第11話
突き抜けた晴天が、いまの彼にとってはひたすら憎たらしかった。
美しい朝日。あぁ、もう夜明けかと、感慨深くなる余裕はなかった。
「弱いですね。おままごとでもしに来たんですか?」
桐子は相変わらずの横柄で不遜な態度で、秋に遠慮なく物申す。
襲い来る悪魔から逃げ惑う新人修道士の秋を他所に、パートナーであるベテラン修道女の桐子はのうのうと携帯ゲーム機を手にしていた。
息ひとつ乱れることなく秋に合わせて走りながら、カチカチと器用にゲーム機のボタンを押してキャラクターを自在に動かす。ときにはゲーム内の敵キャラクターに、腹が立つくらい挑発して馬鹿にしている。
その無用な余裕が、必死に走る秋にはひどく苛立った。
「なっ……ヒー……っおまっ……ヒュー……」
「なにを仰りたいのかわかりません。地球語でお願いします」
普段の移動手段が基本的には原付バイクで、しかもあまり運動が得意な方ではない秋にとっては、ちょっと走るだけで息も絶え絶えだ。
まだティーンエイジャーだ、若者だとはいうものの、普段からの生活環境がものを言うのが人体である。鍛えれば上がるし、怠ければ落ちる。
パートナーとして、暫定的なコーチとして秋の生活態度を事前に聞かされていた上で、この扱い。
芽生えてもいまは互いに気持ち悪いだけだが、愛というものが一切感じられない。
いや、運動不足なのは自分が悪いと、秋も薄々は思っているのだが。
秋はその混沌とした気持ちがこもった訴えを、死にそうな声で涙を目尻に浮かべながら叫んだ。
「なんで見てるだけなんだよ⁉︎助けてよ!!!!!」
秋の涙と鼻汁が散らばるほどの大絶叫が辺りの壁に反響し、喧しく不潔に感じた桐子が顔をしかめた。
桐子はため息の後に仕方なしにフォローを入れてやろうと、走りながら秋が着ている神奈川エリア第一高校の黒い制服の、グレンチェックのネクタイを乱暴に引っ張る。
「ぐえっ」と苦しげな声が聴こえたが、それは無視した。
「ほら、早く始めてください」
と彼のネクタイを緩めて、シャツのボタンをもどかしそうに外してやる。
露わになった秋の胸元は、情けなさそうに白くて平たい。いかに彼が普段から運動を怠っているかが、桐子には見て取れた。
その白い胸の、ちょうど心臓の真上部分には、ほんの少しだけ傷痕が浮いている。桐子が何度も噛み千切ってできた傷痕だ。
情けなくてだらしのない鼻声で、秋はほんの少し馴染んできた文言を口にする。
「うう……『主よ。我らの原罪を、どうかお許しください』」
教典の第一章第一文で、悪魔祓いの開始合図。同時に悪魔の力を少しずつ弱めて、読み取るために心をバラの花弁のごとく露わにさせるのだ。
定石通り、女性に取り憑いていた今回の悪魔も、苦痛で顔を歪めてだした。
桐子の健康的な紅い舌が、秋の胸を這うように優しくなぞる。
いまだ慣れないくすぐったさを我慢しようと、秋は血が出そうなほど思いきり歯を食いしばっていた。妙な声を漏らすと、桐子が殴りかかってくるからだ。
どこか柔らかいところはないかと、桐子の舌と歯が裸の胸を探る。ここだと決まった心臓のすぐ上に、鋭い『牙』を突き立てた。
ぷつんと表皮を突き破り、深く深く肉を抉る。血の甘美ながら苦い味が、桐子の口中を狂おしく扇情的に支配した。自然、吐息が口の端から漏れる。
彼の————『罪人』の、禁断の果実にも似た赤い心臓に、処女の唾液がじわりじわりと染み込んでいった。
秋の心臓の鼓動が、どくどくどくと早まっていく。血液の逆流が、火照った肌を一層のこと熱くさせた。
やがてじわりと、手の爪先から血が滲みはじめる。
「っ……!」
痛みも伴うこの光景。いくら我慢していても、自然と声が漏れ出てしまう。
爪先からまるでワインのようにじわじわと流れ出た秋の血液が、まるで生きているものみたいに徐々にその形を変えていく。そして。
秋の手のひらに、目映いばかりの銀を湛えた拳銃が、収まっていた。
銃器に明るくない秋にはよくわからないが、桐子が横流しで利用している軍用拳銃よりも、ほんの少しだけキャッチーな外見だ。
自動式とリボルバー式ほどはっきりとした違いはないものの、多少の装飾が施されていることは明らか。
真っ直ぐというより、少し円形じみていることが大きな特徴だろう。形だけなら小型銃のデリンジャーに近いかもしれない。
大きさは男の秋が使用するからか、桐子の愛銃よりは大きめに見える。一応は薬室があるものの、
まだ慣れない銃の冷たい手触りとその存在感に、わずかな圧を感じる。
