第10話
雪鷺の投稿した画像がバズっていた頃。
自分へのクソリプやらLINEを処理するのが面倒で、それから逃避するようにとあるニュース記事を眺めていた。
禁書、いったい誰が指定するの?
確かに謎であった。ミスリル経典テロ事件が起こった直後、報道は一斉にムジカレを禁書と指定した。第二次世界大戦以降、日本国内における正式な禁書とははじめてのことである。バチカンが禁書を指定したり、中国やロシアでは政府が禁書を指定したという事例もあるが、前者は宗教的、後者は国策的な流れがある。日本政府だろうか? 国会図書館? それとも電通とか博報堂といった広告代理店?
この国で、日本国憲法の庇護下ではたして禁書なんてムーブメントが可能なのか、わたしは少し考えてみる。まず、禁書、とは、なにか。手元にある明鏡国語辞典では【法律や命令によって、特定の書物の出版・販売・所持などを禁止すること。また、その書物】とあった。法律が新たに発布されたかといえば、されていない。政府はコロナ対策で年初からずっとばたばたしっぱなしであり、国内で起こった本格的なテロ事件は警察と自衛隊がほとんど抑え込んだ。その出動には絡んでいたかもしれないが、法律で発布されていたらその報道があるだろう。
じゃあ、命令? それともPTAか?
かつて、「チャタレイ夫人の恋人」「エマニュエル婦人」といった映画が世間を騒がせたと現代社会の授業で習ったことがある。あるいは、美輪明宏が歌った「ヨイトマケの唄」も放送禁止になったこともある。いずれも、場として不適だったから。あるいはその言葉が時代にそぐわない、という理由なだけだが、最近アメリカで人種差別問題で大変なことになっていることを考えると、仮にムジカレが「時代、場にそぐわない作品だから」という理由で発禁になる可能性は考えられるだろう。
では、誰がやったんだ。
10年ほど前、非実在青少年に関係する都条例が通るかもしれない、というちょっとした大事件があった。創作上にある登場人物たちはエッチな目や酷い目にあわせてはいけない、創作上の人間に対しても現実の人間同様の人権を与えようじゃないか、というもの。結果はどうかといえば、その都条例が通ることはなく、現在も創作上では未成年相手の淫行や残虐な殺人、テロ、あるいは違法薬物摂取が許されている。
日本における表現の自由。各出版社が智慧とプライドを持って守り抜いてきた結晶なのだ。ミスリル経典というものがどんなものなのか、探しても日本語の記事がほとんど出てこないし、各新聞社もだんまり。凄惨な事件だったから、なかなか表に出したくないのだろう。それは人道的には、というよりわたしの主観的には正しいことだと思っている。が、ミスリル経典がどのようなもので、ムジカレという作品といかに類似性があっても、その経典における教義を土足で踏みにじるものだとしても、守られなくてはいけない。だってムジカレは悪くないのだ。悪意を持って、教義を否定しようという意思は、辺見ユウには無かった。だから、七年ものあいだ芙育出版は肯定も否定もしなかったし、ベストセラーとしてムジカレが書店に置かれ続けていたのではないか。この国では「聖☆おにいさん」なんて作品が堂々とメディアミックスされることが許されるのである。エルサレムやメッカで上映してみろってんだ。たぶん中央線沿線という土地柄の意味がわからなくても笑うでしょうよ。
後ろ暗いものが何もない。のであれば、どうして禁書に指定されたのか。国か? 出版社か。それとも、辺見ユウ自身が禁書としたいと申し出たのか? だが最後の話はありえないだろう。商業作品は、世に出回る際に契約を交わし、辺見ユウだけのものではなくなっている。芙育出版のものであり、共同制作者のぽつねんのものでもある。読者のものだ、なんて感情論は無しだ。出版社の、例えばFE文庫の編集長や、芙育出版の社長が言ったらありえることだろう。もし、様々な出版社を束ねる組織があるとすれば、そこのボスが三下にあたる出版社のラノベを禁書としたってよかったのだろうが……、禁書。これはやっぱりおかしいよ。
