彼女の口臭は大丈夫だよね?
僕は不安な気持ちで、息をゴクリと呑んだ。
万里香は目を閉じ、優しく口をすぼめている。
そう、僕からのあれを、ありのままに受け入れる姿勢だ。
ここはショッピングモールの階段の踊り場。邪魔する者は誰もいない。別の階に行きたいならエレベーターやエスカレーターが楽だから、みんなそれを選ぶ。だからここなら、静かな二人きりの空間を作れる。
これは一世一代のチャンス。
心の中では喜んでいるけど、それに負けないくらい不安も大きかった。
僕は万里香の姿の奥に、もう一人の女子の姿を思い浮かべていた。万里香と付き合う前の彼女、涼香だ。
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半年前、僕は涼香に恋をした。
告白を喜んで受け入れてもらった僕は、付き合って半年になったところで、今回と同じショッピングモールでデートをしていた。
あのときも階段の踊り場で、僕は涼香にキスをした。
しかしキスの味は、マズかった。
だから僕は衝動的に「クサッ!」と叫んでしまった。
「私の口が臭いってこと?」
涼香は戸惑いながら僕を問い詰めた。
「うん、なんか、生ゴミみたいな……」
僕の言葉を遮るように、涼香は不条理なケリを急所にお見舞いしてきた。
「女の子にそんなこと言うの、最低!」
涼香は怒りながら踊り場を去っていった。僕は床の上でうずくまりながら、彼女が大げさに足を踏み鳴らして去っていく音を聞いた。
嫌な口臭を知ったとたん、この恋は一瞬で砕け散ったのだ。
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僕はその過去を思い浮かべていた。
万里香の口まで臭かったらどうしようか。
「どうしたの? キスしないの?」
「あっ、なんでもないよ」
僕は平静を装った。
そうだ、女子だから誰でもかれでも口が臭いわけじゃない。むしろきれいな口臭をしている人の方が多いはず。この世に女性は35億人ぐらいいるし、 その過半数はきっと口は臭くないんだ。
たまたま口臭がハズレだった女子を引いたという実体験で、僕はリスクを過大評価していたようだ。
「じゃあ、あらためて」
万里香はそう前置きして、再び優しく口をすぼめた。
僕からの応答を待つその顔は、ナチュラルで実に可憐だ。
僕は胸に拳を一瞬だけあて、決心した。
そして、青春の儀式に乗り出す。
僕も目を閉じ、そっと口をすぼめ、万里香の唇に重ね合わせた。
彼女のキスは、ミントのようにさわやかだった。
当たりだ。
まるで妖精が住む森にきたようなおいしい空気を感じているようだった。
お互いの唇が離れたあと、僕はそっと目を開き、万里香を見つめた。
彼女は不機嫌そうな表情で、前腕で必死に口元を拭いている。僕のキスをありのままに受け入れたことを後悔しているみたいだった。
正直、僕にはそのリアクションの意味が分からなかった。
「あれ、どうした? あんまり良くなかった?」
僕は戸惑いながら彼女に尋ねた。
「幸太の口、臭い」
万里香からの宣告が、僕の体のど真ん中を撃ち抜いた。
「ゴミみたいなキスの味がした。最低っ!」
万里香はそう言い放つと、懐から出したスプレーを僕の顔に何発も浴びせてきた。
「あっ、ちょっと待って、目に入った!」
「うるさいわね! もうおしまいよ!」
僕はスプレーに悶えて床にうずくまった。万里香が大げさに足を踏み鳴らしながら去る音が、一気に遠ざかっていった。
無理やり目を開いて出口や周囲を見渡すと、万里香はいない。
僕は二度目の絶望に押しつぶされるように、大の字になった。
「何でこうなるんだ……」
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