第32話『震天動地⑦-シンテンドウチ-』

 すぐそこにいる彼女は、一体どれだけの姿を持っているのか。

 文学部二年生・田村八重子たむらやえこ

 社会学部の荒瀬川の彼女・『あんりちゃん』。

 室江崇矢むろえたかやの関係者・『美須々さん』。

 そして荒瀬川とその友人を病院送りにし昨晩は西澤顕人にしざわあきと滝田晴臣たきたはるおみの前へ現れた鉄パイプの通り魔。


「本当にワケがわからん」

 顕人は部室棟の影に身を潜めて、少し離れた場所にいる黒いパーカー姿の女性を見ながら顔をしかめる。

 彼女も今は物陰に身を潜めて何かを待っている。今が昨晩の通り魔の装いそのものということは誰か襲うのだろうか。そんな心配を顕人はするが、隣りで同じように彼女を見ていた晴臣が「今日は鉄パイプ持ってないね」と呟くので安堵する。少なくともすぐには自分達を含めて誰かが殴打される状況ではないらしい。

 じゃあ、彼女は此処で何をしているのか。


「そもそもの話、あの人は一体『誰』なんだろうな」

 顕人はぼそりと呟く。その言葉を聞きながら晴臣は「田村八重子さん?」と返す。

「それは室江先輩が言ってるだけ。自称文学部二年・田村八重子。でもハルがこの人は文学部の二年じゃないって言った。だからこれは多分室江先輩にそう名乗ってるだけだと思う」

「じゃあ『あんりちゃん』?」

「それも本名か怪しい。荒瀬川さんの周囲でそう名乗ってるだけかも」

「……『美須々さん』は?」

「どうだろうな。でも室江先輩の関係者ではあるけれど、室江先輩には『田村八重子』を名乗ってることを考えれば、それが正解に近いのかも」

「『美須々さん』って結局何がしたいんだろ」

 それが最大の謎だ。


 思い返すに、顕人と晴臣がこの件に首を突っ込む切っ掛けとなった、謎のメモ用紙。ものさしで書いたような文字に、ノートやロッカーに挟み間接的に渡してきたところを見ると、差出人は室江に自身を特定されたくなかったのは明白。

 そのメモ用紙の差出人の可能性を三つ考えたが、善人説、ストーカー説、良心の呵責説。どれも机上の空論というか、決め手に欠ける内容だった。


 でも仮に『美須々さん』がメモ用紙の差出人だったとしたら、色んな事を無理矢理こじつけられるのだ。


 メモは勿論、室江を助けるため。

『あんりちゃん』として荒瀬川のそばにいたのも、もしかしたら荒瀬川が室江を逆恨みしているのを知り、警戒していたからだった。

 その結果、予感は当たり、危うく『ペッパーハプニング』の餌食になりかけた室江にメモを渡し回避させることができた。

 その夜に荒瀬川達を襲撃したのは、『ペッパーハプニング』で室江を陥れようとしたことが許せなかったから。

 そして顕人と晴臣の前に現れたのは、二人がメモ用紙の差出人を探していたから。もしかしたら『美須々さん』は『田村八重子』として動いていた昨日の午後、トイレで着替え『あんりちゃん』に姿を変えた後、顕人と室江が教室棟の玄関ホール近くで話しているのを見たのかもしれない。『田村八重子』としての自分の姿を写真に撮り、それを室江に確認する顕人の姿は、彼女にどう映っただろうか。


 恐らく、敵との遭遇、だろうか。自分の正体を暴こうとする害悪。


 彼女は警告のつもりで、昨晩顕人たちの前にやってきたが、生憎あの場に晴臣がいてしまったせいで逆に怪我をさせられてしまった。あの腕の包帯はそういうことなのか。

 正直、見境を失っている、そんな風に思えた。

 そうでなければ鉄パイプで人を襲ったりしないだろう。彼女の中で、何か、自分を律していた糸が切れてしまったような、そんな風に思えてしょうがない。

 そうなってしまった彼女は、今、何を考えて行動しているのか。

 でも、それはきっと、正しいとか間違っているとか考えなければ、室江のためなのかもしれない。


 まるで『守護霊』だな。

 突然、昨日の昼、宮准教授の部屋で彼がそう言い放った言葉を思い出す。

 彼女は正に、室江崇矢の守護霊なのだ。


「なあ、ハル」

「何?」

「人ってさ、どういう相手になら、そいつの守護霊になりたいって思うんだろうな」

「何、それ」

 顕人の言葉に、晴臣は首を傾げる。その反応は当然だ。何故なら顕人でさえ、口にしてから、何だそれは、と思ってしまったから。

 でも恐らくそういうことなのだろう。

『美須々さん』にとって室江はどういう存在なのか。彼女自身、誰かを傷付けても助けたいと思える存在なのか。

 その関係の名前を思い悩むが、きっと宮准教授や小金井はその答えを知っているのだろう。いっそのこと、訊く方が手っ取り早い気もしなくもない。

 顕人が難しい顔をして考えを巡らせていると、不意に、晴臣が顕人の腕を小突く。


「動き出した」

 晴臣の言葉に、顕人は慌てて身を潜めていた部室棟の影から彼女を見る。

『美須々さん』はフードを深く被ったまま、部室棟の一つに近づく。

 その部室棟は、つい先程までバレー部部員数人が建物の前に集まっていた。恐らく『オープンキャンパス』に参加する団体で、仮設テントに運ぶ荷物の相談をしているようだった。彼らは各々荷物を持つと、部室棟を離れて歩道の向こうへ消えていった。彼らがいなくなって、部室棟から人の気配がなくなるのを待っていたのかもしれない。

