第31話 向幸心
そこは、あの高台だった。
ルナを連れて行って、そしてそのルナと結ばれた、あの高台。しかし、その時とは時間が違う。
朝だ。蝉の鳴き声が聞こえる。ここは標高が高いおかげで、少し肌寒いくらいだ。高台の向こうには、俺達が育った街並みが見える。
そこに、俺はいた。
目の前のベンチには、恵美がいる。
彼女は俺に背を向け、街並みを眺めていた。
「……恵美?」
蝉の鳴き声も、やかましいものではない。
ヒグラシが一匹だけ、鳴いていた。
澄んだ空気の中で、ヒグラシの哀愁漂う声が響いていた。
「ん、どしたの」
ベンチに座ったまま、こちらを振り向く彼女の姿は、懐かしいものだった。
魔族の姿ではない。ショートカットの髪に、鋭い目。全体的には人間時の彼女と変わらないが、少し幼くなっている。
そして、何より着ている服が違う。
俺と恵美が通っていた中学のものだ。
俺の目の前にいる恵美は、中学生当時の彼女だった。
「え……」
「うわ。めっちゃ大人になってるじゃん紗智」
こちらを見た中学生の恵美は、そんな感想を漏らす。
単純に驚いたというよりも、高校生になった俺が現れて引いていると言った感じだ。
「これは、俺が正しいの? それとも、そっちが正しいの?」
この世界は、俺達がまだ中学生だった頃の世界なのだろうか。だとしたら、高校生の俺が来ていることがおかしくなる。
しかし恵美は、そんなことに興味もないという素振りで
「知らない。どっちでもいいんじゃない?」
と俺に言い、また前を向いた。街の景色を、眺めていた。
時折、気持ちの良い風が流れていく。それに吹かれて揺れている木々の葉っぱは、やけに青々しかった。
「……なぁ、恵美」
俺は再び、後ろから彼女に話しかけた。
「どしたのって」
今度はこちらを見ずに答えた。
どうやら、もう高校生の俺に飽きたらしい。
「俺達って、付き合ってる?」
こんなこと確認するのも馬鹿馬鹿しいのだが、これは確認しておかなければならない。
ここが中学時代の世界なら、する話ももちろん変わってくる。
俺の問いに、彼女は少し面倒くさそうに答えた。
「付き合ってるわけないじゃん。ていうか、あんた今付き合ってる人いるじゃん」
こちらには尚も振り向かない。ずっと俺に背を向けたままだ。
「そ、そっか。ごめん」
彼女の見た目は中学時代なのに、どうやら記憶は現在とリンクしているようだった。
……ルナの言葉を信じるなら、ここは恵美の精神世界らしい。
ということは、ここにいる恵美が中学時代の姿なのは、恵美の精神が、ひいては心が、中学生のままだということだろうか。
恵美は心の成長が中学生のまま、止まっているということ……?
自分の心が高校生であるという自信は、俺にはない。
しかし、そんなことを言っていては始まるものも始まらない。
俺は彼女と。恵美の心と、対話する覚悟を決めた。
「なぁ、恵美」
「なーにー」
当たり前のように、彼女はこちらを向かない。
それでも俺は、彼女と向き合わなければならない。
「俺達、別れた後も互いに依存、してただけなんだよ」
恵美の部屋の中にあった俺があげたぬいぐるみや、恵美が俺を憎み切れていないという事実から、恵美はまだ俺のことを引きずっているということが推測できる。
これは、俺の自惚れなんかではない……。ということを信じたい。
出来るだけ中立的な立場から、考えてみたつもりだ。
「だから、何? 自分は他に依存先見つけたから、邪魔だからもう依存やめろって話?」
恵美はベンチから立ち上がった。しかし、こちらを向きはしない。ただベンチの前に立って、依然として町並みを眺めていた。
「違う。そんなこと言いに来たわけじゃない」
俺も、ずっと恵美に依存していた。恵美のことを引きずって、自分の能力を見限って、挑戦を放棄していた。
「紗智は良いじゃん、ルナちゃんが見つかって。それなら私のことは、誰が幸せにしてくれるわけ?」
