第37話『震天動地⑫-シンテンドウチ-』

 大きな鵺の前で、彼女はただ西澤顕人にしざわあきと滝田晴臣たきたはるおみを睨んでいた。フードを脱いだ彼女の表情はまるで幽霊のようにやつれているように見え、『あんりちゃん』や田村八重子の時の顔とはまた違う顔に思えた。

 その姿に、顕人は一年前の晴臣の姿と重ねてしまった。

 何処か虚ろとした様子も、纏っている雰囲気も、とても良く似ていた。

 彼女の様子に顕人は呆然としてしまった。

 周囲の人達は社会学部棟に映る化物の影に唖然としていたが徐々に焦りと悲鳴が漏れ出す。

 そのざわめきに顕人も焦り出すが、焦るばかりで身体が動かない。

 彼女は相変わらず顕人と晴臣を睨みつけながら、一歩、二人に踏み出す。

 きっと彼女にとって顕人と晴臣は自分の目的を邪魔する『敵』なのだ。荒瀬川と同じく排除しなくはならないものになったのだ。

 逃げるか抑えるか、兎に角動かなくていけないのに、顕人はまたも動けずにいた。そして今回は晴臣も。彼はまだ大きな鵺の影に呆気に取られていたのだ。

 いよいよピンチか。そう思ったときだった。


 白く大きな犬が社会学部棟の広場にやってくる。

 昼に文学部棟の一階で見たあのサモエドだ。

 サモエドは一目散に顕人や晴臣、そして学生自治会や『自転車愚連隊』の方へ走ってくると、何故か彼女に向かって何度も吠える。

 文学部棟ではとても大人しく穏やかだったサモエドがこんなにも吠えていることに顕人は驚いてしまう。

 ふと、顕人が顔をあげると、それまで社会学部棟の壁に蠢くように映っていた鵺は、突然現れたサモエドの影も横に映り込み何度も吠えられている。こうみたら怪獣大戦争の様相を呈してきているように思えてしまった。

 それを見ていた晴臣も思わず声を出して笑う。


 彼女は突然やってきた吠えてくる白くて大きな犬に思わず後退る。あんな大きな犬に吠えられたらそりゃあ顕人も怖いと感じるだろう。勢いの衰えることなく吠えまくるサモエドに彼女はついに背を向けて走り出す。

 よたよたとした足取りで、今度は中央広場の方へと走っていく。

 顕人と晴臣も追いかけようとするが、どういうわけかサモエドは吠えるの止めて二人の近くまでやってくる。そして先程からは考えられないくらい穏やかな様子で「わん」と一度だけ吠えた。

 晴臣はサモエドの前に膝をつくとサモエドを思い切り撫でながら「コバルト総督、もしかして助けに来てくれたの?」と嬉しそうに笑う。サモエドも大人しく一頻り撫でられると晴臣の手をするりと離れて、今度は顕人の前へやってきてじっと見上げてくる。まるで、お前も褒めろ、そう言いたげに目を輝かせていた。

 そのまん丸の目で見つめられて、顕人は恐る恐るサモエドの前に座り込み恐る恐る手を頭に乗せる。犬を飼った経験もないのでどういう風に撫でてよいかわからないのだが、サモエドは顕人の手が頭に乗るとその手に自分の頭を押し付けるように頭を揺らす。

 この犬、相当人馴れしてるな。

 顕人はそう思いながら、彼女が走り去った方を見る。


 彼女は、本当に去年の晴臣に良く似ていた。

 その様子に『もしかしたら』とある予感が過るがすぐに顕人はその可能性を忘れようとした。

 そんなときだった。


「ちょっと二人とも?」

 不意に聞き知った声に呼ばれて顕人は驚いて振り返る。

 そこには紺色のツナギの函南彰子かんなみしょうこが立っていた。彼女の後ろには彼女と同じツナギを着た学生自治会のメンバーや『自転車愚連隊』のメンバーがいた。彼らは皆怪訝そうに顕人と晴臣を見ている。

 そりゃそうだ。いつの間にか両陣営とは違う生徒が混じっているのだから。

 顕人が思わず愛想笑いを函南に浮かべていると、顕人の足元にいたサモエドは一度だけ「わん」と鳴いて何処かへ走っていってしまう。

 まるで、これは面倒だ後は任せた、と言って逃げていったようにも見えて顕人は驚く。

 この両陣営に囲まれて一体これからどうなるのだろうと顕人は焦るが、函南の後ろから紺色のツナギを着た男子学生がやってきて、彼は顕人以上に焦った様子で口を開く。


「君ら、さっき軽トラックに乗ってた女子の知り合いか?」

 そう問われて一瞬顕人と晴臣は顔を見合わせるが、正直に話すと色々厄介な気もして顕人は曖昧に笑いながら「知り合いっていうか何というか……」と言葉を濁す。晴臣も流石にこんな大人数に囲まれて珍しく硬直しており、無言でただ頷く。

 きっと軽トラックの弁償とか、何勝手に運転してるんだとか、人がいるところに突っ込んできて危ないだろとか、そういうお怒りが待っているのだろうと顕人は想像する。

 責任者は誰だ。

 そう問われても自分ではないと言い通すだけどの気概を見せられるか。

 うん、無理。

 顕人はこの大人数に既に心が折れていた。


 しかしながら、紺色のツナギの男子学生が言いたいことはそんなことではなかった。

「あの子、怪我していたんじゃないのか? 病院で診てもらった方が良いと思うんだけど何処に行ったか見てたか?」

「スピード出てなかったけど、転倒したからなあ」

「何処いったんだろうなあ」

 皆口々に、いなくなった彼女を心配する。

 さっきまで武力抗争していたのに、良い人たちだな、と顕人は他人事にように思う。というかさっきまでモップやさすまたで戦っていたのに、この人たちはよくよく見ると怪我という怪我はしていない。どうなってるんだこの団体は。


 紺色のツナギの男子学生は、顕人達が先程の女子とは無関係だと判断し、「じゃあ見かけたら病院に行くように声をかけてあげてくれ。後一応、『サモエド管理中隊ウチ』にも顔出すように言ってくれ」とだけ言うと、とりあえず転倒した軽トラックを戻そうと男子学生を集める。

 学生自治会の男子学生は勿論、何故か『自転車愚連隊』の男子学生達も協力しようと軽トラックの周りに集まりだす。

 本当にさっきまで武力抗争していたのかと問いかけたくなる。

 しかし顕人達から興味が逸れたのは有り難い。このままこの場を立ち去ろう。

 男子学生が言う通り、彼女の身体も気になる。

 昨晩の右手の怪我に加えて、蹴りと手洗い場への激突。あれだけでも結構な大怪我のように思えたが、止めに軽トラックでの転倒。

 走り去る足取りもふらふらだったことから、もう満身創痍なのは明らかだ。

 なのにまだ逃げてしまった。

 何とかして保護して病院に連れて行かないといけないが、彼女は何処へ行ったのか。そもそも話が通じる感じじゃあなかったのも気になった。

 どうしたものか。

 そう考えたとき、やはり困ったときの宮紡みやつむぐ准教授だ。一旦文学部等に戻って彼の意見を聞こうか。

 そもそも『美須々さん』の正体が気になった。

 もうこんなことになっては、宮准教授も流石に隠さないだろう。

 顕人は晴臣の肩を叩いて合図すると、社会学部棟の広場から撤退しようとする。


 だが。


「私は帰って良いなんて言ってないわよ?」

 そう言いながら、函南は二人の腕を掴む。

 顕人と晴臣は、面白そうな話の気配を察して微笑む函南に曖昧な笑みで返す他なかった。

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