第7話

 当初の目的の一つであったはずの誕生日プレゼントを選ぶ気も、選ばせる気も、互いに失せたようだ。

 どちらから話しかけることもなく、車が待っているショッピングモールへと戻っていた。海風が穏やかになってきたからか、道中ですれ違う人が次第に増えていく。

 幸せそうな子供の声が風に乗って真尋の耳に入り、理不尽な怨みを募らせた。

 モールの自動ドアをくぐれば暖房が急激に身体を温め始め、冷えていた頬も手足も、痺れるような感覚が過ぎる。

 いつの間にか放課後の時間帯になったようで、学生らしき男女の姿が目立ち始めていた。幸せそうに微笑みあっては手を繋いで密着する様は、自分とは縁遠すぎて違う生物にしか見えない。

 手持ち無沙汰なのか、たまに携帯の画面で時刻を確認しながらのろのろと歩く慎司の後ろを、真尋も黙って付いて回った。

 惰性でショッピングモールの景色を眺めているが、早く駐車場に着いてしまえばいいと願う気持ちもある。

 いっそのこと早足で向かえばいいのに、そんな気力はちっとも湧き上がりそうにない。

――――我ながら矛盾しすぎだろ。

 それでも、今日という日がいますぐ終わればいい、と去年と同じ願いは寸分も違わない。兄の背中も、その距離も、変わることなく進んでいく。

 澱が沈んでは重なり、積み上がったそれ。

 焦燥感と敗北感。嫉妬ばかりが占拠する汚い心だけ、どうか気づかないで。


「あれ?」

 目指していた立体駐車場の四階部分に辿り着く直前、聴き覚えのある声に呼び止められた。先を行く兄も気づいたのだろう、兄弟でほとんど同時に振り返ってみると。

「みなき!」

 慎司の呼び声に応えたみなきが、今朝見送ったままの姿で、こちらに向かって手を振っていた。

 慎司とみなきは双方で示し合わせたように距離を縮め、近距離で向き合う頃に真尋もようやっと追いつく。

「仕事か?」と訊ねる慎司に、

「ちょうど取材でね」

 そう言いながらひらひら振るみなきの手の中には、仕事用の白い革手帳が収まっていた。本文の他に資料かメモか、不揃いな紙片があれこれ詰まって分厚くなり、とても重そうだ。

「ここの三階かいにあるカフェ。チーズフルーツタルトがオススメよ」

 合皮製の手提げ鞄に手を入れて携帯を取り出したみなきは、素早く検索をかけて話題に出したカフェのホームページ画面をふたりに見せる。

 目に飛び込んできたのは、華やかな洋菓子類の写真だ。

 宝石のように艶めいたフルーツと、見た目にも柔らかそうなキメ細かいスポンジケーキ、白く滑らかなホイップクリーム。サクッと食感がよさそうなシュー生地からは蕩けるダブルクリームが溢れ、弾力を感じるひよこ色のプディングにはカラメル色のソースが絡まっている。

 どうやら有名なパティシエの名店らしく、当人らしき中年男性の腕を組んだ顔写真も並んでいる。

 みなきが勧めるチーズフルーツタルトは、店の看板メニューらしい。ホームページでも目立った画面に配置されて、季節のフルーツをふんだんに使っているという、ありきたりな宣伝文句も添えられていた。

