第6話

「で?」

 有名チェーン店のカレードリアを口に含んでは、ひっきりなしに繰り広げる慎司の雑談を、真尋のひと声がようやく遮った。

 午前中に慎司の運転する車で家を出てからおよそ三十分間、プレゼントはなにがいいかと質問攻撃。

 本心から特にないと答えたところ、ショッピングモール内を二時間ほどひたすら歩かされて疲労困憊。少し早めの昼食をと、現在に至るわけだ。

――――こんなことなら、適当な品物を告げてさっさと済ませてしまえばよかった……。

 などと後悔しても、後の祭り。

 初めのうちは延長戦でプレゼントの話、いつの間にか逸れて学校生活はどうだと訊ねられた気がする。

 真尋の大きな溜め息などお構いなしで、かれこれ二十分ほどの止む気配のないマシンガントーク……いい加減、奴の銃口を逸らさねば。

「なんだ? 真尋」

 これまで黙ってトマトクリームベースのパスタとエビサラダを交互で口に運んでいた真尋が、なにを思い立って口を開いたのか。

 慎司はカレードリアを大きなスプーンで掬う動作を止めて、話を聴く体勢を見せる。

「兄貴とみなき姉ちゃんの、結婚時期。いつ?」

 なんの脈絡もない突拍子もない話題転換に面食らった慎司は、徐ろにドリンクバーで注いできたホットコーヒーをひと口啜る。慎司が揺らしたカップから、安物コーヒーの酸味と苦味が中途半端な匂いが真尋の鼻を撫でた。

「ばっか。んなすぐできるかっつーの」

 真っ直ぐ見つめる真尋の視線から逃れるかのように、慎司の手は大きなメニュー表へと伸びる。

「向こうの伯父さんたちにもよ、ちゃんとご挨拶しとかなきゃなんないし……それにはいろいろと都合が――――」

 本当の理由を、真尋は知っている。

 メニュー表で隠された顔は、もしかしたら困惑の色でも浮かんでいるのだろうか。あるいは真尋に心を見透かされないように?

――――そんなの、無駄なのにな。

 漏れかけたの誤魔化しか。

 慎司の手はインターホンを鳴らして店員を呼び、追加でフライドポテトとチョリソーのセットを注文した。真尋も便乗してコーンスープを頼み、女性店員が復唱して厨房へ向かう背を見送ってから。

