第11話
Baroque-crack-click-sick-rick-rock-lock-block-Baroque。
頭の中で修辞のことばがぐるぐると回る。
割って突いて病んで撚って揺らして閉じて拒んで。
カノンのように言葉がとうとうと流れていく。
人の輪が、次々と連鎖して、広がるネットワーク。その中心へと、深層を知るために潜ろうとしても、そこは電波暗室のごとくつながりを持とうとはしてくれない。わたし以外のネットワークは繋がっているというのに、退路も、迂回路も、あらゆる連理を探っても
はっ、と意識が覚醒する。列車は品川到着前に90度の急カーブを曲がるので大きく揺れた。時刻はまもなく朝の9時。わたしを乗せたひかり634号は今日も定刻通りに品川駅へと滑り込む。名古屋に到着する前に眠ってしまったので、2時間ほど眠っていたことになる。結局昨夜は、調べ物や各方面へのお願いで一睡もできなかった。表現への制限行為とデモ行進、前にも似たようなことがあったな、とネットの記事をたどればすぐに発見することができた。シャルリー・エブド誌襲撃事件、2015年にフランスで発生した、ミスリル経典テロ事件とある意味似たテロ事件、12名が犠牲となった過激的な事件だ。表現を規制する風潮に人々がどう立ち向かったか、という記録を読んで、「聖者の行進」がいかほどに危険な行為かを知ろうと思ったのである。当時の日本国首相は、「言論の自由、報道の自由に対するテロを断じて許さない」と言葉を残した。今は別の首相になっているが、同一与党内で当時官房長官だった人である。きっと同様の思想を持っている、と信じたい。
デモを行った人間には、さほど罰が下った、とは書かれていなかった。あるいは、書いてあってもわたしはそれを見なかったフリをした。
次に確認したのは、身バレである。
各出版社と新聞社の協賛でデモ行進を行うということは、プレスが入る。テレビ局も来るだろうし、こういうサブカル事業にはニコニコ動画だってきっと来る。先頭に立つ人間をドローン撮影だってするだろう。その被写体がわたしである。ユニークユーザーが10万か20万かは知らないが、ばっちりと、映像としてインターネットの海に、あるいは全国ネットにさらされるのだ井守千尋が。……いや、まだ行進をするだなんて決めていないけれど! 全国区の名前になるなら小説家としてがよかったな……。
その際に、である。①名前だけ、②姿だけ、③名前と姿が一致する、①から順に③が一番危ない。個人情報なんてあってないようなものだ。大学の部活じゃ対外向け情報に本名載っけていたのだから、少なくとも10年前までのわたしの動向がまるでバレてしまう。ということは、大学訪問時に「3年目のやりがい~井守千尋氏による就職セミナー(2016年度 当学大学院卒 2級建築士 )」という広告を打ってもらったのがバレて、そしてそこには入社時の顔写真も載っているから顔と写真が一致して、会社からは追い出し部屋に送られていくんだわ! きっと本名バレなんて碌なことにならないの!
ゼロ年代後半から10年代前半のインターネットの住人はこのように過度に本名が出ることを恐れる。facebookに本名や大学名や企業名を堂々と書いている人たちはさぞ恥のない人生を送ってきたんだろうね。わたしは違うぞ。恥の上塗りばっかりで、それでもめげずに前を向いて生きていける。でもできれば、名前だけで許してほしい。
ということで、「ムジカ・レトリックの旗」の聖者の行進シーンで、くれないはいったいどのような格好をしていたのか。キービジュアルでの姿は、アマゾン掲載の表紙で見ることができるが、第9巻となると、そもそも表紙にくれないは載っていなかった。銀髪のショートカット少女が載っていてとてもかわいいのだけれど、これがくれないということはないのだろう。
調べる方法が無いわけでは無い。なにせ、わたしは早霧谷との家出時に「旗」の古本を手に入れていたから。読めば、書いてあるのだ。しかし、一緒に余計な情報も入ってきそうなのである。なにより、1巻からして内容を忘れてしまっているものを9巻から読んでいいものだろうか。ダメだろう。
そこまで悩む身バレ対策。理想は仮面、せめて目元を隠す仮面。そうだ、コロナなんだからマスクをすればいいじゃない。タキシード仮面のような、あるいはシャア少佐のような仮面に白マスク。どう見ても不審者だけどね、それなら井守千尋の身バレは少ないのではないだろうか。
求心力が足りないので、結局はZoomでも披露することになった通りの姿で挑むことになりそうだ。いや、まだ聖者の行進に参加すると決めたわけではないのだけれども。それに、わたしが一人で先導ではなく、ぽつねん先生も一緒だという。それなら、まだマシだ。
東京駅で新幹線を降りると、中央線に乗りかえた。行楽日和の土曜日、天気は少々曇り気味だけど太陽は出ているし、今までの10月であれば観光客でごった返している乗り換え改札、そして山梨や長野に列車で向かおうとする人の詰まった中央線は、通勤ラッシュが無いからと閑散としていた。福井という田舎に異動してから半年、東京の人の多さを多少忘れつつあるのかもしれないが、異様なほど静かに思う。これが、コロナが日本から元気を奪っている、ということではないだろうか。
御茶ノ水で総武線に乗り換えて、飯田橋へ。わたしは、KADOKAWAビルに来て欲しい、と連絡を受けていた。
「KADOKAWA? 芙育出版ではないのですか?」
藤澤さんは電撃文庫編集部からFE文庫に異動した編集者だ。その人との打ち合わせなのだから、芙育出版のビルに向かえばいいのだろう。そっちは神保町にある。
「ムジカレだけのために、芙育はスペースを確保できなかったので、KADOKAWAに間借りさせてもらっているんです。まあ、芙育出版の本社も近いんだけどね」
隣の市ヶ谷から地下鉄に乗り換えてすぐであり、日本の出版社は総武線の堀界隈に固まっている。このような事態ではなく、出版物の打ち合わせで来れるようになりたいな。芙育出版がどのようなつもりかは知らないが、もしかしたらFE文庫をKADOKAWA連合に入れるのかな、とも思った。富士見ファンタジア文庫、スニーカー文庫、もともとはこの2つだけが角川系列だった。しかし、電撃文庫が主婦の友社の流通を使うということで、メディアワークスから刊行開始。これは1993年のこと。広義でいえば角川傘下ではあったが、アスキー・メディアワークスへの組入れ、そして2012年のKADOKAWA傘下への大合併でMF文庫Jとファミ通文庫までKADOKAWAという帝国の庇護下に入ったのである。小学館ガガガ文庫や講談社ラノベ文庫といった大手出版社の持つレーベルは、出版社そのものに力があるのでレーベル存続もある程度安泰ではあるが、教育書が専門である芙育出版ではFE文庫の存続は難しい。一度消えた理由もその辺があるのだろう。スマッシュ文庫、クリア文庫、ほか多くの中小出版社が立ち上げたレーベルが消えていったのは、どうしても母体の小ささが影響しているのだ。ムジカレという作品を今後存続させるのであれば、プロモーションの力を持つKADOKAWA系列に組み込んでしまうのは一つの手段として十分に考えられることだった。
ともかく。
わたしは、KADOKAWAの巨大なビルに入り、ライトノベルを手掛けるフロアへと上がった。ここは聖地であり、素人が入ってはいけないのだけれど、仕事なのだから、と気合を入れる。身支度も、外回り用のスーツ、何ヶ月かぶりにブラウス、リボンタイ、フレアスカートにジャケット。東京勤務の頃が懐かしく思える姿だ。入館証を首にぶら下げたが、これが社員証だったらラノベ編集者に見えるのかな?
