第十九話

 頭にはぼんやりとした痛みが残り、周囲の光景がゆっくりと焦点を結び始めた。

 白い天井と無機質な医療機器の音が耳に届く。

 ここは、闘技場に併設された医務室だとすぐに認識した。激しい戦闘の後、自身が意識を失ったことは覚えているものの、細部はおぼろげ。


 ベッドの端にかけられたカーテンが少し開き、アニーの視界に淡いシルエットが浮かんだ。それは、髪はぼさぼさで、白衣のポケットからは無造作に詰め込まれた数本の色とりどりのボールペン。

 最新端末搭載型の机には、書類やタブレット、昔から変わらぬ彼女の姿を見て、胸に一瞬、懐かしさと安心感が広がる。

 しかし同時に、何かを問いただされるのではという緊張感があった。

 彼女の恩師は、決して甘い言葉でアニーを迎える人ではなかったからだ。


「おそようございます、アニーお嬢さま」


 少しのんびりした調子、それと独特の言い回し。


「る、るり――瑠璃先生」

「瑠璃先生ですけど。なんですか? アニー」


 フレームの暑い眼鏡をかけ、ぼさぼさ髪を手ぐしでとかしながら答え返した。


 アニーは深く息を吸い込んでから、瑠璃をじっと見つめた。

 思い出がよみがえってきた。

 それは、瑠璃が突然いなくなったことだ。彼女はメモ一枚残して、何の前触れもなく姿を消したのだ。


「先生! どうしていなくなったの!?」

 強い口調で。

 一瞬、目を見開いて、

「え、なに、ナニ? 仕事で帰国しますって、書いてたでしょ。それに日本から半日あれば、いつでも会えるし。別れじゃないんだし、今生の」

 首を傾げ、あっけらかんと答えた。


 面食らった!

「わたしは、ちゃんと挨拶がしたかったの!!」

 じっと見つめ。

「そっか、そっか。愛愛あいあいしい、な、アニーは。兄弟子あにでし主水もんどとは、おお違いだな」

「ぅん? 先生、ナンって、いいました」

「愛愛しい」

「そのあと」

「主水」

「そのまえ」

「兄弟子」

 表情は瞬く間に変わった。

 衝撃的な事実が発覚し、驚愕の色を隠せない――絶叫した。

「ぇえええーっつつつ! あの男が私の兄弟子ですって!? な、な、な、なんでーーーーっ!!!!」

 両手を空に突き上げ、大げさに頭の上にはまるでマンガのようにビックリマークが、ポン、ポン、と浮かんでいるかのようだった。まるで世界の終わり知ったように、全身を震わせていた。


 瑠璃は、

「そんなに驚くこと?」

 騒がしさに全く動じることなく、静かに肩をすくめた。


「あの、あの、あの、あの変態が――わ、ぁ、わたしの兄弟子…… むり、ムリ、無理ーーー!!!」

 ベットに両手の握りこぶしで、ポカ、ポカ、と叩いていた。


 頭をかきながら。

「むしろ。いままで、その考えに至らなかった。アニー、君、それなりに頭がいいと思っていたんだけど、な。アホのだった、か」

 アニーは苛立ちを隠しきれずにベッドに座っていた。が、瑠璃は、まるで何も気にしていないかのように、リラックスした態度で椅子に腰掛けていた。


「ぅぅぅ、確かに……。先生が私の家庭教師をするまで、吉祥天きっしょうてん重工業の特別研究員だったんだもんね。お坊ちゃんと関係ない方が、ありえない、か」

 混乱した気持ちを整理しながらつぶやいた。


 瑠璃は、クス、クス、と笑いながら、

「主水と兄弟弟子。さらに兄弟子って、聞いたら嫌がるのは仕方ないか――好敵手ライバル心を抱く。君からしたら」

 頭を撫でた。




 アニーは、診察用のベッドに横たわっていた。

 主水から想像以上に痛めつけられ、必殺である――言葉の光ルクス・ヴェルビを放つため代償として生命力を使い、生死を彷徨うことになった。

 が、

 助かった、主水のおかげで。


 まじまじと腕を見つめていた。魔弾、自己先鋭弾ペネトレイトで撃ち抜かれた射創しゃそうが、何事もなかったかのように消えている。

 肉体が感じた痛覚、視覚で見た傷、が。

 皮膚が完璧に再生されているその光景に、信じられない気持ちが膨れ上がる。


「……せ、せかい…………最強」


 思わず手を握りしめる。

 あの痛みも、傷跡も、すべてが嘘のように消え去った。

 実力は幼少期から知っていた。彼の圧倒的な力に、純粋に憧れを抱いたことを覚えている。

 異能者として過大評価することがあっても。

 ただ、

 越えられない壁。

 それが主水に対して抱く、率直な感情だった


 唇を噛みしめた。

 主水に挑んだ戦い――それは単なる試練ではなく、自分の成長を確かめたいという強い願いでもあった。幼い頃の憧れた存在を越えたい、と、いう決意だった。だが、その結果は予想をはるかに超え、完膚なきまでに叩きのめされた。