彼女は街の景色へ、一歩踏み出した。
「……俺は、幸せにできない」
また一歩、踏み出す。
「ほら、いわんこっちゃない。もう疲れたの。私だけが不幸な世界」
彼女の顔はここからでは見えない。
しかし、とても悲しそうな表情をしているであろうことは、背中を見るだけで伝わってきた。
「でも……。お前が幸せになる手伝いをすることなら!」
俺が叫んでも、彼女の歩みは止まらない。
「何それ。何をしてくれるの?」
少し小馬鹿にしたような声だった。
「……勉強とか、教えられる。辛いなら、悩みだって聞く! どこかに逃げたいなら、とっておきの面白いメンバー用意して、キャンプとか連れて行ってやる!」
子供らしいアイディアだった。自分も、中学時代から変わっていないのかもしれないという不安は、消し去った。
子供上等。子供らしくて、無垢で、純粋で何が悪い。
「辛かったら逃げてもいいって話でしょ? よく聞くよ、そういうの。聞き飽きた」
いつの間にか彼女は崖まであと数歩の所にいた。
俺は走り出す。
「来ないで!!」
叫んだ。
それは、耳に残る高い声で、確かに感情を含んでいた。
「それ以上、来ないで。私のことを、助けようとしないで」
こちらは決して向かず、拒絶する。
いつぞやの時と、真逆だった。
「……助けなんて、できないよ。俺は、手伝いしか」
「それなら、帰って」
「嫌だ」
「帰ってよ」
「断る」
「帰ってって、言ってるでしょ!」
俺は気持ちをこめて、一か八かで叫ぶ。感情を込めすぎて、目を瞑りながら叫ぶ。
「自分の味方からは逃げんな!!」
叫んだ後に、静寂が訪れて、俺は目を開けた。
恵美は、こっちを向いて、驚いていた。
「自分の、味方……?」
「そう、だよ。辛いことからはいくら逃げてもいいし、敵からはいくら逃げてもいい。それでも、お前のこと、想ってくれてる人からまで、逃げんな! そうすればきっと……」
「どんなに辛いことでも、いつかは笑い話になるから」
俺の言葉の先は、俺でも恵美でもない人間が言った。
いつの間にか、俺の隣には菫さんがいた。
「菫……?」
恵美が、信じられないといった、消え入るような声を出した。
「久しぶり、恵美」
菫さんは、俺と喋る時とは違いラフな口調で、恵美に話しかけた。
「な、なんでここに……?」
「君の元カレに、カルボナーラのお金を払うのを忘れてて、ね」
恵美の前では、こんなに雰囲気が変わる人なのか。
恐らく、俺のメールを見て来てくれたのだろう。それに何よりも感謝がしたかった。
「ねぇ、恵美。辛いことがあるなら、共有してよ。何があっても友達って、言ったでしょ?」
菫さんは恵美に近づく。恵美は、何とも言わなかった。
俺は二人の世界を、しばらく見守ることにした。
「いや、でも……。迷惑、かけちゃう、から」
「迷惑なんかじゃない。恵美の幸せを一緒に考えるのが楽しい、まであるよ」
菫さんの三つ編みが風に揺れる。最初に会った時は眼鏡のイメージもあって委員長みだいだと思ったけど、どうしてか王子様に見えた。
「……夜、とか、いきなりメールするかもしれないよ」
「いいよ。寝てたら、ごめんね」
「出来るだけ起きてて」
「努める」
まるで、カップルみたいだ。
菫さんはそのまま、恵美に近づいて頭を撫でた。
恵美は俯き、その行為を受け入れる。
しばらくすると、彼女は肩を震わせはじめた。
「……私だって、誰かに愛されたい。努力したら、頑張ったねって抱きしめて欲しい……!」
そんな言葉、恵美から聞いたことがない。
ある種、初めて出た恵美の本音、なのかもしれない。
菫さんはその言葉を聞いて、優しく恵美を両手で抱きしめた。
「頑張ったね。偉いね、恵美」
幼い少女の鳴き声が、その世界に響いた。
ヒグラシも負けじと、声を鳴らしていた。
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