プライドチキン

こあ

プライドチキン

達也たつや〜だるくねぇ〜?」


 背後からかけられた声に達也はビクッと肩を揺らして、キャンパスへ置かれた紙をかき込むように胸へと引き寄せた。


「美術なんてやってらんねーわ……早く休み時間なんねーかな」


 いかにも退屈そうな、だらしない格好の少年が達也の隣に座って校庭を見つめた。二人のいる体育館と校舎とを繋ぐ通路は視界が開けて見通しが良く、大きな記念樹の生えたロータリーから校庭までが一直線になって見渡せた。

 達也は慌てた様子で紙を丸めてボールのように扱う。それから持っていた鉛筆をカラカラと置いて咳払いをした。


「ホントホント。敏樹としき、休み時間何する?」

「あー、ドッヂも飽きたしなぁ……ん? おい達也、そいつで野球しようぜ」


 敏樹は急に声高になって達也の紙ボールを奪い取る。離れていくボールの軌道を目で追った達也は「あっ……!」と緊張した声を上げて、それを取り戻そうと宙を掻いた。


「大丈夫大丈夫! 先生ぜってーみてねーって!」

「お、おう」


 敏樹は持っていた紙を円錐えんすいに細く丸めるとそれを持って軽い足取りで距離を取る。達也はそれをぼうっと見ていたが、敏樹が紙ボールをノックすると咄嗟とっさに立ち上がってそれをキャッチした。


「ぶなっ!」

「わりーわりー」


 達也はワイシャツの裾を払ってから力ない視線で紙ボールを見つめた。


「早くしろよ〜」


 紙のバットを構える敏樹に視線を向けてから、握り潰すくらいに紙ボールを強く握って思い切り投げた。


「おわっ!」


 勢いよくで飛んできたボールに、敏樹は身体を泳がせてバットを振った。すると、振り出しが遅れたからか、ボールは正面へは飛ばず校庭の方へと飛んでいってしまう。

 砂の上をボールが風に煽られて転がる。達也は弾かれたように通路から飛び出して砂の上を走りだした。

 ボールを拾った達也はホッとした表情で砂を払い、それから丸めた紙を開こうとした。しかしその瞬間、二階の窓が勢いよく音を立てて開き、怒号が飛び込んでくる。


「お前ら何やってんだ!」


 バッと振り返って通路を見ると敏樹が急かすように手招きをしていた。達也は急いで通路に戻って、とりあえずここを離れようと校舎に飛び込む。しかし飛び込んだ先、目の前には小柄な老人が朗らかなに表情を浮かべて立っていた。


「あ」


 達也は驚いた声を上げる。しかし、目の前の老人は眼鏡の奥からニコニコと微笑んでいるのみだ。


「スポーツはいいですよね」

「あー先生もやる?」

「二人とも後で職員室へ」



 井道達也いみちたつやは現実主義者でも理想主義者でもなかった。彼は現状に拘り燻っているが、それが現実的である保証はなく、また、彼にとって理想的でもない。来し方行方のギャラリーの中、安堵あんどした表情で彼は立ち止まっていた。

 彼は真辺敏樹まなべとしきという友人と怠惰で不良な中学生となったが、それは彼が本意とするものではなかった。


 無礼に職員室から出てきた二人は誰一人として生徒の居ない廊下を歩き教室へと駄弁だべりながら歩く。


「サボっちゃおうぜ」

「また怒られてもしらねーぞ」

「ちぇ」


 敏樹はどうやら学校というものが酷く嫌いらしく、何故学校に来ているかといえば達也と駄弁りに来ているらしかった。

 達也はそれを意識の片隅で理解しながらもそれを無視して、彼を突き放すでもなく手を取り合うでもなく絶妙な距離感に置くことで、差し当たって得られるぬるま湯に浸かっていた。

 達也は勉学そのものは嫌いではなかった。しかし勉学を強要する考えそのものは大嫌いであり軽蔑している。それは所謂いわゆる反抗期であり、同時に健全なモラトリアムであった。