とはいえ、わたしが真実を知ることは難しい。早霧谷経由で辺見ユウから聞く、という機会がもしかしたら無いとも言えないが、辺見ユウ自体今行方不明なのだから。
と、突然着信音が鳴る。
「はい、もしもし」
見知らぬ電話番号だ。向こうが名乗るまで、わたしは名乗らない。
「夜分に失礼いたします。井守千尋さまの携帯電話でしょうか。わたし、藤澤、というものです。以前、井守先生の書かれた「青春ブタ野郎は思春期症候群の音を聞く。」の担当をしたものです」
その男の声は、初めて聞くものだった。でも、二年も前から知っている。藤澤さん。わたしが以前、青ブタの青春小説コンテストで「鴨志田一賞」をいただいたとき、作品が電撃文庫マガジンに載るときの担当編集をしてくださった方。電撃文庫編集部にいた人だが、2019年の9月末にフリーの編集となった。
「はい、井守千尋です。藤澤、さん」
「ああ、よかった。繋がってよかったです」
「藤澤さん、藤澤さん、その」
ひさしぶりに聞いた、「青春ブタ野郎は思春期症候群の音を聞く。」という小説のタイトル。そして、わたしの作家の一面だけを知る、唯一の人。
「ありがとう……ございました。わたし……」
「あのー、井守さん? どうされました? その……」
ごめんなさい、泣いている場合じゃないのに、このタイミングで、やっと、お礼を言えるだなんて。メールのことばも十分に感情を伝えることはできるとは思うけれど、声で伝えられるのはもっと大切な感情表現だ。
「はい、すみません、嬉しくて泣きましたが泣き止みました。井守千尋です。その節はありがとうございました。電話まで頂いて、ありがとうございます」
キリッ、といったAAが付きそうな凛とした声でわたしは応える。応えられる。井守千尋という作家の皮を今かぶっている。
「その調子だと、メール見ていませんか。まあ、無理もないですね。井守さんバズってらっしゃいましたし」
「なんで知っているんですか! やめてわたしの制服みないで!」
化けの皮は5秒ともたない。
「ははは、喜怒哀楽のすごい人ですね。いや、ひとつ井守さんにお願いをしたくてメールをしたんですが、すぐに返信がなかったので、電話させていただいたんです。本当はコンプライアンス的にだめなんですけどね、電撃文庫にいたときの作家の電話番号を手元に残しておくだなんて」
そういうあたりは別にわたしは気にしないのだが。
「わたしにお願い、ですか。もしかして、「凍れる音楽」「ソレイユの夜明け」の出版話ですか! それとも新作でデビューとか!」
「……存じませんねその作品。どこかの新人賞に出されたんですか?」
わたしの小説を出版する、という話では無かった。またオリジナル書いて応募しなきゃなぁ……。
「今、世間を騒がしているムジカレについて、井守さんにお願いがあるんです」
「わたしに、ですか?」
「あなたに、です。紅和奏のモデルにして、辺見ユウに親しい存在。ライトノベルを愛してたまらず、そのライトノベルがすげぇ2021の一般協力者にもなっている、井守さんにです」
ああ、なんとなく話が読めてきた。
「それは、藤澤さん、あなたの仕事に関係ある話なんですね」
「そうです。僕たちは、ムジカレが禁書になった、という自体をどうにかしてもとに戻したいんです」
「それは、わたしも思っていました」
今さっき思ったことだ。恥ずかしいけど、わたしがインタビューや取材を受けて少しでも禁書指定が解けるのであれば。光栄である。なにより、わたし自身がムジカレを読むことができるのだ。ムジカレが、戻ってくるのだ。
「よかった、井守さんも同じ思いでしたか」
「はい。可能な限り協力します。わたしにできることであれば」
「あなたにしかできない、と思いました。だから、こうして連絡を差し上げたんです。本当は直接お会いしたいと考えていたのですが」
それなら今からでも上京して構わない。この前早霧谷のところに出かけた時間とさほど変わらない時間なのだ。
