第21話『思索生知③-シサクセイチ-』

 これ以上小金井絢こがねいあやから、田村八重子たむらやえこ(仮称)の話は聞けないだろうと西澤顕人にしざわあきとは口を噤む。

 しかしながら、小金井の反応から謎が深まる。

 あの黒髪メガネの女子生徒は一体何者なのか。

 時間がないという言い方も非常に気になる。

 しかしそのあたりの事情も教えてもらえないのだろう。

 顕人がそんなことを考えていると、滝田晴臣たきたはるおみはミルクをどれだけ入れたかわからないベージュ色のコーヒーを飲みながらぼやく。


「小金井先輩は『あいりちゃん』さんって知ってます?」


 少し前に学生自治会『サモエド管理中隊』所属の函南彰子かんなみしょうこにも訊いたことを今度は小金井にも尋ねる。今日はやたらその『あんりちゃん』を気にするなあ、と顕人は不思議に感じる。

 小金井は「『あんりちゃん』? 何学部の人?」と首を傾げる。

 そうだよな、名前だけ言われてもわからないよな。

 顕人は内心同意しながら「多分社会学部の人です。バスケ部の荒瀬川さんの彼女らしい人なんですけど」と晴臣の質問を補足する。

 流石に社会学部の人のことまで知らないだろうと思いながら顕人は小金井の顔色を窺うが、意外にも反応があった。

 小金井は、どういうわけか、『荒瀬川』という名前が出た瞬間、一瞬ほんの一瞬だけ眉間に皺が寄った。

『あんりちゃん』ではなく、荒瀬川のことを知っているのか。でもこの様子だと良い印象ではなさそうだ。


「……その『あんりちゃん』はちょっと知らないかな」

 小金井は一瞬滲ませた苛立ちのようなものをすぐに隠して笑う。

 顕人は今度こそキレ散らかされる覚悟をして、恐る恐る口を開く。

「じゃあ、荒瀬川さんのことは知ってるんですか?」

 そう顕人が尋ねると、小金井が顕人に視線を向けるがその視線がやや鋭くて思わず目をそらしたくなる。それでも彼女の表情に微笑みが残っており「そりゃあ知ってるよ、学内じゃあ有名な人だし」と続ける。


「昨日から俺たち、室江先輩の貰ってるメモのこと調べてて、それで荒瀬川さんの話題が上がったんですけど……荒瀬川さんって室江先輩のことをどう思ってたか知ってますか?」

「どうしてそんなことを知りたいの?」

 まだ小金井は笑っている。でも明らかな作り笑顔で怖いものがある。

 でも、昨日からどうも室江と荒瀬川との関係性が気になっている。

 今回の件には関係ないかもしれないけれど、どうも喉に突っかかる感じが気持ちわるいのだ。


 顕人は小金井に語る。

 メモ用紙の主の三つの可能性、その内の一つに室江に対して嫌がらせをしているかもしれない人間がいるかもしれないということ。

 前の冬に室江といた時に遭遇した荒瀬川の態度。

 そして、もしかしたら荒瀬川が室江を目の敵にしていたのではないかという予感。

 この考えは単なる思いつきだ。

 顕人が勝手にそうなんじゃないかと思い込んでいる妄言。

 だけど話が進むにつれ、小金井の表情から笑顔が溶けていく。


「もしかして、昨日図書館で考えてたことってこれだった?」

 顕人の話を小金井同様に黙って聞いていた晴臣が問いかけてくるので、顕人は素直に頷く。

「今回のメモの事とは関係ないかもしれないんだけど、何か気になるんだ」

 顕人は深刻な顔で返す。

 何の確証もない話だけど、ただ知りたいのだ。

 自分の中でもちゃんとした言葉に見つからないほど曖昧な感覚。

 流石にこんな言葉では、小金井は話してくれないだろうか。

 顕人は半ば諦めの気持ちだったが、意外にも小金井は口を開いた。


「私は、荒瀬川は室江くんを嫌ってた、そう思ってる」


 そうはっきりと言い切る彼女の言葉に、顕人はやっぱりと思った。

 小金井は、室江とは同じ四年生で、同じ宮准教授のゼミ生ということもあり学内で共に過ごす時間は多かった。

 室江はただ只管に良い人だった。

 先輩を助け、同輩と共に悩み、後輩の面倒を見た。

 荒瀬川とは違うベクトルで、有名な人物だった。

 加えて良いところのお坊ちゃんということや、柔らかな物腰や顔つき。そういうのも人気を集めたのだろう。

 荒瀬川もはじめは学部の違う室江のことをあまり気にする様子はなかった。

 だけどそれが変わった日があった。

 奇しくも、小金井はその瞬間に立ち会ってしまったのだ。


「三年生の前期に『学部共通授業』で、私と室江くん、そして荒瀬川が取ってた授業があるの。各国の政治の歴史について授業なんだけど」

「難しそうですね、僕は絶対に取りません」

 晴臣は率直な感想を漏らすが、小金井はそれを聞き流して続ける。

「その授業は学期末の試験がない代わりに、六つのテーマから一つ選んでそれについての発表をしなくちゃいけなかったの。十分以内に生徒の前へ出て披露していくの。それでテーマは六つしかないから、当然他の人と被るでしょう? 室江くんと荒瀬川は選んだテーマが被ったの」

