アスピリン
藍沢篠
アスピリン
アスピリンの粉末みたいにサラサラとした雪が、小さなこの街にも降り続いていた。
あらゆるものを包み込むように、冷たい粉雪ばかりが空を覆い尽くしている。まるで、この先に待ち受けている非情な現実さえ、すべてを隠そうとしているかのようだ。積もった雪に掻き消されて、僕の歩いている道の上には、音のひとつすらも存在していない。
白那(しろな)は以前、こんなことをいっていた。
「私はアスピリンに生かされているようなものなの。大雪の日に生まれた私が、その雪みたいな粉薬でいのちを繋いでいるなんて、皮肉な話だとは思うけれど……仕方ないよね」
その名前によく似あう、白磁のようになめらかな頬をわずかに赤く染めながら、昼食と一緒に買ってきた温かいカフェオレへと粉末のアスピリンを溶かしている白那の姿は、どこか悲壮感めいたなにかを感じさせてきた。
白那は幼いころから身体が弱く、血栓ができやすい体質ということも相まって、いつも粉末のアスピリンを食事と一緒に服用していた。その真っ白な粉薬には、血栓ができるのを止める働きがあるということを、かなりの時を経たいま、独学で僕は記憶していた。
僕の夢は、医師として白那のサポートをすることだ。家が隣同士で、子どものころから生涯をずっと一緒に歩んできた白那のことを僕はいつしか、大切なひとと認識していた。
白那に起きたことを受け入れないといけない。雪が激しくなってきた。急がなければ。
病院に辿り着き、受付で白那のいる病室の番号をすぐに訊ねる。受付のひとは淡々と、
「菊池(きくち)白那さんでしたら、二〇五号室ですけれども、現在は危うい状態とのことです。念のため、担当医師に確認を取ってください」
それだけを告げてくる。僕は小さく頷き、
「わかりました。ありがとうございます」
大急ぎで階段を駆け上がり、白那のいる病室の前に立った。静かにドアを叩く。数秒ののちにドアが開き、真剣そうなまなざしの若い医師が僕を見つめてくる。僕はすぐさま、
「如月樹也(きさらぎみきや)といいます。白那が倒れたと聞いてきました……白那、大丈夫なんですか?」
そう話しかけた。医師のうしろから白那のおかあさんが僕を見据えて、医師に告げる。
「幼馴染みの子です……入れてください」
医師は頷いて、僕を病室に入れてくれた。
「樹也くん……きてくれてありがとう。白那はいま、血栓溶解剤を点滴している最中よ」
白那のおかあさんに促され、僕は眠っている白那の横に、担当の医師と並んで立った。
ベッドの上で、点滴のチューブを繋がれて目を閉じている白那の姿は、痛々しくて直視するのが憚(はばか)られた。だが、これが現実のことなのだと再認識するために、僕は白那をじっと見つめる。血の気が引いた白那の頬には、いつもの彼女が見せていた儚げな笑みの欠片すらも見当たらない。静寂が病室を包む。
病状を見守っていた医師に、白那が倒れた時の状況を訊ねる。医師は静かに答えた。
「菊池さんは『雪を見たい』といって、中庭にでていたそうです。昼食の時間になっても戻らなかったので、心配した看護師が様子を見に行った所、雪の上に倒れていたとのことでした。倒れてから一時間ほど経っているとお見受けしますが、二時間以内であれば、血栓溶解剤でなんとかなる可能性もあります」
僕も医師を志す人間として、この医師の判断は大方、正しいのではないかと思った。実際、脳梗塞においては、手術まで至るような重篤なものになっている場合を除き、身体への負担が比較的少なくて済む点滴治療だけで対処する方がいい、と聞いていたからだ。
この時の僕はまだ、起きている事態を楽観視していたように思う。白那はきっとすぐに元気になって、僕たちのもとへと戻ってきてくれる。そう信じて疑っていなかったのだ。
だが、わずか数分後、白那の容態が急変する。白那の脈拍がいきなり弱くなったのだ。
「血栓溶解剤の濃度を上げます! 一刻も早く! このままではいのちに関わります!」
若い担当医師の焦ったような指示の声に、看護師が大慌てで点滴の薬を取り替える。透明な薬の詰まった、新しい点滴パックが設置された。少しずつ、白那の体内へと薬が入り込んでゆく。僕はその様子を黙って見つめていた。医師志望とはいえ、素人が下手に口をだすべき場面ではないとわかったからだ。
(お願いだ! どうか助かってくれ……!)