「すぐに上京できますよ」
「本当ですか? 領収書切っていただければ、タクシーで東京まで来ていただいてもいいですから」
そんな金のかかることなんて……。
「流石にタクシーは高いですが、新幹線を使ってもいいですか?」
「もちろんです。グリーン車もOKですからね!」
なんだか気前がいいな。差額くらいは自分で出してもいいとは思ったが、グリーン車。一度使ってみるまでは、庶民は指定席で十分だと思っていたのだ。上越新幹線のE4系Maxが車両が古く揺れも大きくて座席も狭いことに比べると、北陸新幹線のE7系、W7系のかがやきや、東北・北海道筋のE5系のはやぶさ。東海道・山陽のN700Aだって非常に快適。東の新幹線はヘッドレストが上下できるしふかふかで、E7系なんてコンセントが全席についているのだ。指定席でももう十分、だなんて思っていた頃の話。
しかし、わたしはグリーン車の味を覚えてしまった。コミケ帰り、そのまま新潟に帰省する際、E7系のグリーンを買ってしまったのがすべての始まり。超快適、静か、民度が高い。この差額でストレスレス、東海道のひかりも乗った。ふわふわ。最高だよできるだけグリーン車に乗っていたい。
ので、今回差額ででもグリーン車に乗ろうと思っていたら経費で落ちるらしい。それなら金沢周りでグランクラス使ってもいいかな、でも時間かかるし。
「それで、インタビューですか? なにかの記事?」
「いえ、井守千尋さん。あなたには「聖者の行進」の先頭に立ってほしいんです。紅和奏の格好をもう一度、していただいて」
「…………はいぃ?」
わたしはメガネを引っ掛け直す。マンガ的表現でいえば今メガネはずり落ちたはずだ。セイジャノコウシン? なにそれ中島みゆきが主題歌歌ったドラマ?
「話を聞かせてください。わたしがセイジャノコウシンの先頭に立って、ツイッターでバズった写真と同じ格好をして、どうしろというのですか?」
「まず、東京まで来ていただいて説明をしますから……」
「説明を聞いてから東京に行きます!」
30分まってくれ、と藤澤さんは言った。メールを見て欲しい、Gメールに概要は送ったから、というので確認作業をした。添付されているPDFを見るよりも、メールにはZoomの招待も書かれていた。このあとの打ち合わせでは、Zoomを使おう。きっと、向こうもそれを要望しているに違いない。昨晩とは違い今のわたしはレモン色の半袖ポロシャツの上に水色と黒のボーダーサマーニット。うん、服装は問題ない。藤澤さんとの打ち合わせが終わればきっと日付は越えているから、明日の始発で東京に出るにはどうすればいいだろう。クーパーで行くよりも、実際米原まで、贅沢いえば名古屋までタクシーででも出ていて始発の新幹線を使ったほうがずっと安心して行ける。実際、クーパーで保土ヶ谷まで行ったとき。東名の途中でかなり眠たかった。ミスリル経典の事件が発生していなければ、どっちみち仮眠を取らざるを得ない。ドーパミンがそんなにしょっちゅう出るのはありがたいけど、運転の度にドーパミンが出る体質であればさっさと転職して運転手になったほうが良い。
とりあえず旅行かばんに二泊分の着替えを入れた。藤澤さんとの打ち合わせは当然スーツだから、運転せずに新幹線でいくのが吉だろう。この前の家出で作った荷物を解いていなかったらそこに放り込むだけで旅支度の完成だ。
わたしの方からズームで招待の通知をすればいいのだろうか。とりあえず打ち合わせが長くなっても大丈夫なようにコーヒーを淹れる。日中からほとんど見れていない、というか面倒なツイッターを開いた。たんなるクセのようなものだ。
「おっ……?」
わたしがフォローしているアカウントは、ラノベ作家か、ラノベ絵師さんか、ラノベ公式アカウントか、ラノベ関係の同人・評論関係。あとはサークル関係の人で大多数を占めているのが、その300以上のアカウントのツイートがずら、と同じハッシュタグを掲げていた。