「おはようございます、井守さん」
疲れた顔の藤澤さんが、わたしを待っていた。昨夜の打ち合わせから寝ていないのだろう。編集者はだいたいそういう感じなんだと、「編集長殺し」や「妹さえいればいい。」に書いてあったぞ。あっ、どっちもガガガじゃん他社レーベルじゃん。
壁には、アニメ化の発表された「幼なじみが絶対に負けないラブコメ」のポスターがずらりと貼られている。おい、先にアニメ化を発表した「86-エイティシックス-」はどうした。
「まさか、このような形でKADOKAWAに入ることになるとは思いませんでした」
「嬉しいですか?」
「微妙なところです」
「ははは、次の電撃大賞でもお待ちしています。さあ、どうぞ」
通されたのは会議室。入り口には、涼宮ハルヒとアスナの等身大ポップが仁王像のように通行者の方を向いて立っていた。レーベルの垣根を越えた、超大手ならではの光景……、と、円卓状に配置された会議用テーブルを囲むように等身大ポップが並んでいる。アクアさま、レーナ、十香に姫路さん、深雪に、よう実のキャラ(読んでいないので……)と、これって。
「らのスポのポップですか?」
「ああ、わかりましたか。置き場がないもので」
「レーナさんとハルヒならわたしが持って帰りましょうか」
「何をいっているんだははは」
らのスポ。ラノベエキスポ2020。本来はところざわサクラタウンのフルオープンに合わせ開催されるはずだったライトノベル史上最大のイベントだ。電撃、富士見、スニーカー、MF、ファミ通。5レーベルの合同イベントであり、昨年の「秋の電撃祭」にて開催の告知があったにもかかわらず、コロナの影響によって今年6月に中止が発表された。おそらく目玉は6年半ぶりの新刊が出る涼宮ハルヒシリーズで、おさまけのアニメ化も、SAOのアニメ新シリーズもそこで発表される筈だったのだろう。行きたかった。
「らのスポ、残念でしたね」
「ええ。お祭り、みんな好きなんですよ。だから、その情熱を持て余していたんです。……悪い言い方をすれば、聖者の行進はその代替だ、とさえ僕たちは考えている」
「悪い言い方ですね、ふふっ」
ライトノベルを盛り上げる、ライトノベルを守る。外向きのスタンスは全然違うが、出版社が全力を出すのにふさわしい舞台だ、と藤澤さんは言った。
会議室の前方、今はウェブ会議が多様されているからか、プロジェクターが常設され、スクリーンにはスライドの1枚めが映写されている。文字は、ムジカレのタイトルロゴと同じフォントで聖者の行進、とあった。
「このスライドは、井守さんにお送りしたものです。おかけください。コーヒーで?」
「ありがとうございます。コーヒーで」
少し待って、と藤澤さんが席を外した。飯田橋の駅から放っておいたスマホが鳴る。メッセージが届いたようだ。パイク氏からである。
『全員、了承しました。ベータ氏、ズコー氏、それぞれ「レギオン」に呼びかけ中だそうです』
ありがとうございます、とだけメッセージを返す。さすがの伝播力だな、と思う。一言呼びかけてくれるだけで動く人たちを抱えているのだから。わたしなんて。
「コーヒーです、どうぞ」
わたしよりも若い女性社員がコーヒーを置いていってくれた。今日は土曜日なのに、働かなくていいのに。家で朝だ生です旅サラダでも見ていようぜ。二口ほど飲んだ頃に、台車を押して藤澤さんが入ってきた。
「やあ、おまたせしました」
「バカなんですか」
台車の上に置かれたものをみた途端、わたしは暴言を吐く。その意図が完璧にわたしに伝わったからだ。なんの打ち合わせだと思っているのか。聖者の行進、という名の表現の自由を唄うためのデモクラシーではなかったのか。
「民衆を先導するには、ヒーローが必ず必要なんですよ。ジャンヌ・ダルクしかり、エルネスト・ゲバラしかり、ね」
はあぁぁ、と溜息が出た。大きな台車の上には、マネキンが2つ乗っかっている。黒いマントを羽織った黒い詰襟男子学生服。そして緋色のマントを羽織った、黒いブレザー女子学生服。一度それを停めると、藤澤さんはもう一度出ていって、もう一台台車を運び込む。台座に立てかけられた二振りの日本刀と、長さ2メートルはあるだろうか。大きな旗である。
「やまぶきの、翠雨と氷雨。そして、くれないの紫雲旗です。井守さんには、そのコs……制服を着てもらって、紫雲旗を持ってもらいます」
「見たところ、立派な生地ですね。ぺらぺらじゃない」
「制服メーカーに頼みましたからね」
「どうしてですか? イベントのコンパニオンさん用?」
「まあ、そんなものです。らのスポでも、ムジカレを特集する予定はありましたからね」
「なるほど……、ね」
翠雨、氷雨という、やまぶきの持つ因果の刀。刃は潰してあるが、実際に刀工に頼んだそうだ。紫雲旗という、「旗」でおそらくくれないが持って行進するものは西陣織らしい。ご丁寧になにかの文様まで綺麗に刺繍してもらって、この一式でいったいいくらするのだろう。
「まだ着ると決めたわけじゃない。来週の聖者の行進について、打ち合わせをお願いします。まず、ですが、ツイッターでハッシュタグ聖者の行進は誰の差し金なんですか? コロナ下で大規模イベントを先導しようというのは、世間体的によくないのでは?」
「……そうなんですよね。これが僕たちも困ったことでしてリークした人間は間違いなくいるんですよ。これを見て、何千人と集まってきてクラスタ形成なんてされたら目も当てられません」
