あああ!
門前払 勝無
第1話
ビビビッ!
ブザーが鳴り響いた。ガッチャンガッチャンという音はピタッと止んで、黒い影達はそれぞれバラけていった。
薄ら汚れた作業着が汗臭く、埃臭くて嫌気がしてタバコを吸ってヤニ臭くなって更に嫌気がする。黒い影にはなりたくない。だが、このままでは黒い影になってしまう。
豚皮の手袋をドラム缶に捨てて、粉石鹸で念入りに手を洗う。黒い影達はまともに手も洗わずに帰っていく…。
晴れてる空もいらない。
曇りもいらない…雨も…。
総菜屋でメンチカツとウィンナーの揚げ物を二つ、ポテトサラダ…。
総菜屋のおばちゃんがニコニコしている。毎日同じ時間に来る客な俺…顔も覚えるだろうよ。
高速の下のアパート…錆び付いた階段、立て付けが悪い木製の玄関ドア…。ポタンポタンと水を垂らす水道。ユラユラとニトリで買ったカーテン…。
フラフラな俺…。
西陽がからかってくる。窓から土手を見ると仲睦まじい老夫婦、自転車の練習中の小さい子とお父さん…。
窓を締める。
優子はワインパーティに参加している。今日はイタリア産を持ち寄ってみんなで試飲会をしている。慶応卒のリーダーが誕生日にくれたワイングラスを持参している。
周りを見渡すと口だけが笑っているのっぺらぼう達が気持ち悪い…。ワイングラスに映る自分ものっぺらぼうになっている。溜め息を心の中でついた。慶応卒のリーダーものっぺらぼうである。
「楽しんでる?」
声をかけられた。
振り返るとのっぺらぼう…がいて表情が解らない。
「はい、楽しんでます」
「夜空が綺麗だからテラスに行かないか?」
「いいえ、行きません」
「そっか…」
のっぺらぼうは夜空を使って私を口説こうとしていたのに吐き気を覚えた。
はぁ…。
ハァ…。
ふぅ…。
溜め息三連発…。
優子はワイングラスをシンクの中に置いてそっと会場から帰った。
駅のホームから夜空を見上げると、本当に綺麗だった。でも、一人で見るのが良いよねと思った。
マンションへ向かう途中の新聞屋と銭湯の角で人がうずくまっている。近づくと作業着を来た男の人がゴロゴロ言っている猫のお腹を擦っていた。猫は気持ち良さそうにあくびしている。
「可愛いですね…」
優子は隣に座った。
「産まれて半年です」
「子猫ですね…甘えてる」
「兄弟が他に三匹居たんですけど、貰われたり死んだりして、今はこの子だけです」
「一人なんだ…」
「はい…まだ小さいから餌も周りの大人に取られちゃうんです」
「だから、お兄さんが餌をあげてるんですか?」
「はい…ごめんなさい」
男は頭を下げながら立ち上がった。
「もう、餌もあげないので…ごめんなさい…失礼します」
男は足早に高速方面へ歩いて行ってしまった。
野良猫に餌をあげるなっていうクレームだと思われたみたい…。
ハァ…声かけなければ良かった。ただ、子猫が可愛かっただけなのに…。
少し離れた所から見ている子猫に「ごめんね」と言った。
メンチカツとポテトサラダを皿に移して、茶碗にご飯をよそって小さいテーブルに並べた。ウィンナーは子猫にあげたから無い。野良猫に餌もあげちゃいけないのかよ。たまにしかご飯を食べれないのにそれすらも人間のエゴで許されないなんて…。メンチカツにウスターソースを多めにかけて頬張った。
同じ時間に総菜屋…。
はんぺんにチーズが挟んである揚げ物とフランクフルトを一本、コールスローを買った。いつものおばちゃんは相変わらずニコニコしている。
銭湯の近くに行くと子猫が自販機の裏から顔を出した。俺は子猫に近づいて、周りを警戒しながらフランクフルトを千切って口の中で砕いて、手に出して子猫にあげた。
子猫はフガフガ言いながら食べている。時折、俺の顔を見上げてくる。何が言いたいのか解らないが、俺は頷きながらフランクフルトを千切って、またあげる。
また、誰か来ない内に全部あげないとなぁ…。
「お前…俺んち来るか?」
子猫に聞いてみたが何も答えないで食べている。
「嫌だよな…」
俺は子猫の頭と背中を撫でてあげた。
「あの…昨日はごめんなさい…餌をあげるなっていう意味じゃ無かったんです」
いきなり後ろから声を掛けられて、ビックリして総菜屋の袋を落としてしまった。
後ろには昨日の女が立っていた。
「ごめんなさい」
女が謝ってきている。
俺は慌てて立ち上がり、女に会釈だけしてその場を去った。
「なんだよ…あの女…」
俺は振り返らずに真っ直ぐ歩いた。
「はぁ…また悪いことしちゃった」
子猫が寄ってきた。足元でアタシの顔を見上げている。慰めてくれてるみたいだ。
あの男の人はいつもこの子に餌をあげてるんだ…。
「あの人は名前は何て言うの?」
子猫に聞いてみた。
「北原さんだよ」
「え?」
「下の名前は解らない」
子猫がしゃべっている。
「喋れるの?」
「喋れるよ」
子猫は前足を舐めながらくつろいでいる。
「いつも餌をもらってるの?」
「うん、北原さんは優しいんだよ。さっきも俺んちに来ないかって言ってくれたの」
「そうなんだ…優しい人なんだね」
子猫は頷いた。
「でも、あの人は人間が嫌いなんだよ…あの人から人間は黒い影にしかみえてないんだってさぁ…」
「黒い影…アタシは、のっぺらぼうにしか見えてないよ」