#聖者の行進に参加します
先程も聞いた名前だ。聖者の行進、ジャズの曲にあるけど、それも違うよな。イベント? わたしに歩けって、どういうことだ。おお、この先生も、この先生も神絵師! みんな聖者の行進するよ、すんげぇな……、って、マジ。編集さんたちもか。アニメーターさんもだ。ちょっと、この大御所作家さんなんて米寿なのに。どれだけの人がこのハッシュタグを使っているのだろう。って、ツイート見るのはあとだな。謎は藤澤さんが教えてくれるでしょう。
20分と少々しか過ぎていないが、わたしはZoomを起動し、藤澤さんのアカウントを入れようとメールを見返す。
井守千尋さま
お世話になっております。
芙育出版、FE文庫の藤澤、と申します。以前は電撃文庫編集部におり───
FE文庫の藤澤、だって? あなた一言もそんなこと。大急ぎで呼び出しにかかる。呼び出しの時間がもったいない。電話でもリダイヤルだ。
「あ、井守さん?」
「こんばんは井守ですZoom起動しましたはやく打ち合わせしましょう」
「資料は見ていただきましたか?」
「それを含めて聞いたほうが早いんですよ、……FE文庫の編集者、だったんですね……」
電話越しの声は、数秒沈黙となった。電話がかかってきてから、藤澤さんは編集者だとしか言わなかったのだから、バレたか、とでも思っているのだろう。
「そうです。僕がFEの、辺見ユウの担当のものですよ」
「…………!ッ」
絶句だ。と同時に、PCの画面に神経質なスポーツ刈りの男が映し出された。ラノベ編集者の顔は実はそんなに知らないわたしは(三木さんと和田さんと湯浅さんと土屋さんと阿南さんと河北さん、CONちゃん、あとは上波アゲハくらいしか知らない)、この人か、と覗き込んでしまった。
「こんばんは、仕切り直して。FE文庫編集部の藤澤です」
カメラの背景には衝立こそあるが、ここがオフィスの中であることが容易に理解できる。金曜日の遅い時間にもかかわらずご苦労だな、と思った。出版業界には昼も夜も……ない……。
「……そこはどこですか、藤澤さん。FE文庫はもう解散しているはずではないのですか?」
芙育出版は残っている。教育書の大手出版社のため、潰れる要素など皆無だ。しかし、ラノベレーベルのFE文庫そのものはムジカレの最終巻を持って解散。コミックスの再販が行われないのも、FEコミックスも解散したからである。編集者は出版社の様々な部署をローテーションする関係から芙育出版のどこかに異動になり、FE文庫編集者という肩書は現在存在しないのではないだろうか。
「さすが、ラノベオタク。作品だけでなく編集者や紙質にまでうるさい井守さんですね」
「うるさいですね。本において紙質は大切です。それに編集者はあまりしゃしゃり出過ぎるのはだめだとわたしは思っています。それで?」
「ええ。僕が電撃をやめたときは、FE文庫編集部は解散した状態でした。しかし、ムジカレの17巻が出る。それだけで今復活しているんですよ。今後FE文庫も復刊という潮流が出来始めていたので、先行して発売されるムジカレの担当に、直前までラノベ編集をやっていた僕が選ばれたわけです」
なるほどね。ムジカレありきのFE文庫というわけ。
「さて、話がかなり脱線していますね。何からお話すればいいですか?」
「聖者の行進。さっきハッシュタグでも見ました。なんですかこれは」
ふぅ、と溜息ひとつ。藤澤さんからチャットの窓にメッセージが届く。
聖者の行進(10月4日予定) 参加出版社
芙育出版
講談社
新潮社
KADOKAWA
文藝春秋社
集英社
早川書房
東京創元社
幻冬舎
光文社
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参加ライトノベルレーベル一覧
FE文庫
電撃文庫
富士見ファンタジア文庫
角川スニーカー文庫
MF文庫J
ファミ通文庫
小学館ガガガ文庫
GA文庫
HJ文庫
このライトノベルがすごい!文庫
ダッシュエックス文庫