インターネット上では、10月4日13時に武道館に集合! とツイッターやYoutubeで見かけるようになっていた。聖者の行進はもうずっとトレンド入りしており、しかし公式サイトというものが存在しないため、ムジカレと結びつけて様々な憶測が飛び交っている。とにかく、行ってみよう! という意見が大多数を占めているのもよくない兆候だ。
「道路には警察が交通制限をかけるほか、沿道下を走るメトロ、都営地下鉄は該当の時間臨時運休となります」
「都民の足を停めるというのですか」
「箱根駅伝みたいなものですよ。いや、違うか。オリンピックのマラソンや公道レースといえば近いのかな。聖火リレーか。そう、聖火リレー。地下鉄が通る道路の上を聖火ランナーが走る時間、鉄道会社は列車を停める、みたいな話があったそうですから。まあ、聖火が地下鉄の爆破テロで吹き飛んだ、という可能性を潰すためなんでしょうけどね」
オリンピックのマラソンや聖火リレーと同等に語っていいものではない。だが、聴けば聴くほど話が大きくなっているような気がする。スクリーンには、武道館からビッグサイトまでの経路を示した地図が写されている。銀座のど真ん中も突っ切っている。野球チームの優勝パレードみたいだな、本当に。
「クラスタ形成はさせません。聖者の行進は、やまぶきとくれないを先頭として、各出版社の旗を持ったマスゲーム部隊が続きます。その後ろには、自衛隊東京音楽隊のマーチングが続いて、マーチングの後ろには撮影用の車、そして新聞社の旗を持ったマスゲーム部隊です。しんがりは警視庁の白バイが入ります。しかし、井守さんの前を先導する白バイはいません。露払いは完璧に行うから、という条件を警視庁は飲んでくれました」
なんで! 撃たれたら死ぬ! とは思わなかった。デモ、というには、人数規模が小さい。200人に満たない集団なのである。1万人くらいは動員されるとおもっていたのでびっくりだ。
と、会議室の内線電話が鳴った。藤澤さんは応答すると、「ではすぐにお通しください」と言った。
「ぽつねん先生がいらっしゃいましたよ」
はあ、とも、そうですか、とも言えないわたしはそわそわとしていた。プロの絵師さんと直接会うのであるから、ラノベ読みとしては緊張して当然。ファンレターとか、別に何も用意していないのが心苦しい。
「おつかれさまです」
5分も経たずして、会議室には長身の男性がひょこっ、と姿を表した。無造作キノコヘアに柔和な表情。ファッション誌に出ていそうな着こなしだし、Youtubeで歌とか歌っていそう。男性絵師は岸田メルばりにアクの強い人ばかり、という刷り込みのあるラノベ読みは、ここで少し戸惑ってしまう。
「やあ、ぽつねん先生。休みの日にありがとうございます」
「いえいえ、自営業ですから休みもなにもないですよ」
黒いユニクロマスクをしていてもわかる。この男性はモテる。
「それより、井守千尋さんに来てもらいました。朝イチで」
普段、ナイスミドルからナイスを除いた男所帯で働いているので、なんとも緊張し視線を少しぽつねん先生から外してお辞儀をした。
「い、井守千尋です。こうやってお会いできるのは光栄で」
「千尋ちゃん、久しぶり」
ぽつねん先生はわたしの手をいきなり取って、にっこりと微笑んだ。は……? 新手のナンパか? 濃厚接触! 濃厚接触です!
「ユッコと最近連絡取ってる? あいつ全然事件以来電話通じなくてね」
「ユッコ? 連絡?へ??」
わたしはいきなりぽつねん先生に手を握られただけで意味もわからないのに、窮地の中であるムーブで話しかけてくるからなお混乱した。
「あの! あのですね、ぽつねん先生、それに藤澤さん」
わたしは、ムジカレレビューを請け負った話と、ムジカレの記憶が無くなっている話しを、順を追って話した。20分くらいはかかってしまったが、二人ともしっかりと聞いてくれた。
「井守さん、それならそうと早くいってください」
「藤澤さんがコスプレをしろ、って迫ったんじゃないですか?」
「そんなことしてないよぉ。だって井守さん、自分からコスしていたじゃない」
それは反論できないが、実質あんたはコスプレをしろと迫ったじゃないか!
「すみません、ぽつねん先生。わたし、あなたのことを知らない、覚えていないんです」
すると、ぽつねん先生はスマホの手帳ケースから一枚名刺を取り出した。デフォルメされた狐っ娘のイラストをバックに、「ぽつねん」「ILLUSTRATOR」と文字が箔押で打たれている。裏側には連絡先も書いてあった。
「ぽつねん、と言います。絵師をやらせてもらっています。……という情報は特に重要じゃないかな。僕はね、ユッコ、早霧谷有紀子と大学で一緒だった。本名は今吹周といいます。僕の名前をもじって、ムジカレの主人公山吹悠、が出来たらしい。ユッコはくれないのモデルは妹の友達の井守千尋だって何度も言っていたし、ムジカレの二度目のアニメ化のとき僕は君と一度会っているよ」
「そう……だったんですか」
聞けば、辺見ユウ、ぽつねん、ヒビナ、そしてわたしで遊んで飯を食ったとか。
「僕が藤澤さんから聞いているのは、千尋ちゃんが聖者の行進に参加してくれるということだけ。本当は、旗手の先導なんて予定されていなかったんだけど、君の写真がバズったからね」
もう! あの写真は!! っていうか、雪鷺っていうアカウントに苦情を入れるの、また忘れていた!
