第38話『飛耳長目①-ヒジチョウモク-』
三人は既に暗くなった歩道を歩きながら文学部棟を目指す。が、顕人は内心昨晩のように彼女が襲って来やしないかと不安になった。この暗闇に乗じて機会を伺っているのではないか。そう思えてならない。
しかしながらこちらは今三人いるし、何より晴臣がいる。彼女も身体に大きなダメージがあるだろう。そう自分に言い聞かせながらも、顕人はやや足早に歩き二人を少し急かした。
***
文学部棟の宮准教授の部屋につくと、宮准教授と
しかしながら茉莉花の姿は何処にもない。
晴臣が「茉莉花ちゃんはどうしたんですか?」と訊くと、宮准教授は「帰って来て一番がそれか」と辟易する。
「姫は少し前に保護者が迎えに来た。お前達こそ……凄いことになってるな」
宮准教授はやってきた三人、主に服がずぶ濡れの晴臣を見て笑うべきか心配すべきなのか悩んでいるような曖昧な笑みを浮かべる。
「色々ありました」
晴臣は苦笑しながらまだ湿ったままのパーカーを脱ぐ。下に着ていたTシャツは濡れていないようで、晴臣は取り敢えずパーカーを近くのパイプ椅子にかける。
「函南も愉快な仲間達に加わったのか?」
宮准教授は午前にはいなかった函南がいることに意外そうな顔で函南を見る。函南は「何だか随分面白そうなことになってるみたいなので」と得意気に笑う。
「お前も大概こういう話題が好きだな」
宮准教授は思わず呆れるが、顕人としてもこの部屋に小金井がいることが意外だった。それに彼女は何処か浮かない表情をしていたし、午前に話をした時彼女が室江の喘息のことで何か言いかけて終わっていたのが気になっていた。
それについて聞いても良いのだろうかと、顕人が悩んでいると先に宮准教授が口を開く。
「で? 結局どうなったんだ?」
宮准教授は土産話を求めるかのような軽い様子で問いかけるので、顕人は困り顔で彼を見る。
「実は」
「センセー、鵺が出たんです!」
「化物の影が社会学部棟の壁に映ったんです!」
「『美須々さん』が鵺を従えてるみたいになってて!」
「コバルト総督が吠えたら消えちゃったんです!」
顕人がどう説明したものかと悩んでいると、晴臣と函南が交互に先程の社会学部棟での出来事を口々に語り出す。
何だその説明は。脊髄反射的に話す二人に顕人は呆れる。小金井は『美須々さん』の名前が出て顔を曇らせる。
宮准教授は「はあ? 鵺?」と怪訝そうな顔をしてから「取り敢えずあった事、順番に話せ」と溜息をついた。
顕人と晴臣は今日の出来事を、できるだけ詳細に話した。はじめは嬉々として聞いていた宮准教授だったが、田村八重子、『あんりちゃん』、『美須々さん』、通り魔が同一人物であることが判明した辺りから顔色悪くなり、彼女が荒瀬川を殺害しようとした頃には頭を抱えていた。そしてそれは小金井も同様で顔色は真っ青だった。
二人共、まるで就職先が決まっているものの大学の単位が足りず卒業できないことを知らされた学生のように悲痛な面持ちだった。
その後彼女の逃走、からの軽トラック転倒、そして社会学部棟に偶然映った鵺に似た影。
全ての話を聞いて、宮准教授は一言「言い得て妙だな」と呟く。その言葉に顕人と晴臣は顔を見合わす。
「何が、言い得て妙、なんですか?」
晴臣が尋ねると、宮准教授は「鵺のことだ」と呟きながら、それまで事務机の方で楽な姿勢で話を聞いていたがゆっくりと立ち上がりスチール本棚へ近づく。そして昨日晴臣が読んでいた『平家物語』とその横に収まっている資料を一緒に引っ張り出す。
宮准教授は長机に資料を広げると、『平家物語』をぺらぺらと捲りだす。広げられた資料に、昔に描かれた妖怪画集のカラーコピーがありその一枚が目をギョロつかせて描かれていた鵺だった。確かにこの絵に良く似ていたと顕人も思ってしまう。
「さて。……じゃあ函南」
「はいッ! って、私ですか?」
「まあ簡単な講義だ。お前は鵺がどんな生き物か知ってるか?」
