第2話『嚆矢濫觴①-コウシランショウ-』

 都心から少し外れた平野にその大学はある。

 敷地面積も無駄に広く、文学部・経済学部・経営学部・社会学部・法学部・工学部の六つの学部棟の他、学部共通の授業を受けるための教室棟や図書館、カフェや食堂や購買が入った棟などハコモノ建築が多い割にごちゃごちゃとしていないように見えるのはそのためだろう。

 工学部棟は実習や実験など大型の機材を取り扱いこともあり、他の学部棟よりも大きな建物になっているが、広い敷地がいる分学内の端に追いやられており、工学部生は授業の移動が面倒だとぼやいているのをよく耳にする。

 自転車を学内に持ち込んで学内を移動する者も少なくないが、放置自転車や違法駐輪などのトラブルで学生自治会が動き出したという話だが、今回事件に遭遇する二人にとってそんな話はどうでも良かった。



 事の発端は、教室棟に隣接する文学部棟。

 最上階である七階の端にある文学部の宮紡みやつむぐ准教授の部屋から始まった。


 文学部の教授・准教授・講師は学部棟に部屋を貰っている者が多い。

 複数の学校を掛け持ちして教えている講師の中には部屋を持たないものもいるが、この部屋の主であるところの宮准教授はこの大学の准教授として教鞭を取り出した三年前からこの部屋を使用している。