「僕は、参加したいと思っている。ムジカレはとっても大切な作品だ。僕とユッコが作り出した子供のようなものだからね。怖いけど、でも」
ぽつねん先生は、かばんからiPad Proを取り出す。ああ、絵師さんってこれ使っている人が多いの本当なんだな。
「少しは安心できるかって思って、イラストを作ってみました。これなら、イメージ壊さなくて済むかな?」
画面に表示されたのは、わたしも着た紅和奏の制服姿、を強化したものだった。
「海辺は寒いだろうし、テロリストはもう全滅したかも、っていっても、石とか投げられて怪我をしたら大変だものね。「旗」を何度か読み返して、実際の人間が用意するならこれくらいは、というイメージです。藤澤さん、どうですか?」
「警視庁に相談ですが、いいんじゃないですか? 一週間で用意できそうなものとは思いますし」
iPadにケーブルを繋いで、画像がスクリーンに投影される。
『聖者の行進 紅和奏(井守千尋さん)衣裳案』
わたしはまず、ぽつねん先生が衣装ではなく衣裳、という言葉を使っていることにとても好感を覚えた。衣裳ということばは、舞台や映画で役者の着る衣装のこと。服だけでなく、アクセサリーや鎧など装備全般を指している。
オリジナルの行進のイラストは、旗のピンナップに載っている。A3のコピー用紙にカラーで印刷したものを、藤澤さんが渡してくれた。ネタバレになるから、といって拒絶するほどのものではない。ピンナップなんてたいしてあてにならないのだ。下から見上げたアングルで、くれないが旗を持っている。といっても、ポールしか描かれていないが、制服姿、風になびく栗色の2つおさげ。凛とした表情、上半身には、火の粉が燃えるようなエフェクトが追加され、左目の下から耳の方にかけて一筋傷が走り血が涙のように流れている。紅潮した頬、泣き出しそうな大きく緑ばしった瞳と彼女を包むように飛び交うレトリックの具象化なのか、キリル文字だかルーン文字だかが魔法のように書かれている。ピンナップだけあって、彼女の名前とセリフ、地の文が載っていた。
──和奏は後に続く者たちを聖者と呼んだ。頬の傷がズキズキ痛み、寒風がふわりとおさげを揺らす。
「聖者の行進に涙はいりません!」
オイオイかっこいいな紅和奏。察するに、司令塔として彼女が全責任を追うポジションで、なにかしらの目的のため大勢を率いるが、悲しみや傷を追ったひとばかり。露払いの中傷を追って血を流す中、周りを鼓舞するためにそんなかっこいいことを言ったのだろう。おそらくこのあともう一度攻撃がきて絶体絶命! というところにやまぶきが現れて、カッコイイことを言って二人並んで行進が続くんだぞ。わかるぞわたしはそういう王道シチュエーションが大好きなのだ。だから、このピンナップにやまぶきが写っていないの当然なのである。
さて、そのくれないだが、ぽつねん先生が描き下ろしたイラストでは斜め前方からのアングルで右腕を肩の高さまであげているものだった。よくアニメの設定イラストで見かけるやつ。
『ウィッグ?:間に薄いヘルメットとかをかませて防護? フェイスガード:いる インカム?:ありそうだから 頬の傷:メイクで対応 メイク類:おまかせ 襟から上半身:防弾チョッキ(偽乳も含む) ウェスト:コルセットはいるか? 下半身:防弾タイツのようなものはあるか? ぱんつ対策でスパッツくらいは絶対 ローファー:見た目はローファー! 中身はスニーカー! 腕に小手とかつけても大丈夫とは思うが、変身したくれないの姿はきっと違うのでボツ。 紫雲の旗は本当に軽いものにしてください』
設定画! 設定画だ!
これを見て興奮しないラノベ読みがいたとしたらそいつはきっと普通の読書家だ。あくまでテロ対策をある程度できないかという案ではあるが、とても気を使ってもらっているのはわかる。上下ともに学生服の下に防弾チョッキとサポーターを入れられるやまぶきとは違い、くれないはスカートの下は脚むき出しなのである。今でこそ黒タイツヒロインが増えたが、そしてそれはきっと2009年の「けいおん!」以降のムーブであるが、ゼロ年代は涼宮ハルヒのように黒の膝下ソックスが常識なのである。エロゲ的ラノベ的女子制服であればニーソックスを採用していたかもしれないが、ムジカレの制服のモデルは普通の県立校。それにニーソは似合わない。作中の時間が真冬であれば、そして舞台が新潟であれば分厚いやぼったいタイツをはくのだろうが、イラストの限りそんなことは無い。ああ、懐かしのソックタッチ。
「ぽつねん先生、ありがとう」
設定画をくまなく見て、お礼を述べた。
「千尋ちゃんにそう言われると、嬉しいよ」
「藤澤さん」
「はい?」
「来週……、何時にどこに行けばいいですか?」
「井守さん……!」
ムジカレの編集者と絵師が本気になっていることはよくわかった。そして、ラノベ関係者も大勢本気になっている、ということを。そして、わたしも熱にほだされ本気になるのだ。心づもりは決めていたし、逃げるための言い訳を潰しに今日は東京までやってきた、といっても良いのかもしれない。
「金曜日のうちに、一度KADOKAWAのビルまで、来てください。そうだ、一度試着をしてくれませんか? 見たいとかじゃなくて、ほら、サイズを測って合わなきゃ直しをしないと」
見たければ、来週嫌というほど見ることになるだろうから、本音はサイズあわせのほうで間違いないのだろう。マネキンから剥ぎ取った制服を渡されると、多目的トイレでいそいそと着替えをする。肌着の上からくれないのブラウスを羽織ろうとしたとき、タグが目に入った。シルク製だなんて、金のかかっていることこの上無い。新潟高校の制服を改造した、わたしのムジカレの制服と違って、はじめからくれないの制服だ。手洗い場の鏡を見ると、少しは一昨晩の配信時よりは高校生っぽくなっているだろうか……、いや、それは無いと思う。ただ、わたしの表情は少しだけ、どこを向いて歩けば良いのかという決心を帯びているように見えた。