 目に眩しい写真で男ふたりの唾液が増加した瞬間を察知したのか、みなきはさっと携帯を仕舞う。

「でも今日は食べないでね!」

 少女のような愛らしさで「めっ!」と注意する思わせぶりな彼女の魂胆は、とうの昔に見え切っている。

 みなきが前日にケーキを作っていたのは明白だ。毎年のことだし、同居しているなら嫌でも目に付くし、完成品が冷蔵庫に入っているのも確認済み。

 この後の流れだって、容易に予想がつくものだ。

 仕事に戻るみなきと別れたあとは慎司とふたり、自宅で彼女の帰りを待つことになるだろう。

 多忙をおして定時退社したみなきが下拵え済みのご馳走を披露し、ケーキを出したところでバースデーソングのハーモニー。

 そんな幸せなはずの瞬間が、苦痛だなんて……。

 今日が早く終われ、早く終われと願う真尋の想いは――――最悪の形で叶う。


「……っ!?」

 突如として襲うは地響き。

 地下を中心としてショッピングモール全体が揺れている、そんな感覚だ。

 駐車場から近い場所にいるだけに、初めは周りで誰も気に留める者がいなかった。立体駐車場内を走る車による振動だろう、と。

 この周辺で一番初めに気づいた様子の真尋も、数十秒くらいは周りと同じような答えを疑わなかった。

 しかし音も揺れも段々と大きくなり、二発、三発、立て続けに四発目ともなると不審に思う者が増えだす。ショッピングモール内はいつもと明らかに違う騒めきに包まれた。

「地震かしら……?」

 日頃は暢気なみなきですら、不安を露わに眉を顰めている。揺れが大きくなる度に足元の不安定さは増し、よろめくみなきの身体を慎司が咄嗟に支えた。

 真尋自身も不安に苛まれ始めた、その刹那。

「ぐぁぁぁぁぁっっ!!」

 耳を劈く男性の絶叫に、真尋を含めた多くの人が振り向く。声の方角をあちこち求める視線は、ほとんどすぐに一極集中した。

 真尋たちの場所からもごく近くにあるエスカレーター。洒落た吹き抜けを見渡せるよう、そのすぐ側に設置されているベンチで座っていた男の喉元に、思い切り噛み付く

 真尋の目に間違いがなければ、ヒトのようだ。線の細い男性に見える。

 ただし髪は抜けるような白さで、肌は浅黒い。血を滴らせた薄い唇の奥に、男の硬そうな喉元を容易に穿つ鋭利なが二本、生えていた。

――――まるで物語フィクションのなかだけに存在する、鬼のような……。

 その生物は獰猛さをいかんなく発揮し、男の喉元を噛み切った。迸る鮮血を気にする素振りも見せず、温かそうな桃色の肉をさも作りたてのご馳走のように貪っている。

 食われている男の全身はショックで痙攣し、眼球も真裏へひっくり返って、口から血混じりの泡が溢れていた。肌の色も生者のそれとはまるで違う、真っ青と土気色の斑へ変化。

 遅れて鉄臭さが周囲を漂い始め、人によっては腹を抱えてその場で嘔吐を繰り返す。

 吐瀉物まみれになったひとを介抱する余裕など、誰にもなかった。それどころか。

 あちこちで短い悲鳴があがり、誰かが足掻く騒音も増し、その度に血臭が濃くなっていった。あの人間の姿をかたどった生物がどこからか次々と溢れだし、誰かを襲っているようだ。

 真尋の目にすっかり焼き付いた、見知らぬ男と同じ末路を辿る人びと……。

 血と吐瀉物の噎せ返る臭い、老若男女の苦痛な悲鳴、生肉を貪る湿った音。

 この異変のきっかけとも言えそうな謎の地震も、ひっきりなしに起こってはどんどんと近づいてきているようだ。

 衝撃で欠けた壁材が天井から零れ、息苦しさを感じ始める頃には白煙がもうもうと立ち込める。視界が悪くなるなかでも見知らぬひとびとの断末魔は後を絶たず、血臭は濃度をより増して鼻を麻痺させた。

 鼻腔の麻痺が脳にまで達していたのだろうか。

 異常な光景を目の当たりにすると、頭のなかはなにも浮かばなくなるものだったのか――――などと薄く思い始めた頃。

「真尋っ!」

 肩を掴まれて振り向いた先には兄。声と同時に腕を力強く引かれ、息付く間もなく走りだす。

「逃げるぞ! 車まで頑張ってくれ!」

 真尋の腕を掴むその反対側にはみなきもいて、ほとんど同じ状況で慎司にリードされていた。

 混乱の最中から真っ先に脱出したからか、柱や壁面がひび割れた駐車場には誰もいない。しかしモール内の至るところから先ほどまで聴いていた絶叫が反響している様子から、あの惨劇は広い範囲で行われているのだろう。

 やがて慎司の背中越しに、見慣れたナンバーでスカイブルーの軽乗用車が見えてきた。

「ふたりとも、早く乗れ!」

 車まで残り数メートルといったところで、慎司はボトムスのポケットから慌ただしく車のキーを取り出す。

 モールの駐車場出入口からここまで大した距離ではないのに、運動に慣れた慎司ですら肩で息をしていた。真尋と慎司の目が合ったのは、ほんの一瞬。その一瞬で、慎司の瞳は動揺に包まれる。