「まあ、よくある話ですね」

「でも最悪だったのが、発表順」

「発表順?」

「荒瀬川の後に、室江くんだった」

 小金井はまるであの日の出来事を思い出しているかのような暗い表情だった。顕人は固唾を飲んで話の続きを待つ。


「荒瀬川の発表もすごく良かった。あんな派手な見た目の人だけど勉強もできたんだなって思ったくらい。でもその直後にした室江くんの発表の方が上回ってたの。荒瀬川の説明が及んでいなかった事柄や、荒瀬川が提示した疑問点についても上手くまとめられていて先生の評価も高かったわ。授業を受けた他の生徒は皆、室江くんの発表を高評したの。皆が室江くんの発表に拍手を送ってた……そのとき、荒瀬川は室江くんを睨んでいた。恥をかかされたって思ったのかしら」


 小金井は視線を下げて、もう半分以下になったカップのコーヒーを見る。黒い液体の向こうに、あの日の荒瀬川の感情を見ているのかもしれない。

 その瞬間の荒瀬川の心は、そのコーヒーでも足りない程の黒く濁ったものだったに違いない。


「でもそれって逆恨みなんじゃあ」

 顕人は恐る恐る呟く。小金井もその言葉に大きく頷く。

「間違いなく逆恨み。でも恨む方には、それが正しいものかどうかなんて関係ないじゃない。ただ恨めしくて憎らしいの。そこに相手の行動の正否は関わってこない。だから室江くんは、荒瀬川に嫌われているなんて夢にも思っていない、だって何も悪いことはしてないんだから」

 それ故室江は荒瀬川に笑いかけられる、恨まれているなんて知らないから。

 それ故室江は荒瀬川に話しかけられる、憎まれているなんて考えないから。

 それ故室江は荒瀬川を友のように扱える、嫌われているなんて思っていないから。

「室江くんは良くも悪くも人の善意を信じすぎる。それが美徳ではあるけれど、仇にもなる」

 だからきっと心配しているのよね。

 小金井は最後にそう呟く。

 誰が? そう訊くべきだったのだろうか。

 顕人が問うべきか悩んでいると、小金井はカップから顔をあげて二人を見た。


「荒瀬川なら、きっとそんなみみっちい盗難騒ぎじゃなくて、もっと大きなことをしそうな気がするけれど。彼は授業で恥をかかされたのだから、それ以上のことをする気がする。レジュメとかスマホとか、嫌がらせするにしてもそういうのじゃないと思うけど」

 小金井はそう断言する。

 それには確かに顕人も同意する。

 荒瀬川本人がするなら、もっとダメージの大きそうなことをしそうだ。でも何を。

 そう考えていると、晴臣は「それって『ペッパーハプニング』とか?」と口走る。

「『ペッパーハプニング』は無差別に生徒を狙ってたけど、室江先輩だったんじゃない。下校する時間を狙ってさ」

 晴臣はそう述べる。小金井はそもそもそんな悪戯があったことを知らないのか「『ペッパーハプニング』って何?」と首を傾げる。


「先週二十三日の夕方に正門近くで、目出し帽の男が六人、下校しようとした生徒に粉胡椒をふりかけてくしゃみさせるって悪戯があったんですよ」

「粉胡椒……」

「でも恥をかけられた報復がくしゃみって……」

 顕人は晴臣の出した可能性に疑問する。ただくしゃみさせるだけで、荒瀬川の気持ちが収まるとは到底思えないが。

 しかし晴臣は自信満々に話を続ける。


「僕らはメモ用紙の主が、室江先輩が小学校のときに粉胡椒吸ってそれが喘息に繋がったのを知ってたからそれを避けさせるためにメモを渡したって思ってたけど、荒瀬川さんもその話を知ってたとしたらどう? 無差別に胡椒を撒いたけどターゲットは室江先輩一人で今回も喘息を引き起こさせるつもりだった、とか?」

「あー」

 確かに可能性としては有り得る話だ。

 生徒の中で一人喘息を誘発しそのまま救急車で病院に担ぎ込まれたなんてことになったら、荒瀬川はさぞ愉快かもしれない。


「でもその可能性でも、やっぱり『何処で喘息の話』を知ったかってことにならないか?」

「確かに」

 晴臣は大きく頷くと、「良い方向性だと思ったのになあ」と項垂れる。

 斯く言う顕人もその方向性は悪くないと思う。だけどやはり、何処で喘息のことを知ったか、それにかかってくるのだ。

 何とも惜しい。

 顕人がそんなことを考えていると、話を聞いていたはずの小金井が深刻な顔で何かを考えていた。まるで何か思い詰めているようだ。


「小金井先輩?」

 晴臣が声をかけると、彼女はゆっくりと晴臣を見るがその表情は固かった。

「私、その話を聞いたわ」

「話? 『ペッパーハプニング』ですか?」

「違う、喘息の方。あれは美須々みすずさんが……」

 美須々さん、またその名前だ。その人は喘息のことを知っていたのか。

 そう小金井が呟いたときだった。


「絢、すまん遅くなった」


 そう言いながらこの部屋の主である宮紡准教授が扉を開けて入ってくる。

 彼の背後に、小学校低学年程の女の子を引き連れて。

 その女の子の姿に、顕人は小金井に質問しようとしたタイミングも内容もすっかり失ってしまった。

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