第34話『震天動地⑨-シンテンドウチ-』
それはまるでホラー映画のようなシーンだった。
夕陽の中、座り込んで地面を殴りながら項垂れる男性、そしてその背後に佇む全身黒い服を纏いフードまで被った黒い影のような姿。
彼の背後に浮かぶ影はただただ不気味だった。
彼女は何をするつもりなのか。
もうこれから何が起こるか顕人には想像がついていた。彼女は一週間前に鉄パイプで荒瀬川を病院送りにしているのだ。そんな彼女が彼を呼び出したのだ。その上背後を取っている……。
もしかして、彼女は荒瀬川だけはこの場で殺害するつもりではないのか。
そんな恐ろしい予感が顕人の脳内に広がる。だけどその妄想に何一つ確証が得られなくて、顕人は一歩も動けないでいた。
顕人は、昨晩の出来事を思い出してしまっていた。
昨日受けた恐怖が頭の中に充満して足が動かなかった。多分晴臣は顕人が声をかけるのを待っているはずなのだ。晴臣に合図できれば、きっとすぐにでも走っていくだろう。だけど顕人はその合図すら出せずにいた。
ただ息を飲んで、黒い影の動きを注視するばかりだった。
彼女は荒瀬川の背後に転がっている松葉杖を音を立てることなく拾い上げ、大きく振りかぶる。
流石に真後ろで人の気配があることに荒瀬川も気が付いたのか、慌てて振り返るが既に遅く、彼女は振りかぶっていた松葉杖を、まるでバッターボックスに立った野球選手の如くバットでボールを叩くように、荒瀬川の頭部をぶん殴った。
「っ!」
その光景に、顕人も晴臣も息を呑む。
荒瀬川は殴られた箇所を押さえて地面に転がるが、まだ意識は残っているようでどうにか這って逃げようとして、地面に転がるクラッカーやダンボールを押しのけていく。
彼女はまるでムカデのように地面をぐねぐねと這っていく荒瀬川を見下ろしていた。てっきりもう一発松葉杖で殴りつけるのではないかと顕人は震え上がっていたか、彼女はあっさりと松葉杖を地面に放り投げる。
夕方の静かな部室棟に荒瀬川の荒い息と共に、松葉杖が地面を転がる音が響く。
彼女はパーカーのポケットに手を入れると、白い紐のようなものを取り出す。
白く光沢があるように見える紐は数本で三つ編みにされているようだった。
何の素材かと訝しむ顕人だが、ふと晴臣が言っていた『あんりちゃん』の購買部での買い物の中にビニール紐があったのを思い出す。恐らく彼女は荒瀬川が来る間に物陰に身を潜めて、ビニール紐を束ねて三つ編みにしていたのかもしれない。丈夫なビニール紐を更に強固にするために。
彼女は一メートルほどの長さに結ったビニール紐の両端をそれぞれ手で握ると、ゆっくりと荒瀬川に近づく。
これから何が行われるかなんて一目瞭然だ。
きっとビニール紐による絞殺。それを安易に想像して顕人は血の気が引く。
晴臣もその場面に顔を青くしながらも「マズイんじゃない?」と聞いてくるが顕人は言葉が出てこなかった。
彼女は顕人の予想通り、地面を這う荒瀬川の背中に片膝を着くと素早く彼の首にビニール紐を一周させて思い切り締め上げる。
これはもう『マズイ』どころの段階ではない。早く何とかしなくてはいけない。
だけど、顕人は自分でも驚く程身体が動かなかった。
指が曲げることすらできなかった。
足なんてまるで靴底が地面と癒着しているのではないかと思えた。
浅く呼吸を繰り返して、ただ荒瀬川が首を絞められているのを見ているしかできない。
それを俯瞰的に見ている自分がいて、自分はこんなにも弱いのかと思い知らされた。
動けない。
人間は、恐怖に飲まれると、動けなくなるのだ。
でも。
その瞬間、背中を突然強い力で叩かれた。
晴臣が顕人の背を叩いたのだ。
するとまるで憑き物が落ちたかのように足ががくりと落ちて動くようになった。