 教室のドアを開けると冷ややかな目線が彼らに浴びせられた。しかし、敏樹が睥睨へいげいするとクラスメイトはこぞって黒板に向き直る。ただ一人、面白がってこっちをみる女生徒だけが例外であった。

 それは達也の隣の席の女子で、名を斉藤綾香さいとうあやかと言う。彼女は明るいムードメーカーで誰とでも分け隔てなく接する無類の人物。文武両道をこなす才女であり、おまけに美人。しかし、それ故に生じたプライドの高さからか、何か一つでもうまくいかないと途端に機嫌が悪くなるという欠点があった。だがそんな所も含めて魅力的な雰囲気を持つ彼女に、達也は少なからず好意を向けていた。


「今回は何したの?」

「野球」

「ばっかだなぁ」

「うるせ。どうせ俺は馬鹿だよ」

「天邪鬼」

「……てか、なんで話しかけてくんだよお前。俺が言うのものなんだけど、辞めといた方がいい」


 イタズラな笑みを浮かべる綾香に孤独な猜疑心さいぎしんを膨れ上がらせた達也はバツが悪そうにそっぽを向いた。


「どうして? 今に始まった事じゃないでしょ?」

「悪い噂がたってからじゃ遅いぞ」

「私そんなの全然気にしないよ?」


 その言葉にドキッとした達也が綾香を見ると、彼女は黒板を見ながらノートを書き達也と会話するという離れ業をしながら手を挙げた。どうやら先生から質問が来ていたらしい。

 教室を見渡す先生の視線がこちらに向いた瞬間、目線を逸らした達也の腕がひょいと上がった。


「おー、じゃあ井道」

「えっ、俺?」


 瞠目どうもくする彼の肘を押し上げていたのは顔を伏せて笑いを堪える綾香だった。達也は身体を強張らせて綾香をにらんだが、周りのクラスメイトの視線に気が付いて不意に立ち上がってしまう。彼は不安な様子で机に伏して眠ってる敏樹の方を見ると、すこし胸を撫で下ろした様子で咳払いをした。


「どうした? この絵の題名にもなった都市名だぞ」

「えっと」


 彼の視線が教科書と黒板を行き来する。綾香が教科書を寄せてきたが達也はそれを無視して黒板の文字を目で追うと、黒板には年表で一九三七年と都市無差別爆撃という文字が並んでいた。


「ゲ、ゲルニカ」

「はいありがとう。スペインのゲルニカにドイツ軍の……」


 達也は冷や汗を拭って安堵あんどのため息をついたのち、眉をひそめて軽蔑のこもった視線で綾香を睨んだ。


「ごめんごめん。そんな怒らないでよ」

「マジでざけんなよお前」

「でも答えられたし結果オーライじゃん。ていうか教科書見ずに凄くない? なんで知ってたの?」


 その言葉に酷く動揺した達也は、目を泳がせてそっぽを向く。


「……教科書チラ見したからだよ」

「嘘じゃん。私の無視した癖に」

「嘘じゃねーよ。じゃなかったら分かるわけないだろ」


 達也が一瞥いちべつすると綾香は頬杖をかいていぶかしむ様な目でジッとこちらを見ていた。


「ふーん。話したくないならいいんだけどさ」

「うざ」

「その言い方は酷くなぁい」


 達也は懐疑心かいぎしんと若干の期待を抱いた視線を綾香に向ける。


「お前なんで俺に絡んでくんの?」

「気になるから」


 恥ずかしげもなく答える綾香に度肝を抜かれながらも喜色を隠しきれない達也。彼はどう返せば良いか分からなくなって、取り敢えず「はあ?」とか「え?」とか曖昧あいまいな照れ隠しをした。


「なんて言うのかなぁ。なんかね、心から笑ってるところを見たことが無い気がするんだよね」


 綾香の堂々とした真面目な態度と予想外な言葉に落胆しつつも少しホッとした様子の達也は、彼女の顔を再び真っ直ぐ見つめた。


「なんだよそれ」


「私の感じ方だからさ、ハッキリとしたことは言えないんだけど。なんか、息苦しそうなんだよね。をやってるときの感じがしないっていうか。何かに夢中になってるところを見たことないっていうか」