「それなりに闘えると……思っていたのに…………」


 過酷な訓練を乗り越えてきた。


 瑠璃の指導は、で、ある。


 異能力には、強靭な肉体が必要不可欠。

 アニーに課されたのは、体力と瞬発力を重点的に鍛えるための高強度インターバルトレーニングHIITだった。短時間の全力運動と短い休憩を繰り返すことで、身体能力を最大限に引き出すプログラム。訓練では、短いスプリントから始まり、負荷の高い筋力トレーニングが続いた。


 異能者にとって力のコントロールは必須。

 瑠璃はこれを科学的アプローチで教えた。彼女は異能のエネルギーを数値化し、最適な出力レベルを分析するために、特別なセンサー付きのトレーニングスーツを装着し、自分の異能力がどれだけ効率よく使われているかを常に、モニタリングされていた。


 メンタル面での強化も欠かさなかった。

 極限状態でも冷静さを保つために、シミュレーション装置を使った精神的なプレッシャーをかける訓練を取り入れた。異能者バトルの最中でも、感情に流されないよう、冷静に分析し行動する力を身につけさせた。


 瑠璃は科学者としての知識を活かし、アニーに物理学や生体力学の基礎を教えた。

 彼女は常に、『頭を使って勝つ、異能はただの力』と、言い続け。どのように力を効率的に使うかを理論的に教え込んだ。


 精神論を表向きに掲げているが、実際のトレーニングメニューは、科学的根拠に基づいたものであった。


 アニーの心身は、鍛え上げられた。

 一流の魔闘士として、認められるだけの力を身につけた、はず、だった。

 痛感させられた、圧倒的な実力差を。


「アニー。悔しの?」


 顔を向けた。

 その表情には、敗北のショックと、先が見えない不安がにじんでいた。

 椅子に座り直しながら瑠璃は、タブレットを操作しながら微笑んでいた。


「あなた、忘れてるでしょ。過程、すっ飛ばしている、こと」


 軽やかに言葉を紡ぐ。


「ナンバー、スリーの私に、一度でも勝ったことあった――あなた? 魔闘士このぎょうかい、甘くないわ、よ」


 言葉が心の中に静かに染み込んでいくのを感じていた。

 敗北の痛みはまだ残っているが、その裏には確かな理解が広がりつつあった。自分が何に挑んでいたのか、そしてその挑戦がどれほどのものであったのか、改めて実感し始める。


 百花の王に敗れるまで、世界最凶と呼ばれた異能者――硝子職人パート・ド・ヴェールうるう瑠璃るり

 に、

 一度として勝ったことが、ない。


「瑠璃先生に勝ったことがないのに……勝てることが、おかしいんだ」


 その理解は、決して自分を卑下するためではなく、冷静な現実認識だった。

 体に溜まっていた、負の気持ちが和らいでいくのが分かる。敗北の痛みはあるが、もうそれに囚われる必要はないのだ。


「おお、やっと気づいたか。主水に勝ちたかったら、まず、私を倒す。それから、牡丹ぼたんちゃんを倒す」

「そうですね。先生を倒し、理事長を倒し、あの変態を倒します!」

「その気持ちの切り替え早さは。あの変態を倒す武器だ、君の」


 柔らかな手がアニーの肩に触れた。

 温かな掌の感触に、心の中でさらに整理された思考が広がる。


「では、あの変態に。もてあそばれたアニーの肉体を……ぅ、うへぇ、うへぇ、うへぇ、楽しみ。おっと、検査しましょう、ね」


 瑠璃、チェック!


「相変わらず、発育のいい体してるねぇー」

 おどけた調子で、触診しながら話す。


 指先がやや強めにアニーの胸部を押すと、微かに顔をしかめた。


「ちょっと! 先生、どこ触ってるんです!?」

「何言ってるの、ただの診察だってば。ほら、もうちょっとリラックスして。こうやって筋肉の張り具合を感じながら、しっかりと確かめないと、後で大変なことになるんだから。ふふっ、次は、お、み、あ、し」

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