「サイズはちょうど良いみたいですね」
藤澤さんは私にその場で腕を挙げて歩いてと指示をした。歩いてみるが、特にきついともぶかぶかとも思わない。暑いとも寒いとも思わなかったが、来週は屋外で、千代田区、中央区、港区を抜けて歩いていく。太陽が出ていれば屋外はあたたかいだろうが、レインボーブリッジをわたる湾岸エリアは少し涼しいだろうか。とはいえ、15キロも歩くのだから、身体が温まっているので大丈夫とは思うけれど。
「千尋ちゃん、こっち」
撮るよ~、とぽつねん先生がスマホを片手に手を挙げた。わたしは調子にのって、真顔でピースする。相手がぽつねん先生だから良いかな、と思ったまでである。
「ありがとう。この写真、ユッコに送ってもいい?」
「ユッコ……、辺見ユウにですか?」
「そう。この写真を送れば、返答があるかもしれない。本当にどこに隠れているんだろう。不安になるのはわかるけど、誰かにその不安を話さなければ辛くなる一方なのに」
やりたくない、心配だ、といった漠然とした不安を、口に出せばもっと怖いかもしれない。でも、それを受け止めてくれる人の話しを聞けば、そして辺見ユウの悩みはきっとムジカレとミスリル経典テロについてのこと。それなら藤澤さんやぽつねん先生にすればいいのに、と思う。わたしなら、きっと悩んだら例えば早霧谷とかパイクさんに小説家としての悩みをうちあけるだろう。
「いいですよ。辺見ユウはわたしのことを知っているんですよね?」
「うん。君が忘れてしまっているだけで」
「それなら、メッセージを託していいですか?」
「メッセージ?」
「はい。待っています、と」
わたしが聖者の行進で着ることになるくれないの制服は、防弾ベストとサポーターをなるべく布の裏には仕込んでくれるそうだ。しかし、脚にもサポーターを入れるかどうかは、断ることにした。なるべくくれないのシルエットを残したい、とわたしが願ったから。
「なにかあったら、どう責任を取ればいいか」
「いえ、すべてわたしのレビューのため、ですから」
「……はい? そんな気楽なものでは無いですよ」
「といって、藤澤さんが言い出したことです。警察や自衛隊を信じましょう。それよりも、電話でお願いした話ですが」
「電話で? なんでしたっけ」
何だといえば、そんなことは決まっている。
「ムジカレの本! 売ってくださいよ!」
「ああ、それはダメ」
「は!?」
どうしてだ。こっちは、危険を承知で、羞恥も承知で行進に出ると言ったのに!
「だって、井守さん、ムジカレを読むために参加する、みたいな感じだったじゃないですか」
「みたいな、というかそのものですが」
「今渡したら、逃げられるでしょ」
「ああ……、それもそうですね」
今日もらったら、ぶっ通しでムジカレを読むだろう。禁書になっていて、それを読むためにわたしは動いているので、目的を達成したらこの熱がどうなるか自分ではわかりもしない。ムジカレ以外の書籍は禁書になっていないわけだし。
「その代わり、報酬について」
「報酬、ですか?」
「はい。もしかして、考えていなかったんですか?」
考えていなかった。デモとは自発的にやるから参加者はボランティアみたいなものではないのか。
「いやだなあ、世間知らずですね。日当出ますから。それだけじゃなくて、ビジネスとして。ぽつねん先生と同じ額、お支払いします」
といって、藤澤さんは手のひらを見せてきた。拘束時間は十時間、それで五万円。時給あたり五〇〇〇円。バイトとしては非常に割のよいものである。
「ありがとうございます」
多いな、とは思ったが、交通費や宿泊費をたとえそこから捻出しても晩ごはんは高いビールとかが飲めそう。いや、それくらいはKADOKAWAにたかってやろうか。
「千尋ちゃん、年末調整時に大変じゃない? 5年に分けてもらったほうがいいですよ」
「はい?」
「僕は自営業だから気にしないけどね。五百万円は本当にありがたいけど、それだけのリスクはあるとは思う。特に君。普通の会社員でしょ? 聖者の行進をしたあとには、それまでの普通の人には戻れないよ」
5年? 500万円? え?
「藤澤さん、僕はともかく、千尋ちゃんは倍額、三倍でも払ってください」
「そこで、自分の分はいいから、って言わないのはぽつねん先生らしいですね」
「もちろん。ビジネスですからね」
そんなにお金がもらえるの?
「……とかも、首謀者はなんかの団体からデモをするだけでそれだけもらっています。結局、広告塔にはいくらお金を払ってもいいわけです。テレビと同じ。っていうか、メディアですから。さあ、藤澤さん」
「……わかりました。1300万円。お支払いします」
「わたしに、ですか?」
「はい。井守さんに、です。そのかわり、しっかりと武道館からビッグサイトまでお願いします」
「は、はい……」
1300万円。時給にして、100万円以上。わたしの3年分の年収くらいか。どうやっても、その値段のイメージが沸かない。
「千尋ちゃん、こう考えてみたら。書いたラノベが電撃で賞を取って300万円。20万部売れて印税が1000万円。っていう感じ」
確かに、ラノベの印税は1冊あたり10%とされている。単純に500円の本が20万冊売れて1000万円だ。でも、今の御時世なかなかに20万部も売れやしない。それくらい年間で売れたら専業作家になってもいいラインだろう。3000万部売っているとある魔術の禁書目録なんて、……150倍だから……、15億円。