 彼はその言葉に殴りつけられる様な感覚を覚えて息を呑んだ。それから露骨に彼女から目線を逸らすように机に伏せて狸寝入りを決め込むことにした。


「ねみ」

「あ、おやすみ〜」


 目をつむって感じる、胸中で蠕動ぜんどうする泥の様な感情とくすぐったい温もりに苛立ちを覚える。それは自分自身に向けてのものだ。頭の中で反響して綾香の声が聞こえると、胸中のそれは溶岩のようにボコボコと泡立ち、彼に自虐的じぎゃくてきな幸福の熱を届けた。



 身体を揺すられて達也が目を覚ますと目の前には敏樹が嬉々とした様子で「早く帰ろうぜ!」と笑っていた。

 教室にはまだ生徒が残っている。帰り支度や部活動の支度をしている様子はなかった。


「まだホームルーム始まってねーじゃん」

「いいだろんなの! 別に誰も気にしねーって」


 それもそうかと達也が無気力に鞄を持って立ち上がると、不意にポケットから何かが落ちた。それは美術の際に作った紙ボールだった。

 紙ボールは誰も気付かないまま教室を他の生徒達の集まりへと転がっていく。一人の男子生徒の足にぶつかって止まった紙ボールをその男子生徒が拾った。


「なんだこれ」


 達也はその声に振り向くと吸い込まれるように駆け出す。


「返せ!」


 達也の声を無視してその紙が開かれると、そこには鉛筆を巧みに使った繊細なタッチの風景画のラフが描かれていた。


「うま」

「これ誰が描いたの?」


 集まりのまばゆい注目は完全に風景画へ移り、それは瞬く間に教室中へと広まった。各々感想を述べたり誰のだと推察をしていて、達也は気が気ではなかった。焦燥感に囚われた達也は、人と人の間から腕を伸ばすとその紙を掴みとって引っ張った。


「あ!」


 その声の後に遅れて勢いよく紙が破ける音がした。教室は水を打ったように静まり返り、次に飛び込んできたのは「うわ」という蔑みの一言であった。

 周りの者の注目は次に破かれた紙を握る達也に向けられた。それは先程とは打って変わってどんよりとした暗い雰囲気で、達也を取り巻く空気は竜巻の様な鋭い激しさがあった。

 彼等は各々罵詈雑言や達也を責める言葉を浴びせかけたが、達也は何も言えずジッと堪えていた。そして何より一番ショックを受けていたのは達也本人であった。


「やめなよ! 一人を寄って集って攻撃なんてだっさいな」


 それは綾香の不機嫌な声であった。達也はハッとして授業中に彼女に言われた言葉を思い出した。

 彼が口を開こうとした瞬間、右手に握った紙を横から強引に掻っ攫われた。それは普段のヘラヘラした様子とは違った不機嫌な敏樹だった。


「こんなもんがなんなんだよ? こんなのこうしてやる!」


 そう言って敏樹は紙を細かくビリビリに千切り、引き裂く。そして達也の肩を掴んで引っ張ったが、その達也の拳が敏樹の頬を殴り飛ばした。

 教室中が一体何が起こっているのか理解出来ず騒然とした。達也の行動は達也本人以外にとっては理解のし難い、不可解な行動に思えてならなかったのだ。

 達也はそのまま敏樹を殴ろうかとしたが、踏みとどまって周りの視線に耐えきれず教室を飛び出してしまった。それは刹那的な不安と空虚な絶望に傷付けられるのを恐れて、方向も分からない闇の中で無作為に走り出す、腰抜けた自尊心の逃亡であった。



 肩を落とした達也は家に着くと廊下を駆けて、暗い部屋に入った。それから少しして、スイッチを手で探してから部屋の電気をつける。部屋には妙に小綺麗な机と椅子、それからベッドの上にゲーム機が散乱している。それ以外は特に何もなく、世間一般の男子中学生の部屋としてはどちらかと言えばあっさりとしていた。

