第198話 後日談 / 春の中月の十八日 - 01 -


 ――ドダダダダダダダダッ バンッ


「オリアナッ!」


 爆音の足音と共にやってきたミゲルは、第二クラスの教室の扉を勢いよく開ける。

 大声で名前を呼ばれた時には、ミゲルはオリアナの目の前にいた。第二クラスの教室にいたオリアナは、ぱちくりと瞬きをした。


「どしたの? ミゲル」


 ミゲルが満面の笑みでこちらを見下ろしている。首を仰け反らせないとミゲルの顔が見られないほどの近距離だ。


 周りの生徒達が、どよよとざわめく。好奇心の満ちた瞳がこちらを見ていた。


「ミゲ――」


 ル、と言い終える前に、ミゲルはオリアナの脇に手を突っ込んだ。


「え」


 そしてそのまま、オリアナをぽーいと上に向けて放り投げる。


「ええええ」


 百九十センチの男に投げられ、空中に浮かされたオリアナは、顔を青ざめさせて悲鳴を上げる。


 見開いた目の前には、教室の天井に吊されている魔法灯があった。


(やばい、体、浮いてる)


 強い浮遊感に、ぞわっと背中からお尻にかけて嫌な震えが走る。面会室の窓から飛び下ろされたヤナは大泣きしたと聞いたが、致し方の無いことだと強く感じた。


(これは泣く。あまりにも怖い)


 もしミゲルが受け止めきれなかったらとよぎった不安に、余計に怖さが増す。しかし、怯えるオリアナをミゲルは危なげなくキャッチした。机との正面衝突はなんとか免れる。

 ホッとする暇など無く、ミゲルはまたぽーいとオリアナを空に投げる。


「わあああ」


 オリアナは思い至った。


(これ、高い高いだ)


 何故突然高い高いをされているのか皆目見当も付かないオリアナは、空中で目をぐるぐると回す。唖然として遠巻きにこちらを見ている周囲に助けを求めることすら出来ず、度重なるお尻がひゅんとなる感覚に悲鳴を上げ続ける。


「ひょえええ! ひょえええ……!」


 散々悲鳴を上げたオリアナの喉が枯れそうになってようやく、ミゲルは気が済んだらしい。オリアナをキャッチしたミゲルが、オリアナを地面に置いた。


「う……ああ……うっ……」


 子どもが初めて発語したような頼りない声が、オリアナの口から漏れる。


(足がガクガクする)


 子どもの頃は、父や使用人に自分から「高い高いして!」と強請ったものだが、この年でされると恐怖でしかないものなのだと、オリアナは知った。


「オリアナ」

「なななな何?!」


 気分屋なところはあるが、基本的に自分で自分の機嫌を取れるミゲルから振り回された記憶は無い。初めてとも言えるミゲルの不可思議な挙動に、オリアナは未知の生命体と対面したばりの恐怖を覚えた。


「今日は何日だ?」


「え……?」


 問答無用の高い高い地獄を強要してきた男の言葉とは思えなかった。しかもミゲルは、にこにこにこにことはち切れんばかりの笑顔を浮かべている。


春の中月しがつの十八日……??」


「うん。そう」


 オリアナが律儀に答えると、ミゲルは大きく頷いた。

 そしてまた、名前を呼ぶ。


「オリアナ」

「何?」

「今日は何日?」

「えええ?? 春の中月しがつの十八日だよ??」


 間違えているという可能性は無い。オリアナは今朝、きちんと今日の日付を読むクラス長の声を聞いていたからだ。


 なのにミゲルは、また笑顔で「うん」と言うと、オリアナの名前を呼んだ。


「オリアナ」

「なあに?」

「今日は――」

春の中月しがつの十八日!」


 にこにこにこにこ。


 いつもの、にまーとした猫のような笑みとは違う。無垢で無邪気に、心の底から溢れる喜びを抑えきれないように、ミゲルが笑う。完全にネジが外れているような笑い方に、不安よりも呆れが勝った。


(なんか嬉しそうだし、いっか)


 にこにこと笑うミゲルの腕を引っ張り、突然やってきたミゲルの奇行にどん引きしている教室から出る。


 あとでハイデマリーやエッダに問いただされそうだと思ったが、オリアナとて、このミゲルの奇行を上手く説明できる自信は無かった。


「オリアナ」

春の中月しがつの十八日」


 もう最後まで聞かれなくても答えられるようになっていた。

 笑うミゲルを従えたオリアナは中庭まで出ると、オリアナはミゲルを芝に座らせた。にこにこ笑顔のミゲルの隣に、オリアナも座る。


「お説教に呼ばれたって聞いてたのに、機嫌いいね」

「よく知ってたな」


 特別教室棟の廊下を走り、錬金術学室を凄まじく汚した件で、ヴィンセントとミゲルは朝から職員室に呼び出された。


 優等生のヴィンセント・タンザインが職員室に呼び出された報は、昨日の雷鳴よりも速くラーゲン魔法学校の隅々にまで響き渡ったため、クラスが違うオリアナも当然知っていた。