そうこころの中で祈り続けることしか、僕にできることはなかった。医師も看護師も、そして白那自身も、いまこの瞬間において懸命に病気と闘っているのに、なにもできやしない自分自身のことが、腹立たしかった。
白那の両親も祈るように手を組んでいた。
「大丈夫だ。白那はきっと俺たちの所に戻ってきてくれる。いまはそれだけ信じてくれ」
白那のおとうさんの言葉に、僕のこころの緊張が少しだけほぐれる。苦しい胸中は白那のおとうさんにしても同じはずだが、僕を心配させないように、気丈に振る舞っていた。
病室の窓の外をちらりと見遣ると、先ほどから降り続いていた粉雪はすっかり大雪になっていた。忙しく駆け回る医師たちとは対照的に、窓の外には音がない。胸がざわつく。
(白那は、どうして雪を見たかったのかな)
そんなことを考えた、その直後だった。
白那の様子をモニタリングしていた機械から、異変が現れたことを示すアラートが鳴り響く。医師がすぐに次の指示を看護師へ伝えた。看護師は急いで病室を飛びだしてゆく。
しかし、看護師が戻ってくるのを待っている間に、白那の脈拍はだんだんと弱くなっていった。そして、残酷な機械音が響き渡る。
戻ってきた看護師とともに、医師はAEDを白那に装着し、ショックを与えた。だが、心臓が動くことはなかった。医師は白那の脈拍と瞳孔の状態を確認し、僕たちに告げる。
「二月十二日十三時四十分……ご臨終です」
刹那、白那のおかあさんが泣き崩れた。白那のおとうさんも、目を閉じて涙を堪えている様子だ。そんな中、僕は泣けなかった。
先ほどまで見ていた、病室の外の風景をもういちど見遣る。白那のおかあさんが泣きじゃくる声だけが病室に響く中、窓の外では相変わらず、粉雪が音もなく降り続いていた。まるで、菊池白那という少女のいのちが、この世から喪われたことを悼むかのように。
手短に遺体の確認を済ませ、白那を連れて家へと戻る。死亡診断書に提示された白那の死因は脳梗塞。合併症はなく、あまり苦しむこともなく、白那はあっけなくこの世からいなくなった。落ちては溶ける粉雪のように。
翌日に通夜が営まれ、白那のご両親やご家族、親戚の方々の他に、かつての白那の級友たちもやってきた。みんな揃って涙を流しながら、白那がこの世を去った現実を噛み締めていた。そんな中だというのに、いまだに泣くことすらできない僕自身のことが、歯痒くて仕方がない。大切なひとを亡くすということの重たさではなく、胸の中に穴が開いたような、静かで残酷な軽さが僕を蝕んでいた。
いちばんの友達だった少女を、実にあっけない形で亡くしたというのに、涙のひと筋すらも流せない自分が、薄情な人間のように思えてならない。医師として白那を支えたいと思ってしまった罰なのだろうか。空っぽになってしまった感情は、戻ってきやしない。
二月十四日、奇しくも愛を伝えあうヴァレンタインデーに、火葬と葬儀が執り行われることに決まった。僕は少しでも長く白那に寄り添っていたかったので、線香の番を引き受け、白那のおとうさんとひと晩をすごした。
白那のおとうさんもここにきてようやく、病院では堪えていた涙を流しつつ、思い出を話してくれた。白那自身も語っていた通り、白那が生まれたその日も、亡くなった日と同じ、大雪だったらしい。ここまで「雪」に愛されながら、短いいのちを散らしていったということが実に感慨深いと、語ってくれた。
白那のおかあさんが、部屋の片づけ中に見つけたらしい手紙を僕にくれた。かわいらしい雪だるまが描かれた封筒には、確かに『如月樹也様』と、僕の名前が書かれている。
僕はその手紙をそっと開封し、読んだ。
『樹也へ
私、実は手紙ってちゃんと書いたことがないから、あまりよくわからない気がするんだけど……いま思っていることを書かせてね。
私は、私なんかのために、いつもいつでも一生懸命な樹也のことが本当に大好きです。
いつか、樹也が夢を叶えて、お医者さんになって私を診てくれるのなら、それはとても素敵なことなんじゃないかなって思うの。
樹也の夢を、私はずっと応援しているよ。
……ごめん、書いていたらなんだか、悲しくなんてないのに涙が溢れてきちゃったよ。
こんなに弱い私でも、樹也のこと……』
字が涙で滲み、それ以降は読めなかった。
翌日、火葬の執り行われる少し前に、僕は昨夜もらった手紙を、白那の棺に入れた。その時に見た白那の最期の姿は、忘れることは叶わないだろう。あまりにも優しく、無垢であり続けた、幼馴染みの少女なのだから。
火葬が済んだのち、骨と灰になった白那を白木の箱に入れて、葬儀をしめやかに営んでから、幼馴染みであり、いちばんの友達であったという縁から、遺骨を持たせてもらった僕を先頭にし、白那の家の墓へと向かった。
その道の途中で、また粉雪が舞いだす。粉雪に乗って、白那の声が聞こえた気がした。
(樹也のこと、空の上から見ているからね)
白那を墓に納めるその時も、アスピリンのような粉雪であってほしいと、僕は願った。
〈了〉
アスピリン 藍沢篠 @shinoa40
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