異世界で犬姫さまに転生しました ‐女剣士さんと聖職者さんに可愛がられてます‐

兎月竜之介

第1話 犬鍋

 その日、私の運命は大きく変わった。


 いつもの中学校へ向かう通学路。

 私は強めの雨に降られながら、傘を差して信号が変わるのを待っていた。


 四車線の国道は今日もせわしなく自動車が行き交っている。

 猛スピードで走る鉄のかたまりは私にとって背景でしかなく、私の視線は赤く点灯している歩行者用の信号に向けられていた。

 そのため、なかなか変わらない信号にうんざりして、アスファルトに目を落としたのはほんの偶然でしかなかったし、雨に濡れた小さな柴犬が駆けていくのを見つけたのは、奇跡といっていいレベルだった。


 右手の傘を投げ出して、私は子犬を追って走り出した。

 柴犬を助けられる勇気があったわけでも、自信があったわけでもない。道路に飛び出した子供や小動物を助ける……そんなアニメやドラマのシーンを体が覚えていて、無意識のうちに真似してしまったとしか思えなかった。


 横断歩道の真ん中で、濡れた子犬を胸に抱える。

 抱えた子犬と目が合った。

 私はその無垢な眼差しにつられて笑みをこぼす。

 次の瞬間。

 私の体は大型トラックにはねられて宙へ舞い上がった。


 ×


 宇宙である。

 トラックにはねられたその刹那、私は宇宙としか呼べない場所に移動していた。


 真っ暗な空間に無数の光が漂っている。地方都市で生まれ育った私は、リアルでは満点の星空を見たことがない。だから、私は無数の星々から小学校の社会科見学で見たプラネタリウムの全天周映画を思い出した。

 無重力の宇宙空間に身を預ける。

 肩まで伸ばした黒髪は重力から解き放たれて、まるでドライヤーをかけたばかりのようにふわふわとしていた。


 私は死んだのだろうか?

 全身を襲った衝撃や痛みを感じる間もなかった。

 あまりにも唐突な出来事だったので、恐怖や悲しみを感じることすらできていない。


「稲葉……さん……稲葉……小麦……さん……」


 どこからともなく、幼い子供の声が聞こえてくる。

 声のした方向を探してあちこち振り返ると、いきなり巨大な柴犬の顔が宇宙空間に浮かび上がってきた。

 スペースキャットならぬスペースシッバである。

 いや、そんな冗談を言ってる場合じゃないな……。


「稲葉小麦(いなば こむぎ)さん……私の声が聞こえますか?」

「え、あ……はいっ!」


 何度も声をかけられて、私はようやく返事をする。

 巨大な柴犬が申し訳なさそうなしわくちゃの顔になった。


「私はコムギさんが助けようとしてくれた柴犬です。しかし、不運にも私たちは共に命を落としてしまいました。大型トラックにはねられての即死です。苦痛を感じる時間すらなかったと思います」

「私、やっぱり死んじゃったんだ……」

「本当に……本当に申し訳ありません……」

「そんな申し訳なさそうにしなくても……私も一応、いいことをしようとして結果的に死んじゃったわけで、ワンちゃんを見殺しにするよりはよかったと思うよ? それにあんまり悲しい気持ちにもなってないし、そんなに気にしないでね」


 ははは、と私は苦笑い。

 実際のところ、私は自分でもびっくりするくらい冷静だ。

 家族には二度と会えないだろうし、これからどうなるのか分からないし、本当は泣きわめいたり塞ぎ込んだりしてしかるべきだろう。もしかしたら、自分の死を正しく受け止められる仏様の境地に達してしまったのかもしれない。


「コムギさん、あなたはやはりここで死んでいい方ではありません」


 巨大な柴犬が目に大粒の涙を浮かべた。


「ぜひ私の体を使って生まれ変わってください!」

「う、生まれ……ええっ!?」


 死の恐怖すらスルーした私も、この提案には流石に驚愕してしまう。

 生まれ変わり!?

 それもワンちゃんの体を使って!?

 巨大な柴犬は感極まった泣き顔で力説してきた。


「残念ながら元の世界へ生まれ変わることはできません。人間の方々はご存じないと思いますが、生まれ変わりというのは世界を移りながら行われるのです。ですが、今すぐ生まれ変われば転生先に記憶を引き継ぐことができます。コムギさん、ぜひとも私の体を使って生まれ変わってください!」

「ちょ、ちょっと待って! 流石に犬の体で生まれ変わるのは……それにいつか普通に生まれ変われるなら、のんびりと順番待ちしてもいいんじゃない? 死後の世界がどんな場所なのかも気になるし……」

「そんなに遠慮しないでください! 記憶を引き継いだまま別世界に生まれ変わったら、きっと普通に生まれ変わるよりも楽しい人生が待っていますよ。さて、コムギさんの魂と私の肉体を無理やり……いい感じに合体させますね!」

「今、無理やりって言ったよね!?」


 巨大な柴犬の目から強烈な閃光が放たれる。

 宇宙の始まりであるビッグバンを思わせる目映い輝き。

 私の意識は光の彼方へ飛び去っていった。


 ×


 ざあざあと強い雨の降る音が聞こえてくる。

 水たまりの中から立ち上がって、私はホッと胸を撫で下ろした。

 よかったよかった。

 さっきのはたちの悪い夢だったんだ。


 子犬を助けようとして道路に飛び込み、大型トラックに跳ね飛ばされそうになったのである。悪い夢を見てしまうくらい気が動転してしまったのも仕方ないことだろう。でも、こうして自力で立ち上がれているわけだから、終わりよければ全てよしだろう。


 水たまりに映った自分の姿が目に止まる。

 小学生でも軽く抱きかかえられる小柄な柴犬の姿がそこにあった。

 やっぱり夢じゃなかった!?