「ふぅ~ん」
「北原さんの顔はちゃんと見えたよ…すぐに逃げちゃうけどね」
「そうなんだ…」
「北原さんにはアタシは黒い影なのかな?」
「解んないけど…明日聞いてあげようか?」
「うん!ありがとう」
「北原さんのくれるご飯はいつも油っぽいから…お姉さんは魚系をちょうだいね!」
「解った!明日持ってくるね!」
子猫の頭を撫でてあげた。少しゴロゴロ言ってくれた。なんだか明日の楽しみが増えた気がした。
黒い大きな影に仕事終わったら飯に行こうと言われた。
俺は大きな影の後について行き中華料理屋に入った。
生ビールと餃子とあとなんか色々出てきた。
黒い大きな影は何だかんだと仕事の話をしている。俺に不満があるみたいだった。俺は「すいません」を繰り返した。それで良いなら何回でも言ってやるよ。
いつもより二時間も遅くに帰った。総菜屋は閉まっていて、コンビニで猫缶を買っていつもの所へ行った。少し酔っているせいか足元がフラフラする。
銭湯の角には子猫が寝転んで遊んでいた。俺は猫缶を開けて子猫の前に出した。
「北原さん。ごめんね、今日ね優子さんがご飯くれたの…」
「優子さん?」
「北原さんがいつも逃げちゃう人だよ」
「あの女か…」
「そうそう、よく女だとわかったね」
「だって、見たら解るよ…」「顔は覚えてる?」
「覚えてるよ」
「…」
「どおしたの?」
「あああ!!なんで喋ってんだよ!」
「喋べれるよ」
「…ま、いっか」
「それでね、優子さんなんだけどね…北原さんに謝りたいんだって!」
「何を?」
「僕にご飯あげてるところをいつも邪魔しちゃうから…」
「あの女は凄いタイミングで来るよな…」
子猫が膝にスリスリしてきた。
「なんだよ!」
「この先のマンションの入口で待ってると思うから行ってあげてよ!」
「はぁ??」
「ねぇ!ねぇ!」
「あああ!!お前!買収されたな!!」
子猫は笑いながら走っていった。
「逃げやがった!」
俺は渋々、あっちのマンションの方へ向かった。たしか、綺麗な新築のマンションがあったはずだと思いながら歩いた。
エントランスの前にうずくまっている人影を見つけた。
ほんとにいると思った。
俺はゆっくり近づいた。
「こんばんわ」
優子は微笑みながら言った。
なんだよ。なんか勝ち誇った微笑みは…。
「…」
「来てくれてありがとうございます…あの猫ちゃん、伝えてくれたんだね」
「…」
「なんか…ごめんなさい」
「…べつに…」
「貴重な時間を使って来てくれてありがとうございます」
「…」
「…お茶でも飲みませんか?」
「買ってきましょうか?」
「アタシの家に美味しいハーブティあるんですよ」
「家にあがれと…?」
「…はい」
「汚い作業着なので…汚してしまいすよ」
「大丈夫ですよ…掃除すればいいだけだから」
「…」
俺は女の後についてマンションに入った。
無機質なコンクリートの迷路を置いていかれないように着いていった。
カードキーの扉は重厚感があって、城の扉みたいだった。玄関は広くて明るい、猫の置物が睨み付けてくる。
俺は作業靴の紐をほどいて上がろうとしたが、靴下に穴が開いていて、恥ずかしくなって、また紐を結んだ。
「俺…ここでいいです」
「こっち来て座ってくださいよ!そこじゃ寒いですから」
リビングの奥から優子は声をかけた。
「ここでいいです!」
俺は玄関で靴を脱がずに座った。
優子はティーセットをお盆に乗せて玄関まで来た。
「ここでいいんですか?」
「はい」
優子はニコニコしながらハーブティを注いだ。
少しの沈黙があり、チラチラと目があった。
「このハーブティ美味しくないですか?」
「は…はい」
「あの子猫ちゃん…喋れるんですよ」
「そう…みたいですね…ビックリしました」
「北原さんはお仕事は何をしてるんですか?」
「ギアを研磨する工場で働いてます」
「大変な仕事ですね」
「…」
「あの子猫ちゃんにご飯あげてるところを、いつも邪魔しちゃってご免なさい!」
「いや、謝らないでください…」
「でも、悪いことしちゃったから…」
「別に…」
俺はハーブティを飲み干して立ち上がった。
「ごちそうさまでした…帰ります」
「あの、一つ質問があるんですが…」
「はい…」
「他人が黒い影に見えてるって本当ですか?」
「…本当です」
「アタシは、みんなのっぺらぼうに見えるんです…口だけが笑っていたり喋っていたり…なんか、人を見てると気持ち悪くなるんです…そういう人たちと居るときにアタシものっぺらぼうなんですけどね…」
「…キモいですね…自分は…他人に興味ありません」
「…でも、北原さんの顔はちゃんと見えたんですよ」
「…」
「北原さんはアタシも黒い影に見えますか?」
「いいえ…ちゃんと見えてますよ」
「良かった!じゃお互いちゃんと見えてるんですね!」
「そういう事になりますね」
「また、お茶しませんか?」
「…機会があったら…では、帰ります」
木枯らしが冷たく通りすぎて行く…何度も新しいマンションを振り返った。
自分のボロアパートに着くとため息が出て、自分の部屋に入るのに少し躊躇した。
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