 彼女はその部室棟の一階の一番端の部屋の前に来ると徐に扉を開けようとするが、鍵が掛かっているようで扉は開かなかった。

 その部屋は荒瀬川が所属するバスケ部の部室だ。

 此処で一体何をするつもりなのか。顕人と晴臣は黙って彼女を見つめる。


『美須々さん』は扉が開かないとすぐに手をドアノブから離し、扉の横にある窓の前へ行く。あまり大きくない引き違い窓だ。彼女は窓を開けようとするが、こちらも鍵がされているため開かない。

 すると彼女は肩にかけていたトートバッグに手を入れると、ガムテープを取り出す。恐らく先程購買部で購入したものだろう。

 彼女はガムテープをガラスに貼っていく。大凡二十センチの長さに切ったガムテープを隙間なく貼り付けると、彼女のガムテープを貼った箇所を何度も何度も左手で強く叩く。いや、その勢いはもう殴るに近いだろう。右手が怪我しているから左手で叩いているのだろうが、あまりの勢いと行動に顕人は血の気が引いてくる。

 あれでは左手にも包帯が必要になるのではないのか。

 そんな心配をしていると、ガラスが割れて、彼女は空いた穴から手を入れて窓の鍵を開けた。カラカラと窓が開くと、彼女はそのまま窓から部室内へと侵入する。


「これってさ、警備部案件だよね」

 彼女の不法侵入の一部始終を見ていた晴臣がやや引き気味な顔で呟く。顕人もあまりの光景に言葉が出てこず「ああ……」と辛うじて返す。

 しかしながら、あの様子だと無人の部室に彼女は一体何をしに来たのか。

 もう少し近づいて部室内の様子を確かめるという選択肢も浮かんだが、流石に彼女を正面から対峙したくない。

 此処は大人しく警備部を呼ぶ方が良いのか。

 そんなことを考えていると、彼女が部屋から出てくる。

 今度は窓からではなく、扉を開けて出てきた。

『美須々さん』はダンボールを抱えていた。そこそこ大きいサイズで、彼女は両手をダンボールの底を支えるように持っていたが、見た目に対して重さはないのか彼女は軽々という様子で抱えている。

 その姿から、彼女はこのダンボールを取りに来たのは明らかだった。

 それをどこに運ぶのだろうかその姿を視線で追いかけると、案外目的地は近かった。


 部室棟の横には、手洗い場があるのだが、彼女はそのダンボールを手洗い場の蛇口の下に置いた。そしてダンボールを開くと、彼女は蛇口を捻りダンボールに水を注ぎ始めたのだ。勢いよく水は噴出し、みるみるとダンボールに染み込んでいく。


「「!」」

 その様子を見ていた顕人と晴臣は思わず顔を見合わせた。あのダンボールに何が入っているか知らないが、あの様子ではダンボールは水が染みて使い物にならなくなるはずだ。

 大きなダンボールだったが、水の勢いが強いせいかすぐにダンボールは水で満たされ、上から水が溢れ落ちていく。その様子を彼女は黙って見ていた。

 きっと彼女はあのダンボールの中身を水浸しにしたかったのだろう。

 でも中身は一体……。

 水に浸かると、使えないもの。バスケ部の部室にあるもの。

『美須々さん』が使われると困るもの。

 そう顕人が考えたとき、ふと、少し前の陸上部の西尾の言葉を思い出した。


「二日くらい前に、あのバスケ部の奴が大量のクラッカーを持ってたから、パーティでも始めるのかって聞いたら、荒瀬川に『オープンキャンパス』のために用意するように言われたって言ってたぞ」

「大量に?」

「ダンボールいっぱい」

「『オープンキャンパス』に使うんですか?」

「使うって言ってたけど。てっきりテントに来た新入生や学外の人間を歓迎するのに使うんじゃないのか?」


 あの時の会話を思い出して、顕人は「クラッカーか……!」と呟く。

 そして荒瀬川があのクラッカーを何に使うつもりだったかも、何となく予想がついてしまったのだ。


 突然の『オープンキャンパス』への参加申し込み。

 部活のPRタイムでは、室江の所属する弓道部の後の順番を指定。

『オープンキャンパス』で使用すると用意されたクラッカー。

 にも関わらず設営される気配のない仮設テント。


 室江はPRタイムで的あてを披露すると宮准教授が言っていた。それを失敗させて恥をかかせるのが目的ではないかとも言っていた。

 例えば、矢を射る瞬間、クラッカーのような何か大きな音がすぐそばで聞こえてきたら……手元が狂う、なんてことが起こり得るのではない。

 その矢が間違って客席に飛んでいけば、もうそれは事件だ。

 なんてことを考えつくのだ。荒瀬川の室江に対する恨み嫉みはそこまでのものなのかと顕人は内心震え上がる。


 彼女は、この企みを知ってしまったのか。

 だから誰もいないタイミングを見計らってクラッカーの処分に来たのか。


『美須々さん』は、尚も溢れていく水を止めることもなく、ダンボールを見ていた。

 彼女は、荒瀬川の企みを阻止できたことを喜んでいるのか。

 それともこんな悪質な行動に憤っているのか。

 彼女がどんな表情でダンボールを見つめているのか、顔を隠すフードのせいで、顕人からは見えなかった。

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