第9話 嬉しい
ガララ、と。スライド式のドアが開いて。
「…………何をしたの」
「……母さん」
母さんだった。悠太は居ない。どこかに預けてから来たのか。
時計を見ると、午前11時20分だった。何日も寝てた訳じゃなさそうだ。
「…………塀に、頭をぶつけて」
「その子は【何】」
「えっ」
母さんは腕を組ながら、入ってきた。目に入ったのが優愛だ。
「……その場に居合わせて。多分、一晩中付いてくれたんだ」
「…………」
椅子には座らず。腕組みをしたまま僕を見下ろす。
「大丈夫なのね」
「多分。……さっき目が覚めて、今お医者さんを呼んでもらってるところ」
そこへ。
「もうちょっとで来るって。取り敢えず喉とか——」
「あ…………」
真愛さんが、戻ってきた。
部屋中に、緊張感が走る。時間が停まる。真愛さんは僕に向ける笑顔のまま固まった。母さんは、表情をぴくりとも変えないまま。
「……あっ。えっと。初めまして。重明くんの、お母さん、ですよね。わたし——」
「…………」
真愛さんには、僕の家族のことを何も話していない。いつか挨拶もしたいねと言っていたけれど、僕は肯定できなかった。
その冷たい視線で。真愛さんも察したかもしれない。
「……貴女は、重明の【何】ですか?」
「!」
凍るかというくらい、冷たく言った。『こーちゃん』が、僕に敵意を向けたことと同じで。母さんからしても、真愛さんの印象は良くない。
シングルマザーというものに対して。多分、好印象は持ってないんだ。母さんは専業主婦で。働いていないからかもしれない。
「……相原、真愛と申します。娘の、面倒をよく見てくれていて。……もう、帰りますので。失礼しました」
ぺこりと、お辞儀をして。真愛さんは僕のお腹から優愛を引き剥がして。
僕に一瞥もなく、最後に一礼して、部屋を出ていった。
「………………」
静寂。気まずい。
「……あの子の、父親は?」
母さんが、やがて口を開いた。
「……多分、高校生の時に産んで、逃げられてる」
「………………そう」
それだけ言って、それ以上踏み込むことなく。
母さんはベッドの横の椅子に座った。
「先生が来るのでしょう?」
「……うん」
——
その後、お医者さんが来て。説明してくれた。コンクリートに頭を打った僕は、それでも奇跡的に骨や脳に異常は無く、しばらくは痛みが引かないけれど、その後は問題なく元の生活に戻れるらしい。2週間は掛からないそうで、早ければ数日で退院できるとか。
でも、後から何か発覚する可能性もあって、大事を取って少なくとも1週間は入院することになった。
「じゃあ、退院の日が決まったら連絡しなさい」
「…………うん」
先生が退室して。母さんも立ち上がる。その言葉で分かった。もう、多分、母さんはここへ来ない。
「これを機に、変な人付き合いは辞めなさい。経緯は知らないけど、どうせろくなことじゃないんでしょ」
「…………母さん」
僕が呼ぶと。
母さんはぴたりと止まった。ドアを開けて、部屋を出る正にその最中。
振り向かない。だけど、止まってくれた。
「……来てくれてありがとう」
それでも。
僕は嬉しかったんだ。全部が全部、嬉しさ100%じゃないけど。
1ミリでも、心配してくれたんじゃないかって。
「………………」
また、時間が停まった。実際は、10秒あったかどうかだと思うけど。
僕には、何時間にも感じた。
「…………」
そして。
母さんは退室して、ドアは閉められた。
——
——
『ほんと、ごめんね。大丈夫?』
『大丈夫。1週間様子見だけど、後遺症とかも無いらしいから』
『お見舞い、行っても良いかな』
『寧ろ来て欲しい。めっちゃ暇』
——
「ごめんね。ほんとごめん」
「なんで謝るのさ。真愛さん何も悪くないじゃん」
翌日、17時36分。真愛さんが優愛を連れてお見舞いに来てくれた。来てすぐに、真愛さんは頭を下げた。
「だって、わたしが巻き込んで」
「無いよ。大丈夫。それより、真愛さんの方は大丈夫?」
「……うん。えっとね」
僕の方は、まだ首しか動かせない。まだ痛い。痛みを抑えるお薬を処方されてるけど、それでも辛い。
「めっちゃ、血が出てね。わたしはすぐ救急車呼んだんだけど。……あの人、逃げちゃったんだ。それから何も。連絡も、お店にも来てないし。多分後ろめたくて来れないんだと思う。あの時は興奮してたんだろうけど、後になって冷静に考えて」
「…………うん」
「毎日、毎時間のようにメッセージ来てたんだけど、それもパッタリ無くなって」
「そうなんだ」
「……なんか、もう良いやって思ってさ。全部消しちゃった」
「えっ?」
「メッセも連絡先も、写真も。もう自然消滅でしょ。ていうかあんな乱暴な人と付き合ってられないし。今度来ても拒絶するから。全力で」
「…………」
真愛さんは、怒った様子だった。これも、初めて見た。僕の為に、怒ってくれてるんだろうか。そうだったら嬉しい。
そっか。この事件で、真愛さんはようやく解放されたのかもしれない。
「……優愛のお陰だね」
「えっへん! なにが?」
「ぷっ」
優愛は分かってない様子で胸を張った。
考えるんだ。
もし、あのまま僕が出ていかなかったら。どうなっていただろうと。もしかしたらあの男は、泣き止まない優愛にも、真愛さんにも手を上げたかもしれない。
僕が怪我をすることで、それが回避されたのなら。
良かった。
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