あのペースでクオリティで書き続けている鎌池和馬が、メディアミックス諸々含めて20億円くらいしか稼いでいない現実、なんだよ、って思う。川原礫もSAOで稼いで30億円も行っているのか謎だ。原作売上1000万部弱の辺見ユウだって、10億円も稼いでいないのか。税金で半分持っていかれたとすると、豪邸といい車と、海外旅行は常にファーストクラス、程度の金持ち。一般的なサラリーマンが生涯年収2億だとして(3億と言われているが不景気な今日びそんなにもらえるとはわたしは思えない)、5人程度の人生と天秤にかけられる。夢はあるけど金のない世界。それがラノベ業界、な気がする。日本のサブカル経済をラノベが回してくれるようになってくれればいいのだけれど。
よくよく考えれば、売上低迷紙の本、という閉塞した状況を打破する一大キャンペーンになるのかもしれない。聖者の行進という行為は、世の中の注目をライトノベルという一般向けではない文庫本界隈にもたらすことになるのだから。
その期待を背負うので1300万円。とりあえずクーパーのローンを払って、さてどうしよう。テレビを55インチのBRAVIAにするのはやるとして、服を……、50万円くらいは買おう。前々から欲しかったルイヴィトンの……。
発想が庶民すぎる自分。その庶民感は、藤澤さんと別れて、ぽつねん先生と一緒にKADOKAWAの玄関を出たところで打ち砕かれる。
「送るよ。どこまでがいい?」
「送るって、ぽつねん先生車で来たんですか?」
「うん、あれ」
ロータリーの端っこには、黒いBMWが駐められていた。わたしは車が好きなので、すぐにそれが8シリーズクーペであることを見抜く。新車価格で2000万円以上する高級車だ。イラストレーターって儲かるんだなぁ。
レザーのシートに座り込むと、ヘッドレストが自動で調整された。高い車ならではのドライバーがポジションにつくとハンドルが動いてくる機構。わたしのクーパーと基本的には同じBMWだが、その豪華さはまるで異次元。5倍も値段のする大きな車だものなぁ。
「連絡、取れました。13時に田端駅にお願いします」
「13時か……。それなら、ドライブでも行く?」
この人が、おそらく辺見ユウの恋人でなければ恋してしまいそうな、あまりにナチュラルな女たらし発言に、わたしははい、と甘い声を出した。
藤澤さんと別れたのが11時前。飯田橋ランプから首都高速に上がったBMWは、やはり周囲の車がそのオーラに気がつくのかすいすい、と道を開けてくれる。
「ぽつねん先生は、車が好きなんですか?」
「えーと、どうだろう。この車はユッコが選んだんだ」
「やっぱり、先生は辺見ユウとお付き合いされているんですか?」
「あー、うん。千尋ちゃんに隠す必要もないからね。でも、他の人に言っちゃダメだよ」
言わねーよそんなソースの確証のない妄想と思われる話しなんて。
「大学時代からのつきあいだからね。近くに住んでいたんだけど、あの事件以来連絡が取れなくなっちゃった。既読はつくから生きてはいるんだろうけど、心配。かといって、ねぇ。自分の作った作品がここまで大変な目にあうとなると、何もできないよなぁ」
時速150kmでもぜんぜん揺れを感じない。フェアレディZやRX-7といった国産スポーツカーさえゆうゆうと追い越していく8シリーズは、富と力の象徴しかも、小金持ちが持つ小さいレクサスなんかとは全然格も違う。わたしなんかがおいそれと乗れる車ではない。
「別にユッコ車が好きってわけでもないと思うけどな。ああ、そうだ。千尋ちゃんクーパーに乗りたいって夢を叶えたんだってね。おめでとう」
「へ、わたしクーパーって言いました?」
「日陽奈ちゃんから聞いた、ってユッコから聞いた。昔ユッコが乗っていていつか自分も乗るんだ、って大学生のときに言ったっていうじゃない」
覚えは無い。無いが。漠然と、自分がどうしてクーパーを選ぶ、いや、国産スポーツカーなどに憧れていたイニシャルD世代が、まるで方向の違うイギリスの車に関心を持つようになったのか。そのきっかけが思い出せなかった。きっと、身近な誰かが乗っていたから、といえば理由としては十分。それが、まさか辺見ユウだとは思わなかった。
「小説家になってお金を稼ぐようになって、赤いミニに乗っていたなあ。今はもう廃車にして別なのに乗っているよ」
「何に乗っているんですか?」
「クアトロポルテ、って言って知ってる?」
湾岸線に出ると、BMWはどんどん加速して200kmを越えた。三車線道路の追い越し車線を颯爽と走っていく。度胸も技術も余裕もないとできない芸当だ。羽田空港の真下を突っ切ると、多摩川河口をくぐり抜ける。ここはもう、神奈川県。川崎の、ジャンクションだ。海の上に伸びる道へとぽつねん先生はハンドルを切った。
「マセラティの、4ドアクーペですね」
「うん。高い車に乗っているよね、あいつ。一台あればいいのにさ」
早く辺見ユウに会って車に乗せてほしい。と思った。
ぽつねん先生は東京湾アクアラインのゲートをくぐると、タッチパネルを操作して、BGMをオンにした。スピーカーからは、なにか重厚な、でもジャジーな音楽が流れ出す。
「覚えていないかな。これ、ムジカレのサントラだよ。菅野よう子」
「そうだったんですね、ごめんなさい、覚えていなくて」
「いいんだ」
サックスの音が、まっすぐ空まで突き抜けて行く。ヴァイオリンが雲の中を跳ねるように、ピアノが雨をばらまくように。楽器たちが、演奏者たちがすごくかっこいいセッションを繰り広げている。これ、本当にサントラ? バックグラウンド・ミュージックにしては非常に聞き入ってしまうんだけど。これにセリフが当たったら邪魔、じゃない?