 二十畳という、本来は広々とした部屋ではあるが、宮准教授の部屋は見るものにただただ圧迫感を与える。

 本来、扉を開けると通常まず視界に入るのは、壁を上下に二分する様に付けられた大きな窓。

 であるはずだが、この部屋に入るとまず目に入るのは天井に届くような大きく丈夫なスチール製の本棚。

 それが部屋の半分、扉に近い側にまるで資料室や図書室を思わせるように4列も並んでいる。

 当然どの棚にもみっちり本が詰め込まれている。

 その本棚を抜けると、窓を背にするように大きめの事務机が配置され、事務机の前には折り畳み式の長机と数脚のパイプ椅子が乱雑に並んでいる。

 いつもなら日光で本や資料を傷めないよう遮光カーテンで閉ざされている窓が、今日に限ってはカーテンも窓も開け放たれている。

 窓から入る風に撫でられ、本棚に積もっていた埃が舞い上がる。

 その埃に巻かれている男性が二人。


 一人は文学部の滝田晴臣たきたはるおみ、二回生。

 彼はこの部屋の主である宮准教授の生徒だ。

 この部屋に頻繁に出入りしている学生の一人で、宮准教授に好いように扱き使われている。


 もう一人は経済学部の西澤顕人にしざわあきと、同じく二回生。

 彼は宮准教授の直接の生徒ではないが、この部屋に頻繁に出入りし尚且つ春臣同様好いように扱き使われている一人だ。


 そしてこの二人は、まさに宮准教授にこの部屋の掃除を片付けを仰せつかっている最中だった。

 宮准教授は論文を一本書き上げる度、本や資料を机に積み上げていく。

 書き上げた後、積み上げた本や資料を片付けを生徒にさせるのだ、毎回。

 毎度この部屋に出入りしている生徒に適当に言い付けるのだが、今回はこの二人が選ばれてしまったというわけだった。

 そして当の宮准教授は此処にはおらず、完全に二人に任せきりの状態だ。


 顕人はマスクをしていたが、それでも隙間から吸入してしまう埃にくしゃみを数度繰り返す。

 彼はハウスダストのアレルギー持ちなのだ。

 今まで幾度となく、宮准教授の『要請』を受けており、いつだって断る理由も特になく軽い気持ちで請け負ってきたが今回は失敗だったと今更になって後悔を噛み締める。

 資料のコピーだったり、図書館に本を探しに行ったり。

 大した雑用でもなかったので、今回も安請け合いしたがまさか掃除とは。

 顕人は我慢できず窓の前まで逃げると、テッシュで鼻を盛大にかんだ。



「ハル、俺帰って良い? 今日はホント無理なんだけど」

 顕人は息苦しそうな鼻声で、一冊の本をぱらぱらと捲っている晴臣に声をかける。

 しかし晴臣に顕人の声は届いていないのか、彼は嬉々とした表情で顕人を見た。


「ねえ、鵺の正体はレッサーパンダだったって仮説を聞いたんだけどどう思う?」

 そう意見を求める晴臣が手にしていたのは『平家物語』だった。

 それで鵺か、と顕人は納得する。

『鵺=レッサーパンダ説』なら顕人も聞いたことがある。

 あれは『平家物語』ではなく、『源平盛衰記』の鵺の文言から考え出されたはず。

 前者では『蛇の尾っぽ』とされていたが、後者では『狐に似た尾っぽ』であったことから披露された新説だ。

 レッサーパンダは狸に似た胴体と狐のような尻尾、そして虎を思わせる鋭い爪を持ち、その上夜行性で高所に登る習性を持つ。

 そして今は小型が多いが、昔は大型のレッサーパンダの存在を匂わせる大きなレッサーパンダの歯型も見つかっているとか。

 確かにこれだけ見ると、鵺は実はレッサーパンダだったのでは、と言われても無くはない話だと思わなくもない。

 しかしながら、今はレッサーパンダどころではない顕人は再び鼻をかみながら、「どうでもいい」と冷ややかに返す。


「鵺の正体が、パンダでもレッサーパンダでもなんでもいいって。ホント鼻辛いから帰っていいかな」

 顕人は盛大にくしゃみを数度繰り返して、また鼻をかむ。

 ゴミ箱には既に鼻かみティッシュで埋まりつつあった。


「いやいや、アキに帰られたら、僕一人でしないといけなくならから却下」

「それなら手を動かしてくれ。お前、さっきから本読んでるだけだろが」

「だって先生の部屋ってたまに面白い本あるからついね」

 晴臣は手にしていた平家物語を積み上げていた本の上に乗せる。

 今回の掃除の目的は机に出しっ放しにしていた本を棚に種別ごとに並べ、そして棚に積もった埃を落とすことだった。

 普段締め切られていることもあり、棚の上に積もった埃はかなりの厚さになっていた。

 積もった埃を見て、顕人は嫌な予感しかしなかったが、案の定という展開になってしまった。


「ところで先生は?」

 晴臣は既に落とし終わった埃を箒で集めながら顕人に問いかける。

 顕人は埃が落とされた棚を布巾で拭い、本を元の場所へと収めていく。

 その最中も何度もくしゃみを繰り返し、漸く「知らん。けど、校内にはいないだろ」と鼻声で呟いた。

 宮准教授は論文を書き終えるとその開放感から暫く行方を暗ますことがある。

 日帰りなら運が良い。

 悪ければ一週間ほど帰ってこないこともある。当然授業は休講。

 久しぶりに学内で姿を見つけた時、顕人が「今回は何処まで行ってたんですか」と呆れながら訊くと、宮准教授は一言「エアーズロック」と言って羽田空港で買ったのだろう日本語が書かれたよく見るバナナ味のお菓子をくれた。

 オーストラリア土産じゃないのかと後から思ったが、まさか海外へ逃避行していたとは思わず顕人は思わず言葉を失ったことがあった。

 確か一回生の後期に入ってすぐの頃だった。

 果たして今回は何処へ行ったのか。

 考えてもしょうがないことだと二人は諦めて掃除を続ける。



 その掃除作業もそろそろ終盤に差し掛かった頃、風を通すために開け放っていた扉から一人の男子学生が室内を覗いた。

 男子学生は晴臣たちが知っている学生で、名前は室江崇矢むろえたかや

 文学部の四回生で、宮准教授のゼミ生だ。

 必然としてこの部屋にやってくる回数は多く、この部屋に入り浸っている二人とは当然顔見知りの先輩だった。

 室江は埃が舞う室内と二人の様子を見て苦笑を浮かべる。


「お疲れさま。大変そうだね、手伝おうか?」

 室江がそう申し出ると、晴臣は勿論、それ以上に顕人が顔を輝かせる。


「先輩まじ助かります! 俺もう辛くて!」

「西澤は埃アレルギーだったの?」

「普段はあんまり症状でないんですけど、ここまで多いとくしゃみが止まらなくって・・・」

 顕人はそう話す最中も、数度のくしゃみを繰り返す。

 そんな彼の状態を気の毒に思ったのか、室江はカバンなどの荷物を下ろすと、二人の掃除を手伝い始めた。

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