「別にさ、俺のことなんか気にしなくていいよ。チビじゃあるまいし」

――――だからさっさと結婚して、みなき姉ちゃんを手の届かないところへ連れてってくれ。

 喉まで出かかった言葉は、烏龍茶と一緒に呑み込んだ。

「しかしだな……お前も来年は大学受験だし」

 慎司はきっと、思い留まって欲しくて放った言葉だったのだろう。しかし明らかに曇った顔や声が、真尋の苛立ちを高まらせる結果となった。

「俺は大学行かないよ。就職して、一人暮らしする」

「へっ!?」

 慎司が驚くのも無理はない。

 これまで慎司が勧めるままに大学進学を目指してきた真尋の、ここに来て突然の進路変更。

 慎司が訊ねれば具体的な大学名と学部を答え、学校に提出している進路希望表にだって、そっくり同じ内容を記入していた。

 予備校もそのつもりで通っていたわけだし、模試まで受けて勉学に励んでいたのだ。

「新婚夫婦の家にパラサイトするわけないだろ」

 多めに残っているトマトクリームを改めて麺に絡め、フォークの先で厚切りベーコンを突き刺して一緒に楽しむ。

「いくら俺だって空気読むよ」というのは、もっともらしい建前で。

 本音を言えば、ずっと家を出るチャンスは伺っていた。

 とある事件でみなきの両親は、彼女が二十歳のときに鬼籍に入る。

 大好きな家族を一気にふたりも亡くした彼女は意気消沈としていて、見ているだけで痛々しい様子だった。

 そんな彼女を側で支えたい、という慎司の想いは当然かもしれない。慎司に誘われるまま、みなきは結婚を前提として小舅付きの家で同棲をスタートさせた。

 あれからもう五年の歳月が流れ、三人での生活は真尋にもすっかり身に染み付いている。

「いや、でもだな……みなきも一緒に暮らそうって……」

 風を受けた水面のように揺らぐ声は、感情の動揺をそのまま表しているよう。

 真尋の本心など知る由もない慎司にとって、三人の生活は考えるまでもなくもっと長く続くもので。

 みなきの生活にも、結婚した後だって当たり前に真尋が入っている。

 言われなくても知ってるし、真尋の幸せを願い、安定した生活を慮っていることもわかっているつもりだ。

 そうしたふたりからの想いは嬉しくて、でも、だからこそ……

――――重荷、なんて言えるわけないだろ。

 出逢った瞬間から決まっていた失恋。

 覆そうにも揺るぎない愛を湛えた瞳は、真尋の心に突き刺さっては深く深く抉る。

 彼女への密かな想いは、消えるどころか強く色付いていった。

 蒔かれた種は呪い、純潔は枷。ならば――――いっそのこと。

「大好きな兄貴の唯一の肉親だからね」

 吐き捨てた毒が慎司の怒りを買うことは、真尋が強く予測していたことだ。案の定、慎司の声音は珍しく怒気を孕む。

「真尋、お前その捻くれた想像はやめろ。アイツはそんなつもりじゃ――――」

「俺がやなんだよっ!!」

 テーブルを殴りつけた真尋の拳がコップに触れ、残っていた烏龍茶と氷が机上や床に散らばった。店内の暖房で氷は徐々に丸みを強め、烏龍茶の琥珀色と混ざり合う。

 周囲の客も、配膳中の店員も、その場にいる総ての人々が真尋の怒鳴り声から注目。騒ぎを聞きつけてスタッフルームからタオルを持って出てきた店員が、慎司に怪我の有無を確認していた。

 慎司と店員のやり取りは、途切れ途切れに真尋の耳を撫でる。きっと店員から頼まれたのだろう。

「出よう、真尋」

 慎司はそう言って真尋の腕を引き、そそくさと店を後にした。

 店からだいぶ離れても、真尋の腕は解放されない。

 まるで慎司の腕は真尋のを手放すまいと必死で、真尋からしたら痛々しさすら感じる。実際に彼の手は力が篭もりすぎて、掴まれた真尋の腕は痛みと痺れで悲鳴をあげそうだ。

 だが、それでも。

「ほんっと……兄貴の鈍感なとこ、すげー嫌い」

 振り解けない代わりに呟いた言葉は、慎司の耳に届いたのだろうか。風を切る兄の肩が僅かに震えた様子を、真尋は見逃さなかった。

「真尋」

 慎司から声をかけられる頃には外に出ていて、ショッピングモールの巨大な遠景が背後に広がっていた。

 海風が香る公園の煉瓦道には木製のベンチが点在しており、休日なら家族連れやカップルなど、多くの人で賑わっているはずだ。

 しかし平日の、しかもこの強風が身体を煽るほどの寒空の下では、誰も寛ぎたいと思わない。ベンチどころか公園中がひと気のない光景。

「お前が一生懸命に考えた道なら、兄ちゃんはなんだって応援する」

 真尋の両肩を握り締める慎司の手に籠る力は、彼が抱いている感情の強さを、そっくりそのまま表現しているよう。

 閑散とした公園で向き合った兄の瞳は、怒りと悲しみを綯い交ぜにした暗い色に染まっている。両親の葬式ですら見たことのない色味に驚く間もなく、兄の言葉は「でもな」と続いた。

「いっちばん大事なお前に頼ってもらえないのは、俺がいっちばん悲しいことだからな」

「…………」

 茶化すとかはぐはかすとか、普段なら平気な顔でしていたことはできるはずもなく。

 逸らした視線の行方も惑い、弱々しい陽光さえも眩しく感じた。

――――このとき。

「嫌いなんて言ってごめん」って、謝ればよかった。

 俺も兄貴のことが誰よりも大事だって、すぐ言い返すべきだったんだ……だけど。

 その機会が与えられることは――――二度となかった。


 自分の心を守る荊が、兄の言葉や視線、遠くで凪ぐ空と海さえも――――すべてを拒絶する。

 藻掻くほどに、足掻くほどに。

 棘はその身を縛りあげ、痛みとともに熱を与える。

 それは【罪過】という名をもって、いつか真尋の全身を粉々に砕く。

 脚に絡みつく冷たい波は、あの日の残骸か。握り締めていた硝子の欠片は鋭利さを取り戻し、血肉を抉った。

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