赤い麦
宇山遼佐
現代のポイゾン・ヴィル
1
S町に入ると世界が変わり、暴力が支配するようになる。一時間に一本の私鉄を降りると、人の腕らしきものを咥えた野良犬が出迎えた。公衆電話の傍で、前足で器用に押さえながらひと噛み、ふた噛みとしている。しばらく眺めていると、警官があらわれた。無精髭を生やし、制服の着こなしはひどく悪い。腰から警棒を抜くと、犬の頭に連続して振りおろした。犬は飛び跳ね、痙攣して、まもなく動かなくなった。警官は唾を吐いて去っていった。
「人間の味を覚えたのは、ああするのが妥当です」
振り向くと、男が立っていた。事務所で見かけた、役人風の男だった。明るいグレーのスーツを着こなし、気どった、柔らかい微笑をたたえていた。
「いい町ですな」私は帽子をとった。「日本の原風景だ」
「案内します」男は私のスーツケースをとった。「長旅でお疲れでしょうが、社長がお会いしたいと申しておりますので」
私は男の車に乗り込んだ。車窓を流れる町は寂れていた。電飾のついた、にぎやかな建物がいくつか並んでいたが、全体像からすればまやかしのようなものだった。
駅の正面通りから、国道に曲がった。すこし行くと、煉瓦造りの橋がかかっていた。その隣に、依頼主の待つ四階建てのビルがあった。これも煉瓦造りだった。屋上には〈杣屋日報〉と書かれた看板があった。車はその脇の小路にはいった駐車場に停まった。
「あなたの社長というのは、何者なんです」車を降りると、私は訊ねた。
「新聞社です」男はいった。「まあ、いわゆる地元紙ですが」施錠して、「市内じゃ結構有力なんです。そこいらの新聞より、発行部数は多いくらいです」
最上階の応接間に入った。一九世紀欧州風の造りだった。一方の壁には古い装丁の洋書が並んでいて、反対側にはさまざまな酒が並んでいた。棚の間の柱には、勇ましい角をした雄鹿の首と、フィンランド製の狩猟用ライフルが飾ってある。依頼主は中央に据えられたソファーに身体をあずけていた。壮年の男で、百キロ近くはある、がっしりとした体躯を持っていた。濃紺のスーツの袖からのぞく拳は分厚く、ドイツ製の腕時計を自慢げにつけていた。
「ようこそおいでくださいました」依頼主は立ちあがって、手を差しのべた。いかめしい顔つきとは裏腹に、知性の感じられる声だった。「
「宇山探偵社の調査員です」私は名刺を渡した。適当な偽名が書いてある。
平子は着席と葉巻を勧めた。私は坐り、葉巻を咥えた。秘書風の男が進み出て、ライターを出した。
「マッチはありますか」私は訊ねた。男は頷き、棚から葉巻用のマッチを持ってきた。三分の一ほど燃やしてから差しだした。
平子は喉を鳴らすように笑った。「面白いお方だ」
「こればかりは譲れません」私はいった。「煙草もマッチです。もっとも、安物ですが」
「いやいや結構」平子はいった。「ブランディなど、いかがですかな」
「ええ、いただきます。強い酒は燃料です」
「結構!」歯をのぞかせる。「あなたは信頼できる人だ──おい」
秘書風の男がグラスを持ってきた。黄金色の液を注ぎ、私たちの前に静かに置いた。上物だった。透きとおるように舌に沁みた。
「どうですかな、お口にあいますか」
「ええ、いいブランディですな。こんな田舎で呑めるとは思いませんでした」
「ここぐらいなものです、この町では。ほかはありふれたものか、密造した粗悪なものばかりです」
「なるほど」私はいった。葉巻をつまんで、「このご時世に密造酒の売買ですか。合衆国じゃあるまいし」
「この町は──いやまったく、古今東西の罪の見本市のような有様で」平子は左手で膝を叩いた。溜息をつく。「こんなところにも警察はあると言ったら、下手な冗談よりひどいものとお思いになるでしょう」