オーバーラップ文庫
ヒーロー文庫
星海社文庫
ハヤカワ文庫JA
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国内の出版社を大きなところから順番に、そしてラノベも同様に、という企業、レーベルリストだ。違和感があるのは、それぞれ先頭に、芙育出版、そしてFE文庫の名前があることだろう。
「日本にここまでたくさんの出版社があるなんて、僕も知りませんでした。ムジカレの禁書を解け、という嘆願・署名は日本中、いや、世界中から禁書になった直後から集まってきています。個人だけではない。各出版社がすぐにムジカレを支援したいと声明を出してもいいか、と言ってきたのです」
「それは、表現が暴力に屈することになるからですか?」
「そうです。ペンは剣よりも強い、ってことを示さなければならない、と全国の新聞社からも同様の嘆願が来ていますが、今回は入れてはいません。ともかく、禁書を解くための声があまりにも多い。だから、なにかシンボルになるようなことができないか、と僕は、芙育出版の皆さんと、各ラノベレーベルと打ち合わせを重ねました。単純ではありますが、デモクラシーは屈しないということで、デモ行進が有効ではないかという意見になった。このコロナ下だから十分に気をつける必要はありますが」
「この10月4日というのは」
「決行予定日です。日本武道館から神保町を抜け、須田町で折れます。日本橋、銀座を通り抜け、第一京浜に入ります。そこから、レインボーブリッジを渡り、東京ビッグサイトまで。距離は約15キロ、警察には手配はすでに終わっています。僕たち出版社連合は、この行進を聖者の行進と名付けました。ムジカレを読んでいる人はピンとくる名前ですね」
わたしはそれを覚えていない、とは言えなかった。武道館からビッグサイトまでデモ行進をやる? メディアの中心に居座る出版社と新聞社がいっしょくたに? すげえ話だ。画面越しに藤澤さんが見せてくれた地図は沿道に細かく指示がされている。行進開始の13時からビッグサイトに到着予定の17時まで。警察まで協力ということは大規模な道路封鎖もあるらしい。
「まってください、話が大きすぎる。そもそもを教えて。このデモ行進の目的。それってムジカレの禁書を解くということですよね?」
「そうです」
「敵は、誰なのですか? 警察でもなければ芙育出版でもないんでしょう? わたし禁書指定をしたのはムジカレ公式だと思っていたのに」
「そんな小さい話じゃないんです。今日本でテロが起こった、これはタイミングとしてひどいものです。コロナによるオリンピック延期と、インバウンドで見込まれる外貨がほとんど獲得できない。日本は、今とても臆病になっている。自分の判断はなるべくせず、全世界的な潮流に乗りたいと思っているんです。そして、類似のテロ行為が今後、いつになるかはわかりませんが東京でオリンピックが開催され成功におわるまで、言論弾圧をしてでも起こしてはならないのです」
わたしの頭には、公安警察という言葉が浮かんだ。だが、それでもまだ小さい範囲の話なのかもしれない、と考えるともう思考が追いつかない。
「敵は、この世界の空気です。閉塞しきった、澱んだ空気。これを相手に、ムジカレは存在してもいいのだ、と出版社が、FE文庫が、作家が。手を上げた。何かできないか、とね。見てください、これ」
藤澤さんの手にはコロコロコミック……と変わらない厚みの紙束が握られていた。両面摺りでびっしりと何かが書かれている。
「日本国内外の漫画家、イラストレーターから集まった嘆願コメントです。ムジカレへの愛が半分。禁書なんてやっちゃだめだという叫びが半分」
「それを表に出すだけでも十分な効果があるんではないですか?」
「それでは足りないと、僕たちは考えました。都を、政府を、国の声を持って、禁書の必要はない、と言わせなければ」
空気を動かす。そのためのパフォーマンス。そこに、わたしが呼ばれたのは何故?