「ユッコは、アニメの全話でアフレコに立ち会った。サントラのレコーディングにも行ったし、表立っては登壇しないけど全部のイベントに行って来た。サイン会でもあちこち海外に行ったし、グッズが出る度に写真つきで喜んでくれたよ。僕には2つあるから、ってたいてい同じものをくれたな。ぽつねんの画集もくれたけど、いや、僕のだから、って笑ったっけ」
わたしに話しかけるように、独り言をごちるぽつねん先生。なにか、思い詰めるような表情だ。それを振り切るように、アクセルをぐわっと踏み込んだ。スピードが200kmを越える。もう新幹線とおなじくらいに早い。
「ねえ、千尋ちゃん。ユッコは帰ってくるのかな。僕と、千尋ちゃんが聖者の行進をして、ユッコとムジカレは、戻ってこれるのかな」
「わたしには」
「もしかしたら、コロナで入院しているだけかもね。全然気にせず新刊を書いているかもしれない。でも、いずれにせよ、まだ帰ってきていないよな……ユッコ」
スピードメーターは、240kmを越えている。一発免停速度プラス100km。ぽつねん先生の破壊衝動が伝わってくるようだった。わたしが、「知らねえ」と零すと、それがきっかけなのか、アクセルを急に離してくれる。
「そうだよね」
「え、あっ、なんか変なこと言いました、わたし」
「知らねえ、ってそうだなあ。って」
東京湾アクアラインは、神奈川県側は海にかかる長大な橋梁。千葉県側は遠浅の下に掘られた海底トンネル。その中間に設けられたサービスエリアが「海ほたる」だ。
休憩しよう、と駐車すると、ぽつねん先生はコーヒーを2つ買ってきてくれた。「少し、たばこ吸ってきていいですか」
わたしは、万が一襲われたらどうしよう、という一抹の不安を消し去るために、喫煙者であることを表明する。といっても、バズった画像もそれなので、今更表明でもないか。
「ああ、僕も行くよ」
「へ?」
車の中は全然臭わない。つまり、わたしと同じく外でしか吸わないタイプか! わたしはかばんのポケットからゴロワーズと取り出すと、ぽつねん先生はおっ、と言った。
「僕と同じ奴だね」
「えっ、そうなんですか」
海ほたると東京湾を展望できる喫煙所に仲良く腰を下ろすわたしたち。火を点けて一服すると、なんだか自然に笑が溢れる。
「くれないとやまぶきが、あのコスプレで吸っているところを考えると笑えてくるね」
「ですね。もしそれがSNSに映ったら聖者の行進、失敗! って」
言われそうだ。当日は我慢しよう。
「きっとわたし、ぽつねん先生に憧れて吸い始めたんじゃないかな、って思います。銘柄が同じなら、きっとそうです」
先程聞いた、クーパーを選んだ理由と合わせて、わたしはムジカレという作品だけでなく、辺見ユウ、そしてぽつねん、というクリエイターを真似たがったのだろう。
「そうかそうか。でも喫煙したほうがいいよ。全然、碌なもんじゃない」
「でも、小説を書き上げたあとの一服ってくせになっちゃって」
「わかるわかる。ブラックコーヒーと一緒に、はあ、やり遂げたなってなるよね」
この辺りの感覚は、作るものそして吸うものにしかわからないのだろう。かたやBMWの8シリーズ、かたや中古のミニ・クーパーという収入格差こそあるが、同じ思いを共有できて、わたしは嬉しかった。
「ぽつねん先生」
「ん、なんだい」
「聖者の行進、うまくいくでしょうか」
事があまりに大きくなっている。国内のみならず、世界的にも大ニュースであるミスリス経典テロ。そして、戦後初・そして唯一の禁書。わたし程度の旗手で、なにかが変わるかという不安がずっと付きまとうのだ。
「大丈夫」
ぽつねん先生は、ふう、っと紫煙を吐きながら言った。
「きっと届く。やまぶきも、くれないも。その意志だけで戦ってきたんだよ」
「そう……ですか」
その物語を覚えていないわたしは、どう言えばいいのかわからなかった。
「それに、僕は剣道四段。もし襲われそうになっても、僕がくれないを護るから……、ってこれは「旗」の中のセリフなんだけどね。ははは」
一本吸い終わると、大きくぽつねん先生が腕を伸ばした。
「行こうか。約束の時間に遅れたら大変だ」
時計はまだ十二時前。時速200kmで走れば、そりゃあ全然時間もかからないよなあ!
「よろしくお願いします。ぽつねん先生」
もし、このドライブで、ぽつねん先生が、少しでも元気に、瞳の輝きを取り戻してくれたとしたらこれ以上喜ばしいことはない。
「安全運転で、ね」
法定速度を守って……守っていることにしよう。とにかく来た道を戻ったわたしたちは、十二時四〇分過ぎには、JR田端駅の南口スロープ脇に到着した。
「ありがとうございました。また、連絡してもいいですか?」
「いいよ。LINE、千尋ちゃんのスマホに入っていると思うから。じゃあね!」
颯爽とBMWは走り去っていく。LINEにぽつねん先生の連絡先が入っているだって? ……きっと、記憶を失う前のわたしが知っていたのだろう。なんで、全てを忘れてしまっているのか。それが悔しくてたまらない。忘れていなければ、このドライブももっと楽しく、ぽつねん先生をもっと元気づけられたかもしれないのに。陸橋の下を山手線や上野東京ラインが走り抜けていく中、LINEの連絡先をタップしてみた。
すると、下のほうに、今吹周の名前があった。それと並んで、早霧谷有紀子の名前も。そうか、わたしたちはとうの昔に……。思わず、メッセージの窓に言葉を打ち込もうとする。
「パイセン! 早いですね!」
と、後ろから肩を掴まれた。ヒィッ、と悲鳴があがる。振り返れば、約束をしていた後輩がにこにこと笑って立っていた。私の栗色の髪よりももっと明るい色、亜麻色、というのが正しいのかな? しっかりとヘアセットをして、ケバすぎない程度に派手な化粧。まつ毛を盛った猫目に、イヤリングも大きな……、何故錨の形をしているんだろう。シンプルなデニムに長袖のシャツ。でも腕には大きなブレスレットをはめていた。そのままデパートのモデルの写真にもなりそうな姿。
「小沢、久しぶり」
小沢芽亜。わたしのサークル、サルクス・プロドロモスの売り子さんでコスプレイヤーだ。φ、のコスネームでSAOのシノンとかリゼロのエミリアとかの写真をツイッターにあげている。人懐っこくて、すこしギャルっぽい喋り方。でも外語大の出であり、新潟高校時代からの親友の務める外資系証券会社勤務。見た目といい、経歴といい、わたしとはもともと交わることのない人種である。ギャルっぽいし。でもギャルは人類全部に優しい最強生物なので、このわたしにも優しいのだ。
そんな小沢。ギラギラ系OLで、こうしてわたしを先輩と呼んでくれる、社会人になってからの友達。昨日というか、今朝北陸線の中で連絡を入れた。午後に会えるか、と。
「いやだなぁ、パイセンが全然東京に来てくれなかったからじゃないですか!」
「ごめんごめん、コロナでさ」
「まあ、そうっすねえ」
「それより、新大塚に住んでいたんじゃなかったんだっけ」
「最近引っ越したんすよ。田端家賃安いし。なーんも無い街ですけどね」
いや、田端にはJR東日本の東京支社と、東北上越北陸の新幹線とこまち、つばさの車両を一挙に管理する東京新幹線車両センターがあるじゃないか。食事も出来ないし買い物にもならないけど。
「あっ、天気の子の聖地巡礼になりますね。行ってみます?」
「いや、いいよ。用事は、LINEで伝えたとおりなんだけど」
「任せてくださいっす。ムジカレ、知り合いにメークとか全部聞きましたから!」
小沢の家は、都内で借りれば10万円はくだらない家賃の築浅マンションだった。1LDKでわたしの家と同じくらいの広さ。本だらけのうちとは違い、大きなテレビ、大きなソファ、大きな冷蔵庫にクローゼットなんかも色とりどりの服がかけられている。衣装を自分でも作るからか、ミシンを置いた机の横にはトルソーも置いてあった。腰にはなにかのキャラクターのグレーのスカートが巻きつけられている。
「まあ、くつろいでくださいっす」
「ありがとう」
「ビールでいいっすか?」
「うん!」
KADOKAWAの緊張とぽつねん先生の緊張で喉がからからだ。水曜日のネコをグラスに注いで出してくれた。
「パイセンいらっしゃい! かんぱ~い!」
「乾杯!」
グラスをすぐに空にしてしまうと、チーズとハムの盛り合わせが時間を置かずに出てくる。ここはビールバーか! というか住みたいわ!
