐみだった。


「なんかさーここ、最近出るらしいよ?」

「出るって、何が?」

「出るって言ったらあれでしょ、オバケ」

「ちょ、そういうのやめて、ホラーとかホントにダメだから」

「そこのカーブミラーの下に血みどろの学ランの男の子が」

「ギャー、やめて!塾ある日は夜にここ通るんだから!」


 ショートヘアの女子がこっちを指差したので僕はびっくりしてしまった。失礼だな、急にショートヘアの子も怖いものでも見るかのように僕を見るだなんて。

 ちょっとだけムっとしながら信号が変わるのを待つ。白くて花びらが尖った花は新しいいものになっていた。ここのところ、花の数が減ってきている。どうしたんだろうか?


「隣のクラスの子って知った時はホントに驚いた。事故からもうすぐ一か月くらい?」

「一か月はとっくに経ってるよ。あの日は先生に出席番号で指名されたら日付もちゃんと覚えてるもん。もうすぐ四十九日じゃないかなぁ?」


 なんでだろうか、胸のあたりがむかむかする。


「めちゃくちゃ酷かったらしいね」

「近所のおばちゃんが現場ちょっと見たって言ってけどもうグロかったって」


 脚がぐらぐらしてきて、自分の力で立っているのが難しいほどに気持ちが悪い。思い出したくない嫌な思い出を、無理矢理引きずり出されているような感じだ。


「家出て少ししたところから、この交差点まで約百メートル引きずられたんでしょ?」

「警察もテレビもめっちゃ来たし、ニュースにもなったけどこんな形で町の名前が有名にはなって欲しくなかったよねぇ」


 通い慣れた通学路。振り返ってゆっくりとカーブミラーを見上げる。綺麗な風景を見れば、少しは心も安らぐだろう。

 澄み渡る青い空が広がっている。その下には当たり前だけど、見つめ直せばかけがえのない日常の見慣れた街並み。

 お喋りを続ける夏服姿の女子二人組とママチャリの前と後ろに子どもを乗せたお母さん、スマホ見ながら足早に歩くサラリーマン。鉄塔は今日も真っすぐに天に向かって伸びている。


 そこには、僕だけがいない風景がいる。

 僕が死んでから明日で四十九日目だ。そろそろ、ここを離れなければいけない。

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