「まさかお説教、今終わったの? ヴィンセントは?」

「主犯だからな。もっと絞られてる」

「情状酌量の余地は無かったか……」


 オリアナは、職員室でこってり絞られているだろうヴィンセントに、両手を合わせた。もしかしたらヴィンセントの人生の中で、教師に怒られるなんて事は初めてだったのでは無いだろうか。


(ミゲルは、何処まで知ってるんだろう)


 ヴィンセントは教師らに竜木の話をすると言っていた。オリアナは当事者ではあったが、全く記憶も無い上に、ヴィンセントに協力もしていないため、事情聴取には呼ばれていない。呼ばれれば行くつもりではあるが、多分有益なことは何も言えないに違いない。


 その場に、ミゲルも呼ばれていた。

 無関係だと思うのは、愚鈍に過ぎよう。


『明日は一緒に居てくれよ。俺、三人でいるのが、大好きなんだ』


 そう言えば昨日、明日と言っていた。

 昨日の明日というのは、もちろん今日である。


 ――春の中月しがつの十八日。


 今日は、ミゲルにとって特別な意味を持つ日なのだろうか。


 じっと見ていると、ミゲルもオリアナを見つめ返してきた。笑顔のミゲルはものすごく可愛いが、勝手に心を探ろうとしたことが気まずくて、オリアナは慌てて口を開く。


「ミゲルとヴィンセントって、二人だとどんな話するの?」

「えー? オリアナの話とかするよ」

「きゃー! どんなどんな?」

「んー。ヴィンセントが面倒くさいとか」

「びっくりした。しょっぱなからオリアナちゃんの話じゃないじゃん。ヴィンセント君の話じゃんそれ」

「でもオリアナの話だよ」

「えー? ほんとー?」


 オリアナは笑ってミゲルを見た。その時、ハッとする。

 ミゲルの口元には、授業中以外はあれほどいつも舐めていた飴が咥えられていない。


「……ミゲルの話は?」

「ん?」

「ミゲルの話は、しないの?」


「……」


 ミゲルが黙り込む。

 彼との会話の中で、彼がこんな風に――まるで打ちのめされたような顔をして――言葉に詰まるのを、オリアナは初めて見た。


 ミゲルは口元に手をやる。飴を咥えていないことを忘れていたらしく、ばつの悪い顔を浮かべる。

 オリアナを見下ろしたミゲルの顔は、悪戯がバレた子どもみたいだった。


「――俺はね、オリアナ」


「うん」


「ずっと、ヴィンセントとオリアナを見てきたよ」


 この「ずっと」はきっと、オリアナが二人を見てきたよりも、ずっとずっと長い「ずっと」なのだろうと、切なく掠れた言葉の響きから伝わってきた。


「うん」


「二人はいつも頑張ってて、いつもお互いを思い合ってて――どの人生の二人も……。俺はそんな二人が大好きだった」


「うん」


 オリアナは浮かびそうになった涙を、下を向いて堪えた。


どの人生の二人も・・・・・・・・――)


 言葉の端々から、彼が今までどんな気持ちで過ごしてきたのかが、伝わってくる。


 けれど何も経験していないオリアナには、気持ちをわかってあげることも、一緒に苦労してやることも出来無い。


(ヴィンセントの言う、前の人生の私なら――わかってあげられたのかな)


 自分が二度も生き、あのヴィンセント・タンザインを追いかけ回していたなんて、想像もつかない。

 そして同じぐらい、いやそれ以上に、ミゲルの苦しみも葛藤も想像することさえ出来無い。


 オリアナは、オリアナでしかいられない。


(けど、全てが竜神の思し召しだというのなら、きっとそれでいいんだ)


「ミゲル」

「ん?」


「また、パジャマパーティーしちゃう?」


 ミゲルが目を見開いてオリアナを見る。


「思い出したりはしてあげられないけど、パジャマパーティーならまた出来るし、ミゲルが話したいことがあれば、なんでも聞くよ。いっぱい聞きたい」


「……百年くらいかかるかもよ?」


「長生きするから大丈夫!」


 ミゲルが息を止めて、オリアナを見つめる。


「百年間お話聞いたげるから、三人でおじいちゃんとおばあちゃんになっちゃおうぜ」


 オリアナが二カッと笑うと、ミゲルは黙り込んで大きな片手で顔を覆った。

 数秒後、いつものにまーとした笑みを浮かべたミゲルが、オリアナを見下ろす。


「あんまり俺を可愛がっちゃうと、やきもち焼きのおじいちゃんがふて腐れるかもよ?」


「そん時は一緒にご機嫌取りに行ってよ~」


 頼りにしてるんだからとオリアナがお願いすると、ミゲルはまた片手で顔を覆った。


「……うん」


 子どものような、あまりにも小さく頼りないミゲルの返事に、オリアナの胸がいっぱいになる。


「うん」


 だから、大きな笑顔を浮かべて、オリアナはミゲルの背に手を伸ばした。よしよし、と大きく広い、丸まった背を、出来る限りの優しさを込めて撫でた。





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