 私は驚きのあまり泥だらけの地面にひっくり返る。

 うすうすは気づいていましたとも……四つん這いで立ってたしね……。

 どうやら私は本当に柴犬の体を借りて生まれ変わってしまったらしい。


 周囲を見回していると、ここは森の中を通る林道であるらしいと分かった。うっそうと生い茂る広葉樹の間を馬車の通ったわだちが走っている。道は舗装されていないし、外灯も見当たらないし、人里離れた場所なのは間違いない。


 というか、生まれ変わったこの世界はどんな世界なのだろう?

 私が生まれた地球とよく似たパラレルワールドみたいな世界なのか、それとも今までの経験が全く頼りにならないような異世界なのか……。


 その答えはすぐに分かった。

 背後の茂みからガサガサと音を立てたかと思うと、緑色の肌をした5~6歳児くらいの体格をした何者かが飛び出してきた。


 黄色い目はぎょろぎょろしていて、耳と鼻は人間と比べて異様に大きい。原始人が持つような石やりを持っていて、ボロボロの腰布を身につけている。だらだらとよだれを垂らしている姿からは知性のかけらも感じられない。


 人間とは似て非なる存在を目の当たりにして、私は思いきり腰を抜かしてしまった。

 こういうの……見たことある!

 ファンタジーRPGの世界に出てくるモンスターだ!


 緑色の小鬼――ゴブリンは石やりを構えてじりじりと距離を詰めてくる。

 私は泥だらけになりながら、なんとか逃げようと後ずさった。

 こんなの人間の体で生まれ変わっても無理だ! いくら相手が小さい子供くらいの体つきでも、武器を持って本気で襲われたら勝てるわけがない。こっちは生まれてこの方、殴り合いの喧嘩すらまともにしたことないのに……。


 もしかして、無理やり生まれ変わったから天罰を受けることになったとか?

 そうなのかな……そうなのかも……。

 私は勢いよく近づいてくる石やりの切っ先を見つめた。

 あとは、せめて痛くないように殺してくれたら――


 ヒュッ!!

 鞭を振り回すような鋭い風切り音が聞こえてくる。

 かと思うと、ゴブリンの体が脳天から真っ二つにされていた。


 倒れ伏したゴブリンの背後から、ロングソードを持った女剣士が現れる。

 フードで顔を隠しているので人相は分からないものの、膝頭が露わになったミニスカートを穿いており、身につけている胸当てがふっくらと膨らんでいるため、彼女が女性であることは一目瞭然だった。しかも、膝のつやつや感からして年若い。


 女剣士が倒したゴブリンの方を見る。

 ゴブリンの体は黒い煙を吹き出しながら崩れ始めていた。血や内臓は見当たらないのであまりグロくはない。ゴブリンの体が黒い煙になって完全に消滅すると、死体のあった場所にはキラキラと虹色に光る石が残されていた。


「……ま、あんな雑魚じゃこんなもんか」


 女剣士が虹色に光る石を拾って、腰から提げている革袋に収納する。

 それから、ようやく私の存在に気づいて振り返った。


 彼女がフードを取ると予想通りに年若い顔が露わになった……というか、高校生くらいにしか見えない。鮮やかな太刀筋でゴブリンを真っ二つにしたので、もう少し年上の歴戦の女剣士なのかと思っていた。

 女剣士は全く化粧っ気がない。ワインレッド色の髪は飾り気のないヒモで二つ結びにしている。しかし、睫毛は鉛筆がのっかりそうなくらいに長く、鼻筋が通っていて顔立ちは整っており、唇はリップを塗ってあるかのようにぷるんと潤っている。

 さながら運動部にいる同性からモテるタイプの先輩といった雰囲気で、女性にしては高めの身長も相まって、ちょっと着飾ったらファッション誌の表紙に載ってもおかしくない素材の良さをしていた。


 それでいて風体はまさに旅の女剣士といった雰囲気だ。コットンのブラウスとスカートの上から、金属製の胸当て、腕当て、足当てを装着しており、年季の入ったフードつきのコートで雨を凌いでいる。腰には刃渡り1メートルくらいのロングソードを提げていた。身につけているものには年月を感じさせる細かな傷がいくつもついている。

 背負っているリュックには旅の荷物が詰まっているらしく、リュックの側面にはショートボウ(小型の弓)と矢筒がくくりつけられていた。こちらもかなり使い込んでいるようで、ショートボウの持ち手に巻き付けられた布がすり切れている。


「なんだこの犬?」


 女剣士が泥だらけになった私の首根っこをつかむ。

 私はUFOキャッチャーに捕まったような格好で持ち上げられてしまった。

 両手足と尻尾がぷらんぷらんと揺れる。

 女剣士は怪訝そうな顔で私の全身を観察した。


「見たことのない犬種だな……」


 犬じゃなくて人間です!!

 私はそう必死に伝えようとしたものの、


「わんわんっ!!」


 柴犬の体では犬らしく吠えることしかできなかった。

 これじゃあ、誰が私を人間だって分かってくれるの!?

 現実の過酷さを思い知ってぐったりしてしまう。

 そのときだった。

 ぐぅ~っ!

 不意に女剣士のお腹から、牛の鳴くような音が聞こえてきた。

 そして、やむを得ないと言わんばかりに女剣士がため息をついた。


「よし、今日は犬鍋にするか」


 えっ?


「まだまだちっこいけど、食べられなくはないだろ」


 ええええええええええっ!?

 柴犬の体で生まれ変わったのが運の尽き。

 私の命は今さっき出会った女剣士の手のひらの上だった。

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