アルザス 1942年
深緑と大地、太陽の恵みを一身に受けた、アルザスのヴォージュ山脈は美しく、壮大だ。
黄緑色の草原、深い緑の森に、所々にあるよく手入れされた葡萄畑。
清涼な空気を肺一杯に吸い込めば、細胞の一つ一つが蘇ってくるような、そんな感じがする。
堅苦しく窮屈な都会でずっと生きてきた僕には、酷く羨ましい世界だ。
だが、僕が求めている風景はこれではなかった。
「今日の夜かい?確か新月だったな」
麓の村の小さなカフェでシナモンとクローブの効いたパン・デピスをつまみながら星が一番良く見える場所を聞けば、親切なマスターは地図を片手に教えてくれた。
「そうそう、毎年今頃になると必ず此処に来る紳士がいるから、聞くといいよ」
僕はなんだか待ちきれない気持ちになって、最後のパン・デピスを口の中に放り込むと、コーヒーを飲み干した。
祖父は英国軍人で、飛行機乗りだった。スピットファイアで何機ものスツーカを堕としたと聴いた。だが祖父は厳格とは程遠いユーモアに溢れた人物で、パーティではいつもピエロや、可笑しな格好をしてみんなを笑わせていた。
『お爺ちゃんはね、コメディアンになりたかったんだ。そうじゃなければフットボールの選手かな』
そう言って、お茶目に片目を瞑る仕草をするのだ。
ドイツ語を専攻するのを勧めてくれたのも祖父だった。
祖父との思い出を胸に、夕暮れの葡萄畑を歩く。
既に宵闇の帳が空を覆い尽くす手前で、桃色と群青の境目に星が輝いていた。
暫く歩くと、ようやく目的の場所に着いた。
ザックから地図を取り出して確認していると、誰かの足音がして、思わず振り返る。
「Es tut mir leid, Sie zu überraschen(驚かせて申し訳ない)」
まるで軍人のように美しく厳かなドイツ語を口にしたのは、茶色のスーツに砂色のハットを被り、杖を持った紳士であった。歳の頃は、祖父と同じくらいかも知れない。
「いいえ。こちらこそ」
僕も拙いドイツ語で返す。この時ほど、祖父の勧めに乗ってよかったと思った事はない。
「君はドイツ語が話せるのかね」
「少しなら。祖父の勧めで」
「此処には観光かね?」
「ええ。まぁ。貴方は?」
紳士は満天の星空を仰ぎながら、星空ではない何処か違う場所を見つめていた。
彼が少し時間を大丈夫か?と聞いてきたので僕は迷う事無く頷いた。
「少し、長い話になる。あれはまだ世界がもっと混沌としていた時代だ」
ーー当時私は、飛行機乗りをしていた。Bf109、メッサーシュミットを駆り、あらゆる戦場を飛び回っていた。
私はロレーヌの基地からヴォージュ山脈へ夜間哨戒に向かっていた。丁度、こんな新月の、まるで星空が降ってきそうなそんな夜だった。
その時はナビゲータの同僚が腹を壊していて、私一人だったんだ。こんな美しい景色を独り占めだ。得をしたと思ったよ。コックピットから思わずこの美しい星空をよく見たくてキャノピーのハッチを開けようとした時だ。
右翼すれすれに、別の飛行機が突っ込んできたんだ。私は慌てて操縦桿を手に態勢を立て直したよ。
双眼鏡でよく見れば、それは友軍ではなかった。あの独特な楕円形の主翼はよく知っていたし、戦場では数えきれないほど戦ってきたからね。
そいつは急旋回すると、こちらに機銃を撃ってきた。雲も何もない。星空の中でのドッグ・ファイトだよ。私もすぐに応戦した。山肌すれすれを飛んだり、農場の風車を縫うように飛んだが、相手は一向に堕ちなかった。とても腕のいいパイロットだったよ。
哨戒任務だけだったから、爆弾は積んでなかったんだ。相手も同じみたいだった。だからそんな飛び方が出来たんだ。曲芸飛行みたいに飛ぶのがいつしか楽しくなっていたよ。
星空の中でのダンスは、まるで宇宙にいるみたいで、夢のようだった。
そうしたら、燃料のメーターから警告音が出始めてしまってね。これでは落ちるのも時間の問題だった。
すると、相手の飛行機が私の前に来て、機体を振り出したんだ。こちらへ来いと言うように。
ここはまだ自軍の作戦区域だったし、正気かと思ったが、もう燃料も無い。だから言うとおりにしたんだ。
彼は的確で最適な着陸場所を見つけ、私を誘導してくれた。完璧な着陸だったよ。
だが、敵には変わりない。私は腰のモーゼルC96を抜くと、キャノピーを開けたんだ。
『なぁ君、すごいな!凄い飛行だった!』
呆気にとられたよ。まさか銃弾ではなく、賞賛を敵から送られるとは。
彼は私と同い年の英国人兵士で、訛りがあったがドイツ語が喋れたんだ。笑い声が大きくて、子供のような笑顔が印象に残っているよ。
偶然にも彼もナビゲータを連れていなかった。この星空に見惚れていて、危うくぶつかりそうになったと笑っていたよ。
それから私達は星空の下で色々な話をした。
故郷の家族の事。好きなサッカーチームの事。恋人の事。
その時私達は、敵同士ではなく、軍服を着てはいたが、純粋に、ただの同い年の青年だった。
酷く虚しかった。何のために私達は戦っているのか。
私は彼を心の底から死なせたくないと思ったんだ。
そんな事を思っていると、彼が立ち上がって私に言った。
『じゃあこうしよう。俺達がジジイになっても生きていたら、この日、この場所で新月の星降る夜にまた逢おう。その時は、こんな支給品のまずい酒じゃない、美味いやつ持ってこようぜ』
そう言って、私達はスキットルを交換して、彼に空海軍の包囲網の抜け道を教え、夜が明ける前に飛び立っていった。
当局への言い訳には苦労したが、幸いにも敗戦が濃厚になると私のような一兵卒に構っていられなかったのだろう。何もおとがめはなかったよ。
「だが、あれから60年も経ってしまった。10年近くこの星空の下で待っていたが、終ぞ、彼が来ることはなかった」
紳士が悲しそうに目を伏せた。上着のポケットから古びたスキットルを出して、懐かしそうに真鍮の表面を撫ぜた。
「あの、そのスキットル、見せて頂いても?」
「ああ。いいよ」
彼からスキットルを受け取る。下の方に、イニシャルらしき文字が刻印されていた。
「H・M……ヘンリー・モーガン」
「何故、その名前を……?」
「僕の名前は、ジョシュア・モーガンです」
僕は名乗りながら、ザックから目的の物を取り出した。丁寧に布で包まれた古いスキットルと、蝋で封された封筒。
「まさか……」
紳士が皴の刻まれた目尻を目いっぱい見開いて、僕を見つめた。
「祖父から、伝言です。『俺はもう行けないが、俺の孫を行かせる。あの時の俺と同い年の孫だ。美味い酒も持たせるぞ』と」
紳士の眼から止めどなく涙があふれだす。
「ああ、友よ。ようやく逢えたんだな」
彼の眼には、フライトスーツを着た若き日の祖父が映っているのだろう。僕は彼の手を取り、抱きしめた。
嗚咽が、静かな夜に響く。
今にも降ってきそうな星空の下で、敵同士だった兵士たちは友人になった。
そして60年の時を経て、もう一度、逢えたんだ。
お爺ちゃん。見てる?
今日は星降る最高の夜だ。
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