「ムジカレの象徴。それはやまぶき、そしてくれない。二人は決して立ち止まらなかった。井守さん、あなたはくれないそのものだ。先頭に立って、歩いてくれませんか。ムジカレが存在していい、と。わたしはここを歩き続けると、形作ってくれませんか」
「わたしが……。今すぐに、答えろということですか?」
聖者の行進。その先頭に立つということは、いい標的になるのであろう。炭鉱のカナリア、ラ・マルセイエーズ、ジャンヌ・ダルク。さまざまな言葉が脳裏をかけめぐる。凶弾がわたしを貫く可能性だって十分にある。本気でムジカレという作品を潰そうというのであれば、たかだたワナビの一人くらい。たかだかラノベの一作品くらい、殉教たれと抹消するだろう。それが、この世界が重ねてきた人間の歴史なのだから。
「いえ、すぐにでなくていい。ただ、一度東京で見てくれませんか? 僕は、井守さんに歩いてほしいとは、思いますが」
「……わかりました。とりあえず、明日の朝。向かいます」
「ありがとう。それと、勘違いしているかもしれないので、補足します。先頭を歩くのはあなた一人だけじゃない。やまぶきとくれないがいつも一緒だったように、もうひとり、男性も一緒に歩きますよ」
「えっ、そうなんですか?」
意外だった。わたしが恥を偲んで紅和奏のコスをして一人で歩くとばかり思っていたのに。
「知っているとおもったのですが、ご存知ありませんか? やまぶきにもモデルがいるんですよ」
「うっそー、初耳です」
「ぽつねん先生、ですよ」
「は? 絵師さんの?」
「ええ。彼はあなたのことを知っているようなことを言っていたのですが、明日お会いできると思います」
もう、北陸線の最終には間に合いそうに無い時間になっていた。タクシーで米原に……、いや、朝イチで行こう。きっと、明日は強行軍になる。メンタル的に疲れそうだから早く寝るのだ。
「井守さん、ありがとう。話を聞いてくださって」
「いえ、こちらこそ。ありがとうございます。……ねえ、藤澤さん」
「はい?」
突然声色を変えたわたしの呼びかけに、藤澤さんはすっとんきょうな声で返事をした。
「今、編集部には返本されてきたムジカレが全巻揃っているんですよね?」
「ああ……、ありますね」
「売ってくれませんか? 売ってくれませんか! 定価で!!」
明日編集部を尋ねれば、確実に禁書を手に取ることができるのだ。しかし、わたしとラノベ業界との良好な関係を保つためには、ガメてくるのはよくないだろう。だから、定価で売ってくれないか、と提案をする。禁書を売ったらだめ、みたいな法律、無いよねきっと。
「……また、明日お会いしましょう」
良い、とも、駄目、とも言わず藤澤さんは落ちていった。クソっ、駄目なのか!
「聖者の行進、ね」
インターネットにあふれることば。これは、ムジカレ由来のものだそうだ。作品になぞらえて、何百、何千という人間が動いているのだ。わたしは感動する反面、どうしても腹が立って仕方のないことがひとつ。ある。
辺見ユウは、今どこで何をしているのだろうか。
……考えても仕方がないか。ひょっこりと明日姿を見せるかもしれないし。
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