「みなき?」

 不穏な間が空いた慎司の疑問符を不思議に感じた真尋も、みなきへ目を向ける。しかし。

 モール内を駆け抜けたあのとき、みなきは確かに真尋の隣を走っていたはずだ。だが、いまそこには――――誰もいない。

 あの地獄に巻き込まれたモール内から駐車場出入口まで、距離らしいものはなかった。だとするとはぐれたのは駐車場で……。

 真尋も慎司も同じ考えなのだろう、必死で広い駐車場を見渡してみなきの姿を捜し始めた。誰もいない駐車場から見つけるのに、それほどの時間はかからない。

 モールへの出入口から目と鼻の先、自販機のスペース。陽の光が遮られた駐車場のなかをぼんやり照らすその光を浴びて、みなきは悲鳴を上げる寸前だった。

 なにせすぐ背後から例のが追ってきていて、みなきの腕を掴んで引きずり込まんとしているのだ。

 みなきは足が速くもないし、腕力に自信があるわけでもない。当然、真尋の脚が恐怖で竦んでいる間に、みなきはあっさり囚われる。

 小柄で禿頭、小枝のような手足の化け物はまるで金に群がる小鬼のごとく、みなきの首元へ一直線。彼女の細く白い首が晒され、化け物が凶暴な牙を剥く――――しかし。

 みなきの薔薇のごとき鮮血が散る前に、一迅の風が化け物の身体を攫った。

「なんだお前っ!? 邪魔すんじゃねぇ!」

 キーキーと金属を擦り合わせたような不快極まりない声で喚く化け物の両手を押さえるのは、当然のように風ではなく。

「逃げろ、みなき!」

「しん、じく……」

 先ほどまで真尋のすぐ隣にいたはずの慎司が、小鬼の化け物をしっかと押さえつけていた。鍛え上げられた慎司の膂力をもってしても、抵抗して滅茶苦茶に暴れる小鬼の腕力は一瞬も油断できないものらしい。

「早く行けっ!」

 普段より荒々しい声音で急かす慎司の剣幕に戸惑い、及ぶみなきの足元。

 見つめあった瞬間、彼女は背中を思い切り突き飛ばされたかのように走り出した。慎司から真尋まで現在の距離は、平常時であればそれほど遠くないだろう。だが真尋も慎司も、もちろん当のみなきも。たった十メートルの平坦な空間が、荒れ狂う大海原のように感じていた。

 縺れる両脚を必死に掻き回し、溺れたときのように息を乱して真尋を目指す。

 無事に真尋の元へ辿り着くまで見届けた慎司は気が緩み、小鬼の力に押し負けかけた。

「兄貴っ!」

 思わず手を伸ばした真尋を、しかし慎司が。

「早くいけっっっっっ!」

 小鬼の爪が食い込み、慎司の腕はあちこちで血が溢れて痛々しい。当の小鬼はまだまだ余力があるようで、慎司の身体を弄ぶように化け物じみた爪で引っ掻き回す。

 必死の願いを託されたのだから、躊躇せず逃げ出せばよかったのだろうか――――それとも?

 これほどに愛着、あるいは情というものが邪魔になる瞬間など、もう二度とないことを願いたい。

 小鬼の濁った瞳が、鈍く光ったその瞬間。

 小鬼の長細く汚い腕が瞬く。数瞬ほど遅れて慎司の首が飛んだ。

 血飛沫もまた、呆けたように遅れて飛散。生温かいモノが真尋の頬を濡らし、ひと雫ばかり口に入った。

――――苦い。

 口中に拡がる吐き出しそうな鉄臭さは、しかし眼前の光景と比べると当たり前に霞む。

 残酷さの割に呆気なく感じる、そんな一瞬。

「兄貴……?」

 我ながら間抜けな声だと自覚してなお、唯一の肉親へ声をかける。だが当然のように返事はない。

 真尋の足元に転がる物体は、

 石ころか、運動場に打ち捨てられたサッカーボールのように無造作な姿だ。

 小鬼との激闘と灼熱すら凌駕する痛みなど感じさせない、穏やかな瞳が鏡のように真尋を映している。

 真尋の学校生活を心配して顰める眉、成績がよかった日は自分のことのように破顔していた。

 しかしそんな表情はもう、永遠に見ることはできない。誕生日のお祝いすら――――。

 外出する前の朝の会話すら、遠い昔みたいだ。

「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっ……!!」

 みなきの悲鳴は、まるで硝子越しのようにくぐもって響いていた。


血の味に触れた途端、俺の中で叫んだ。

――――嗚呼。

 これがただの、悪夢だったらよかったのに。

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