「まさか、パイセンがコスをするとは。しかも、ムジカレ!」
「うん。小沢はムジカレ知ってる?」
「知ってるも何も、マンガ読んでましたよ。リタのコスもやったことありますし」
リタ、と聞いてもそのキャラが誰かは覚えていない。覚えていないが。
「パイセンも世代でしょ? あれ、前にくれないは自分がモデルだって言って、三波パイセンに笑われていませんでしたっけ?」
「あー、ちょっとね。来週、くれないのコスしなくちゃいけなくなってさ」
「やっぱり。聖者の行進に出るの、パイセンなんですね」
小沢はスマホをすいすいといじると、自分のツイッターの画面を見せてくる。
φ@ミント栽培中
2020年9月25日 20:48
リタで出たい! #聖者の行進に参加します
「私も行きますよ! といっても、合わせのメンバーになっただけで、本当に行進できるかは微妙ですけどね。警察とか、市役所とかいっぱい来るらしいし、クラスタになったら怖いですもん」
「こんなことになってるの?」
「はい。聖者の行進に参加する、って今かなりトレンドです。漫画家さんも絵師さんも、レイヤーもすごくたくさん言っています。いろんな合わせの募集もありますね。ハルヒ、ソードアートオンライン、シャナもあったかな? あっ、ケントラル! ケントラルもありましたね。私ヌルのコスで出ようか迷っているうちに埋まっちゃって。それならムジカレのリタがいいかなって」
どうやら、わたしが追いつかないうちに、様々な作品のコスプレ参加も募集されているようだ。コミケのようでもある。
「なんか、今朝から爆発的に増えましたね。特にハルヒ、公式が言っています。公式ツイッターが、各キャラのレイヤーさん募集、って聖者の行進のハッシュタグもつけて」
「マジかよ」
インドの青鬼を飲みながら、オリーブをつまんだ。
「どんなイベントだ、って思いますけど、でも禁書って怖いですもんね。私にできることはコスくらいだけど、少しでも力になれば、って思います。パイセンもそうなんでしょう? もし、パイセンが本当にくれないのモデルだとしても、慣れていないコスなんてしませんよね。普通なら」
「うん。ムジカレが失われるのが怖いからだよ。そこで、小沢にお願いってわけ。小沢、いや、φさん」
「は、はい」
「わたしにメークを教えて下さい!」
社会人として必要なメークなんて、簡単だ。あるいは、演劇の舞台用メークだって時間をかければできる。前者はほころびを隠すように、光をうまく反射して微笑みを助長するもの。後者はもうペンキを建材に塗るように、何度もなんども塗り込むもの。しかしコスプレ用のメークは全然知らない。聖者の行進で果たしてそれが必要なのか疑問だった。ファンデーションにアイラインと、薄い色のルージュでいいだろう。最初はそう思った。だが、カメラに残るとしたら。あの制服を着たわたしが17歳のヒロインとかけ離れたケバい化粧をしていると見た途端にわかるようだったら。
ムジカレの世界観を壊してはいけない。準備は念入りに、できることはみんなやりたい。映像の配信があったら、あるいはSNSの拡散をするにあたり、カメラアプリによる補正はきっとされないだろう。悪意のあるツイートでは当然カメラアプリ補正なんてされないし、善意のあるツイートでわたしのコス姿を盛ってくれたとしても複雑な気持になる。
「基本的なメークはいつもどおりでいいですね。ムジカレ、あんまりアニメアニメした絵じゃないですから、目の周りとチーク、眉は申し訳ないですがほぼ剃ってください」
「わかった」
「心の底からJKになってくださいね」
「それは頑張っている最中」
「OKです! じゃあ、やってみますか」
後輩レイヤーによるメーク指導は夕方過ぎまで続き、その間小沢の持っているコス衣装をウィッグを含めて七着着替えさせられることになったが、これはこれでとても楽しかった。面白がって小沢が使っているGカップくらいの巨大な偽乳を装着してみたら価値観と倫理観ともろもろが狂った気がする。でかい、重い、揺れる。
「それの上から服着て飲みに行きましょうよ!」
「嫌だよ!」
最後には、メークして、小沢の高校時代の制服を着てみた。同じくブレザーなので、くれないのイメージに近いだろうと。
「いいんじゃないっすか? ババア感はかなり消えました。ピュアですよピュア」
「本当、ありがとね。わたし、頑張れると思う。怖いけど」
「あ、セリフもまんまムジカレですね!」
藤澤さん、ぽつねん先生に続いて小沢もそういうのか。わたしの思ったとおりの発言がちょくちょくムジカレそのままという。これは、わたしをモデルに辺見ユウがムジカレのセリフを作ったか、あるいは大のムジカレファンであるわたしが、そのセリフを意識的にしろ無意識的にしろ発言してしまっているのか。
もう、井守千尋という人間の思想は、どっぷりとムジカレに浸かっていることがよくわかったのだった。
小沢にメークを教わって、翌日曜日に嫌々福井に帰ると、様々な不安が襲ってくる中夜中までわたしはピアノを弾いていた。翌日の仕事後も、その翌日も、その翌日も。不安を拭いさるように、不用意にネットを見ないように。
そして下半期となった10月2日金曜日。21時12分。わたしは再び東京駅に降り立った。聖者の行進を明日に控え、それでも日本はコロナ対応に右往左往。アメリカでは大統領選のニュース一色で、結局世界なんて勝手に回っている。
ただ、ネット上と、ライトノベル界隈はいままでにない熱狂に包まれていた。
そして2枚の画像が添付された一つのツイートにより、わたしは再び炎上した。
雪鷺
2020年10月2日 19時50分
「聖者の行進」ではやまぶきとくれないが先頭に立つらしい。
#聖者の行進に参加します
9420リツイート 1.6万いいね
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