顕人は思わず晴臣を見上げた。
晴臣は、先に行く、と言いたげに顕人を一瞥するとそのまま風を思わせるような速さで部室棟の影から飛び出して荒瀬川と彼女の元へ向かう。
顕人も、晴臣の姿を見て、漸く視界と思考が澄み渡る。今、動かなくてはならないのだ、そういう気持ちで晴臣に続くべく部室棟の影から飛び出し晴臣を追いかけて走り出す。
晴臣はものの数秒で荒瀬川と彼女の前へたどり着く。
部室棟の影から見ていた位置関係として、右手方向に向かうように荒瀬川は地面を這っており、その上に彼女が荒瀬川の背中に膝を立ててビニール紐で首を絞めていた。フードを深く被っていた彼女は自分の右方向から突然走ってきた晴臣に気付くことができなかった。
恐らく晴臣の接近を知ったのは、晴臣が勢い良く彼女の右肩を蹴りつけた瞬間だろう。助走込みで強い蹴りを食らわされた彼女の身体は簡単に吹っ飛び、彼女の左側にあった手洗い場に激突する。
あれは絶対に痛いはずだ。
見ていた顕人は、女子になんてことを、と思う反面これも仕方がないことだと自分に言い聞かせる。顕人は彼女と荒瀬川の間に立つと、手洗い場の前で
「いくら何でもやりすぎじゃないんですか?」
晴臣が彼女に問いかける。
あの蹴り付けからの激突を経ても彼女のフードは取れておらず、顕人と晴臣からのは表情がわからないままだった。
彼女が今どんな表情をしているのか、誰もわからない。
だけど彼女は手洗い場に激突した左肩へゆっくりと右手を這わせると、顔を晴臣に向けなず俯いたまま口を開いた。
「『やりすぎ』なのは本当に私だけ?」
彼女は問う。
その低く重い声色に、顕人も晴臣もぞっとした。
腹の底で怒りを鍋で煮詰めているような怒気に、焦げ付いたような殺意が絡んでいるような感情がその声を作っていた。あまり重い響きに、顕人は勿論、晴臣も気圧される。
一瞬の戸惑いが場に生じる。
それを見逃さなかった彼女は、パーカーのポケットに手を入れて小さなスプレー缶を取り出し晴臣に向け、躊躇なく吹き掛ける。
晴臣は彼女の動きが見えていたのか、咄嗟に腕で顔を隠す。だけど腕の隙間からスプレーが少しばかり顔にかかり「うわっ!」と悲鳴が上がる。
彼女は晴臣が怯むと同時に立ち上がり社会学部棟の方へ向かって走り出すが、歩道を使わず歩道の横に植えられている植木を越えて走っていく。
「ハル、大丈夫か?!」
顕人が、膝をつく晴臣に慌てて声をかけると、晴臣は「目がちょっと痛い……! けど大丈夫!」と袖で目を擦りながら言って立ち上がる。
彼女を追いかけなければ。だけど荒瀬川も早く何とかしないと。
そんなことを思っていると、社会学部棟からの歩道を早足で警備部の職員が二人やってくる。
これは良いタイミングだ!
顕人は手を振って「此処です! 人が倒れてます!」と叫ぶ。
その声に驚いて、警備部の職員は大慌てで走ってくる。
「黒いフードの奴がこの人の首を締めてて……! 今、あっちの方へ走って行きました! 追いかけるので、この人に救急車を呼んであげてください!」
顕人はやってきた警備部の職員に荒い息を繰り返す荒瀬川の様子を見せてから、彼女が走っていった方向を指差す。
顕人がそう警備部の職員に説明している間に、膝を着いていた晴臣が立ち上がり彼女が走っていた方向へ走り出す。それを見て、顕人は「よろしくお願いします!」と叫び晴臣を追いかけて走り出す。
後ろから警備部の職員が「ちょっと!」と叫ぶ声が聞こえてきたが、今彼女を見失うのは良くないという気持ちが勝り、振り返らずに晴臣を追いかけた。
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