 彼は扉を閉めてバッグをベッドに放り、ベッドに寝転ぶと、先程のことを思い出して髪を掻きむしった。暫くしてピタッとその動きをやめると、視線を押し入れに向けてコソコソと扉を開けた。

 中には筆や絵の具、鉛筆の他にパレットやキャンバスなどが入っており、その奥の棚を達也が開くと、そこには多くの絵画が綺麗に保管されていた。

 彼はその中から一つのキャンバスを取り出すと、イーゼルに置いて見つめながら綾香の言葉を思い出した。それは鉄の鎖の様に胸をキツく締め付け、やがて彼に自らも意識しない涙を流させた。

 それからジンジンと痛む拳を見つめた。何故敏樹を殴ってしまったのかと彼は自分を問い詰める。しかし、考えるとそれは情動的で自分勝手な都合によるものだった。

 彼はうずくまって声を出さずに泣いた。制服やシーツを濡らし、湧き上がる感情を言葉にする代わりに。

 ピンポーンと、不意にインターホンが鳴った。

 彼は涙をゴシゴシと拭いて震える声で「はーい」と返事をすると、立ち上がって誰も居ない家の廊下をそそくさと歩いた。

 扉を開けるとそこには敏樹が立っていた。達也の心臓は跳ね、目の前のバツが悪そうな友人の顔をジッと見つめた。


「わりい」


 初めに飛び込んできた友人の言葉に衝撃を受けた。敏樹が素直に謝罪することにもそうだが、殴られるか怒鳴られるかすると思っていたのだ。

 彼が徐に取り出したのはセロハンテープで雑に繋げられたボロボロの紙だった。そこには見覚えのある風景画のラフが描かれていた。


「俺こういうの上手くないからよ。本当は描こうかと思ったんだけど、無理だったから、繋げて、それで……。達也のなんだろ、これ」

「どうして……?」


 達也は自分が絵画が好きなことや練習していたことなどは家族にさえ話したことが無かった。


「お前があんなに怒ることなんて滅多にないから。あと、斉藤がもしかしたらって……。ほら!」


 達也は押し付けられた紙を受け取ると、再び瞼が熱くなるのを感じて顔を伏せた。


「殴ってごめん。ありがとう」


 そう俯いたまま頭を下げると大粒の涙がポタポタと床に落ちた。敏樹は励ますように肩を軽く小突く。


「そんな大事なもんを野球ボールなんかにすんじゃねーよ、バーカ!」

「うるせ。どうせ俺は馬鹿だよ」


 二人は互いに笑い合って、その言葉の内側で心を通わせる。それは達也が敏樹に心を許した瞬間だった。


「これからどっかいく?」

「いや、折角ならお前の絵もっとみせろよ」



 翌日。学校に来た二人は朝のホームルーム中に校庭に出ていた。その日持っていたのは紙のバットとボールではなく、紙と鉛筆だった。


「お前ら何やってんだ!」


 二人が窓からの声にビクッとして校舎に飛び込むと、一人の小さな老人が朗らかな表情で立っていた。


「芸術はいいですよね」

「先生もやる?」

「二人とも後で職員室へ」



 教室に戻ると出迎えたのは冷ややかな視線だった。しかし、敏樹と仲睦まじく歩いている姿を見たクラスメイトは不思議そうな顔をして、敏樹に睥睨されるとこぞって前を向きコソコソ話に移った。それをしなかったのはそっぽを向いて不機嫌な様子の綾香のみである。


「おはよ」

「……今日はなにしてたの」

「絵描いてた」

「絵?」


 達也は「ほら」といって校庭から見える校舎のラフを見せた。それは非常に柔らかいタッチで、何処か郷愁きょうしゅうを感じさせるものだ。

 それを見た綾香はぱあっと顔を明るくさせて、いつも通りの笑顔を浮かべた。


「ばっかだなぁ」

「うるせ」


 彼女は優しく憂鬱とした表情で絵を見つめる。その横顔に、達也は不思議と穏やかな気持ちになった。

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プライドチキン こあ @Giliew-Gnal

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