「いいえ」私はこたえた。「さっき見ました。いちおう職務はまっとうしとりましたが」
「連中の脳といえば、野良犬を殺すことと横柄な態度をとることだけです。県警本部も連中から賄賂を受けとっておりますから、頼りになりません」胸を大きく膨らませて、煙を吐く。「そんなだから、商工会までもが極道まがいな真似をしだしてしまって」
私は葉巻をおいて、「つまり?」
平子は葉巻をおくと、両膝に手をついて身を乗りだした。
「ええ、まず、この町にはもともと極道の本拠地がありまして──県内の暗部のほとんどを取り仕切る大手の極道でした。まあ、金さえ払っていればばおとなしい連中でしたし、まだ我慢の行くところでした。が、そこの親分の甥っ子というのが、あるとき暴走族くずれの仲間を連れてきた。行くあてがないというので、親分は自分の組に置いてやった──これがいけなかった。
次第に増長して、勝手な商売をはじめたのです。売春、賭博、麻薬、詐欺に酒の密造……最近は不法入国者を匿って、山奥の農場で労働させている。そしてついに、親に弓引いて自分の組をつくった。白昼堂々とドンパチをして、堅気を巻き込み、警察が使い物にならないので、その堅気連中ですら極道化しだす始末」両腕を広げる。芝居の台詞を述べるように、「おかげでこの町の腐敗は、誰にも止められなくなった!」
私は葉巻をふかして、彼の息が切れるのを待っていた。
「つまり、内偵というのは口実にすぎないのですね」
「なんですって」平子は訊きかえした。
「あなたは、私にこの毒の市(ポイゾン・ヴィル)の浄化を依頼したいわけだ。探偵小説のように」
平子は喉を鳴らした。「さすがは探偵。察しが早くて助かります」背もたれに岩のような身体をあずける。「いちおう、内偵はしてもらいます。商工会のね。どうも武装している気がありまして」
私は口の端を吊りあげて、「拒否すれば、あなたは私を殺すでしょうね。あそこの鹿のように」
「まさか」平子は笑った。「これでも私は清く正しい男で通っておりますので」
「報酬はかさみますよ」私はいった。「払えますか」
「ご冗談を」平子は肩を震わせた。「金で腐敗が一掃できるなら、一億円だって端た金にすぎない」
「よろしいでしょう」私はブランディを干した。営業用の文句を口にする。「宇山探偵社はその義務を尽くすことを誓います」
「ありがとう、信頼しておりますよ」平子は立ちあがって手をさしのべた。「滞在中の世話は──おい」手を二回鳴らした。
入口の重いドアが開き、先ほどの役人風の男がはいってきた。
「この松永に世話をさせます」
「あらためまして、松永です」松永は胸に手をあてて頭をさげた。
「宿も手配してあります。お疲れでしょう。今日はそこで休むとよろしい。あとで酒も──お望みならば女性もお届けいたしますが」
「いや、酒だけでじゅうぶんです」私はいった。「こんな猿顔、デブ、ガニ股の三拍子そろった醜男の相手をさせられるのも気の毒です」
平子は大きく笑った。「やはりあなたは面白いお方だ。まったく信用できる」
新聞社を出て、松永の車に乗った。エンジンをかけながら、彼が話しかけてきた。
「そういえば、銃を扱ったことは」
「まあ、嗜み程度には」
「よかった」松永は歯を見せた。バックのために身体をひねって、「これを」
新聞紙の塊をさしだした。重みがあった。膝の下で丁寧にほどく。リヴォルヴァー式拳銃だった。銃身が短い、小振りなものだった。
「弾はあとで渡します。すこしの間はそれで我慢してください。自衛用ぐらいにはなります」
「わかった」私は新聞紙に包みながらいった。鞄にしまう。座席に身をあずける。口元が自然と歪む。「まったく、いいところだよ。ここは」
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