無言であるはずの無機物が、『はやく悪魔を始末しろ』と叫喚しているように感じたのは、もしかしたら秋の気のせいかもしれない。
だがすぐ隣から感じるプレッシャーは、絶対に気のせいではないとわかる。
「この前みたいに三時間もかけたらぶち殺す」
と、破廉恥な格好の修道女が、地獄の使者のような睨みをきかせていた。
しかしそんなに事がうまく運ばれるミラクルは起きず、結局召集からたっぷり四時間かけて悪魔祓いは終了した。
未成年であるにも関わらず、連日のごとく深夜から駆り出されるとは。
この業界の闇は深いなと、秋は新人修道士としての感想を胸に秘めていた。
「『助けて』だなんて……情けないことこの上ないですね。どのご身分で仰るのやら」
相変わらずの嫌味が、秋の心をちくちくと突き刺す。
本日の反省会を兼ねて、秋と桐子は屋台の蕎麦屋で、かけ蕎麦をそれぞれ一杯ずつ注文した。
ふたりに朝蕎麦という習慣があるわけではないが、鰹と昆布を合わせた出汁の香りを鼻が敏感に嗅ぎ取って、空っぽの胃を激しく刺激。
待ち焦がれてグーグー腹が鳴る間にも、ふたりの会話が続いた。
「う、うるさい!しゃーないだろ、まだ全然戦い慣れてないし!」
「おやおや、そろそろ二週間が経ちますが?私でしたら、そろそろ昇竜拳の兆しが見えてもおかしくない頃合ですよ」
「お前と一緒にすんな脳筋ゲーム女!」
などと、一見すれば仲良しコンビと捉えられる会話。
しかし蕎麦が来ればお互い無言で啜り、空っぽになったら次の召集までは別行動、というのが暗黙の了解となっている。
互いに仕事以外での無駄な干渉はしない、興味がない。
秋もそれでいいし、桐子はそれすら最低譲歩としている。むしろ即時解散しないだけ、ルカの顔を立てているのだと訴えた。
ルカもいい顔はしていないが、ふたりの仲はゆっくりでいいと、あまり急かそうとはしない。
さらにふたりの意地っ張りを代表する、致命的な障害があった。
「んじゃあ、俺はここで」
食べ終わった秋は、屋台トラックのすぐ横に停めていたオンボロ原付にエンジンをかけながら、一応は相棒の桐子に言った。
「おや。こんな早朝から、いったいどこにお出かけですか?ゲーセン?」
珍しく桐子が秋の動向に興味を持ったように尋ねるが、やはりおふざけの範囲だろう。不真面目が顔を出している。
なかなかエンジンがかからず、その上に朝の出欠確認時間が迫ってきていることで、ほんのり苛立ちを浮かべながら答えた。
「お前と一緒にすんな!学校だよ!」
「が…………」
と明らかに唖然とした様子で、秋が必死で不調のエンジンを鼓舞する様子を横目に。
「がっ、こう……?」
「なんだよ、まさか学校って知らないの?」
世界的飢饉で親を亡くしたことで、学校に通わせてもらえなかった子供は、いまどきよくいる話である。
だが桐子がその手の青少年が抱える問題のある家柄ではないことは、秋も聞かされて知っているからこそ、彼女が果たしてなにを言いたいのかわからない。
ようやくエンジンがかかりそうな音がしてきて、気持ちにも余裕が出てきたのでついでだから桐子と向き合う。
桐子は極めて神妙な顔つきで、いつも以上に一生懸命で丁寧に秋を馬鹿にした。
「いえ。まさかあなたのようなば……方が、学校に行ける学力があるという現実に驚愕しております」
「バカって言おうとしたよな⁉︎そんで後半でガッツリ言ってるよな⁉︎」
ぶるんっとようやく苦心の身を結んで、原付バイクのエンジンが音高くかかった。
しかし聞き捨てならない悪口を吐かれて、秋はどういい返そうかと今度は自分の脳を回転させようとする。
しかし自分は本当に馬鹿だったと、うまい悪口が浮かばない語彙力を心中で嘆いた。
「それはそうと、お時間はよろしいのですか?」
「お前が引き止めたんだろ!」
言われて左の手首に巻いた安物の腕時計に目をやれば、もう問題の時刻は厳しく差し迫っていた。
別れの挨拶もそこそこに、秋はバイクに跨って高校までの道のりを急行させる。
後に残された桐子はというと、ひとり真面目な顔つきでぽつりと呟いた。
「ふむ……学校、ですか」
と、そこに。
桐子愛用の携帯端末が、電話を知らせるバイブレーションを周囲に響かせる。
端末の六インチ液晶画面を覗けば、相手は自ずとわかった。
いまはこっちの仕事は、もうしたくない気分なのだが……と、気持ちが沈む。
応答ボタンを指でスライドさせて、桐子は仕方なしに出た。
「はい、青柳です」
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