アセンデント叙事詩
あきたけ
第1話 「物語の開始」
巻頭詩
人は、かつて鬼だった。
二本の角を生やし、牙があり、凶悪で、血も涙も無い最悪の種族だった。
しかしある日、一匹の鬼が服を着た。
その服は小柄で、角も無く牙も持たない貧弱な姿だった。
鬼たちはその服を「人」と名付けた。
かくして「人」は鬼の世界に広まった。
現代は、「人」の脱ぎ方を知らない鬼たちで溢れている。
『アセンデンド叙事詩』
ふと気が付くと、僕は玄関の段差に腰を掛けて、たった一人でぼうっとしていた。
そうして「あれ? ここはどこだろう」と思い辺りをキョロキョロ見回した。
見覚えはある。でも、自分の家ではない。
地面にはモスグリーンのタイルが並べてあって、壁には絵画が飾ってあった。花の絵だった。僕は、何故かその花の名前が「アカンサス」というものであることを知っていた。アカンサスは芸術の象徴である。「芸術への愛」「美を好む」という花言葉を持つ。
僕は立ち上がった。ここがどこであるのか、なぜこんな世界にいるのか確かめるべく、この家の中を探索しようと試みた。
壁は砂刷りで、ところどころに剥がれ落ちている部分があった。落ちた砂の粒たちは、フローリングに散らばっていて、まるで宇宙に広がる無数の孤独な星たちだった。
壁に触ると、ぼろぼろと砂が落ちる。この砂は、もう決して元に戻ることは無いのだと、何故か、少し悲しい気持ちになった。
短い廊下を渡る。腕を横に広げれば、両方の手の平が壁にくっ付くくらいの広さ。
少し歩いて突き当りの角まで来たとき、ふわりと柔軟剤の匂いが漂ってきた。僕はうっとりしながら、その香りのする方向へ足を進めた。洗面所まで来たとき、風呂場で換気扇の低い音が鳴っているのに気が付いた。
その奥に、少女が一人、ぽつんと立っている。九歳か、十歳くらいの華奢な少女である。
白色のワンピースを着ていて、セミロングの黒髪からは花のような良い匂いがした。少女は僕に気が付いてハッと目を見開く。そしてこちらに語り掛けた。
「ねえ。飛ぶんだよ、一緒に」
少女はそう言った。僕の目をジッっと見つめながら、訴えかけるようにそう言った。
「……飛ぶ? どこへ?」
僕は唖然としながら、彼女に問いかけた。
「……下だよ」
少女は床を指さした。フローリングの隙間から微かに「ゴォーッ」という重い音が鳴り響いていた。轟音である。空中を切り裂くような奇妙な音域だった。僕は不思議とその音に引き込まれた。
「耳を近付けて。音をよく聞いて」
少女は両方の手で僕の頬に触れた。その小さな手のひらは、ひんやりとして気持ちが良く、それでいて少女の温もりが、頬を伝って僕の心の深層部に入り込んでくるようだった。
そういう温かさを、確かに感じた。
「……君は、誰なの?」
と、僕は聞いた。答えは無かった。けれども、それはすぐ近くまで迫っているような気がする。もう少し、あと少しで到達する。
依然としてその音は鳴りやまない。むしろ徐々に強くなっている。
「何なんだ? この音は」
僕は気になって、少女の手から逃れると、地面に顔をくっつけた。まるで大空を巨大なジェット機が通過するような音。
隙間から、かすかに風を感じる。僕の髪の毛がふわりと舞った。
「……ほら、もう到着だよ」
少女が囁く。僕は目を見開く。
そのとき視界に入ったこの青白い小さな部屋は、凄まじいほど懐かしくもあり、神秘的でもあった。
ああ、落ちる。
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