そう宮准教授に問われて函南は「えっと」と困惑しつつも考える。
「いくつか違う動物の部分があるんですよね? 尻尾が蛇で、頭が猿? 身体が虎で、手足が熊、でしたか?」
「色々惜しいな。じゃあ小金井、解答教えてやれ」
「顔が猿、身体が狸、手足が虎、尾が蛇です」
「完璧。でも別の文献では背が虎、手足が狸、尾が狐だったりする。鵺は夜の鳥と書き、夜にヒョウヒョウと寂しげで不気味な声を漏らしたという。今ではその声はトラツグミという鳥の鳴き声ではないかと言われてる」
「「へえ」」
晴臣と函南は感嘆する。
「平安時代は当然今程夜に明かりなんてないし、暗闇に蠢く何かを見て恐怖した人間がそれぞれ『見えた気がした物』を口にした。あれは猿だ、あれは狸だ。そうしている間に暗闇に蠢く正体不明の妖怪は人間に恐れられ『鵺』としての形を得て、こうなったんだろうな」
宮准教授はそう言いながら『平家物語』を更に捲っていく。
「さて、此処で今回の件で不気味に存在を主張していた女がいたわけだ。函南は彼女を『田村八重子』と言い、荒瀬川周辺のヤツは『あんりちゃん』と言い、小金井は『美須々さん』だと言った。そして西澤と滝田の前に現れた『通り魔』。人間だって角度によってその人間の見方というのは変わってくるが、これはもう別人だと言ってもいい。彼女は正しく、
宮准教授は漸く鵺が出てくるページを見つけて、その文を指でなぞる。
宮准教授の話を聞きながら顕人は彼女のことを考える。
彼女は、半年、そう言っていた。半年荒瀬川を見ていたと。もしかして半年も、自分ではない誰かを演じ続けていたのか。それも誰にも気が付かれず。
正気の沙汰じゃあない。
彼女の行動の動力は、やはり室江にあるのだろう。
でも何が彼女をそうさせるのか、その理由がわからないのだ。
「先生、『美須々さん』って一体誰なんですか」
顕人は呟く。
脳裏には彼女の、自分達を親の敵の様に睨みつけてくる鋭い眼差しが貼り付いている。彼女はまだ止まらない気がする。
いや、違うな。もう自分の足では止まれない所まで来ているのかもしれない。
それは身体にダメージを負っているにもかかわらずあの場から逃げた事で明らかだ。
早く止めなくてはならないのだ。
顕人はそう思いながら、懇願するように宮准教授を見た。
彼はまだ何処か口を重そうに考えていたが、小金井に視線を向ける。小金井は宮准教授の視線にすぐに気が付き黙って彼を見る。宮准教授は、小金井が自分の視線に気が付くと一瞬だけ函南を見てすぐに顕人に視線を戻す。小金井はまるで心得ているかのように立ち上がると、「彰子、飲み物買いに行くから手伝ってくれない?」と函南に声をかける。
函南は何故自分に白羽の矢が立ったのかわからない様子だったが、同じ文学部の先輩である小金井に声をかけられたのであれば行くしかないという使命感か「わかりました!」と素直に従う。
恐らくこの件に関して函南は部外者であるからの処置だろう。『美須々さん』の正体はそれ程に機密性が高いことを伺わせる。
小金井と函南が宮准教授の部屋から出るのを見送ると、宮准教授はまずは重々しい溜息を漏らす。
「念の為に言っとくが、この事は他言するなよ」
そう釘を刺される。
『美須々さん』とはそれだけの人物なのか。顕人と晴臣も思わず息を呑む。
宮准教授は「正直俺も、どうしてあの人がこんなことしてるのか本当にわからん」と頭を掻きながら険しい顔をする。
「あの人は、
宮准教授はこの世の終わりのように呟く。
その言葉に晴臣は硬直し、顕人は思わず「え」と声を漏らす。一瞬自分の聞き間違いかと思ったが、宮准教授が深く頷くのでそれが聞き間違いではないことを知る。
実母。
母。
母……?!
漸く言葉の意味を理解して、顕人と晴臣は「えぇ?!」と叫び声をあげた。
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