第87話 ありふれた友情 - 03 -
「……アズラク、どうしたの? それ」
オリアナは目をまん丸にして、アズラクを見た。
アズラクは全身に、泥や葉っぱを付けた格好で座っていた。真顔の顔にはひっかき傷がいくつもあり、両手には暴れ狂う毛玉が握られている。
「……世話になっている用務職員に、少しだけだから世話をしていてくれと頼まれたんだ。手を離すと逃げ出して、手が届かないところに入り込んでしまうから、仕方無くこうしている」
ぎにゃ、にゃ! と、アズラクの手で掴まれているのは、白地に茶色の模様がついた可愛らしい子猫だった。子猫はアズラクの手をひっかきながら、どうにか抜け出そうともがいている。アズラクの手は傷だらけだ。
ヤナの護衛のため、学校の敷地内を自由に行き来することを許されているアズラクは、用務員に世話になることが多い。
友人らしい友人を見かけないアズラクが、一番心置きなく会話をしているのは、今年六十に手が届きそうな用務員のおじちゃんではないかと、オリアナは密かに邪推しているほどである。
ヤナとアズラクは基本的に行動を共にしているが、四六時中一緒と言うわけでは無い。
男女で教科が異なる場合もあるし、アズラクも一応生徒として入学しているため、彼に課せられている責務もある。その一つを遂行するために、ほんの少しの間離れていただけなのに、なんだか楽しそうなことになっている。
子猫に引っかかれ、若干途方に暮れている大男を、オリアナはキラキラと目を輝かせて見つめた。何でも器用にこなすアズラクも、小さくて可愛い生き物への接し方は下手らしい。
面白がってアズラクを見ていたオリアナの隣で、直立不動だったヤナが動いた。しゃがみこみ、子猫と視線を合わせ、鳴き声を真似する。
「にゃー」
全く似ていないが、心臓が飛び出るかと思うほど可愛かった。
「にゃー?」
いつもは蠱惑的な黒色の瞳が、好奇心と愛情で輝いている。ほんのりと上気させた頬が、ヤナの興奮を表していた。
ぽかんとヤナを見ていたオリアナは、アズラクを見た。アズラクの切れ長の目が、僅かに見開かれている。
元々茶目っ気があるヤナだが、王女らしくない振る舞いは、基本的にしない。膝を付き、小動物に程度をあわせている姿は、どう見ても王女らしく無かった。
「にゃにゃー」
ヤナが指をそっと、子猫に近づけようとする。我に返ったアズラクが、大慌てで子猫を持った手を移動させた。
「ヤナ様、それ以上はいけません」
「ほんの少しだけよ。ちょこっと、そのふわふわのお手々に、ちょっぴり触れるだけ」
「非常に凶暴なのはおわかりでしょう? アズラクは絶対に許せませんよ」
傷だらけのアズラクの顔と手を見れば、子猫の凶暴さは一目瞭然だった。
「許さないだなんて、アズラク。お前、生意気よ」
「なんとおっしゃっても駄目です」
「さては私の愛情を子猫に取られるやもと、嫉妬しているのね?」
「そのような戯れ言で、心乱される護衛と侮ってほしくはありませんね」
いつになく強気なアズラクと、珍しく喧嘩腰なヤナを、オリアナはハラハラと見守る。
これほどヤナが求めているのなら、一瞬だけでも……と思わないでも無いが、アズラクの傷だらけの手を見ると言葉が引っ込む。
「お前は昔からそうだったわ。私がしたいと願ったことはいつも、あれも駄目、これも駄目と……」
「ヤナ様のためです」
「四歳の頃もよ。シンラ兄様の飼い始めたシンティの尾を、ちょこっと触ろうとしたら……」
「お忘れのようですが、その頃のシンティは既にヤナ様よりも大きかったのですよ。虎ですからね」
「この子猫は小さいわ」
「ですがシンティより格段に凶暴です」
「なら、次にシンティに触ることを止めたら、許さないわよ」
「それとこれとは話が別です」
「お前っ――!」
オリアナがあわあわしている間も、ヤナとアズラクは言い争いを続けていたが、アズラクは決してヤナに子猫を触らせることは無かった。
そうこうしている内に、子猫の飼育セットを抱えた用務員のおじさんが帰って来る。
「おやおや。こりゃどうしたこったね」
「おじさんっ……!」
用務員のおじさんを救世主のように感じたオリアナは、涙を流さんばかりに喜んだ。おじさんはアズラクの手を見るとぎょっとする。
「あれまあ。お前さん、動物とは相性が悪いんだな。すまんかったね。すぐ医務室に行くといい。預かってくれてて、ありがとうな」
用務員のおじさんは、アズラクの手からひょいと子猫を拾い上げると、持っていたタオルでくるくると体を巻いた。瞬時に大人しくなった子猫は、おじさんの腕に抱かれ、差し出された温めたミルクを、喉を鳴らして飲む。
慣れた手つきで布をミルクに漬け、子猫の口元に運ぶのを繰り返す姿を、ヤナが固唾を呑んで見守っていた。その様子を、オリアナとアズラクもひっそりと見守る。
「……医務室、行かないの?」
「今離れるわけには」
ヤナの後ろでこそこそと会話していると、「あの」とヤナが用務員のおじさんに向かって言った。
「私にもさせていただけませんか?」
「ああ、いいよ。やり方は見ていたね?」
「はい」
止めようとするアズラクのローブを、オリアナが引っ張る。神妙な顔で首を横に振ると、アズラクは渋々引き下がった。先ほどよりは、格段に安全が確保されていることを認めたのだろう。
神妙な手つきで真似るヤナは、授業でも見られないほど真剣な顔つきで子猫にミルクをあげた。ヤナが差し出した布に、子猫が吸い付く。ヤナは息を殺し、一瞬さえ見逃すことのないように、瞬きせずに見つめていた。
子猫が催促の声をあげる。布のミルクが無くなったのだろう。ヤナは静かに布をおじさんに返した。
「もういいのかい?」
「ご迷惑をおかけしました。心から、満足致しました」
「そうかい。もうちょっと見ていくかい?」
「はい」
ヤナはそれ以上手を出そうとはしなかった。けれど一心に、世話をされる子猫を見つめ続けていた。
「――ここでなら、ヤナ様は欲しいものを欲しいと言える」
小さな声でアズラクが零した。しかし、すぐに自嘲を浮かべる。
本心ではきっと、なんでもしてやりたいだろう。させてやりたいだろう。だがヤナが大事なあまり、過保護にしすぎてしまう。
子猫を真剣に見つめるヤナを見つめていたアズラクが、自嘲を消してオリアナに顔を向ける。
「すまないが、医務室へ行ってくる」
「うん」
自分の体に傷がつくと、アズラクは必ず医務室に行く。それは怪我を治すためというよりも、ヤナの心配を取り除くために行っているようにオリアナには見えていた。
「ヤナとは後で一緒に帰るから」
「……すまないな」
「友達ですから」
アズラクが口角を上げて笑う。
無愛想で融通が利かなく見えるこの男、こういう必殺の武器を持っているから、密かに女生徒に大人気である。
アズラクが医務室へ行った後も、ヤナはじっと子猫を見ていた。一度手を出してからは、先ほどまでの剣幕が嘘のように、大人しく子猫を見守っている。
黄金の国、エテ・カリマ――
王の娘は手に入らないものなど無いだろうと思っていたのに、甘く焦がれる瞳で子猫をじっと見つめるヤナが、オリアナにはあまりにも切なく見えた。
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