第4話

 ――――二月十四日は、俺にとって世界で一番最悪の日に違いない。


 バレンタインデーでチョコが一個も貰えないから、ではない。

 ある意味その理由で正しいのだが……欲しいのは特定の人物からの一個だけ。それも、バリバリの本命。もし貰えるなら、明日死んだって構わないと思えるほどに切望していた。

 その人物から、確かにバレンタインチョコというものを毎年欠かさず貰える。

 あえて強調するが、母親や姉や妹ではない。――――ただし、清々しいほど義理。丁寧な手作りなのに義理だって知っている。

 しかも彼女が本命チョコを渡す現場が自宅なのだから、逃げ場もクソもない。『リア充爆発しろ』の悪態で済ませられたら、どんなに幸せか。


「はい、真尋くん」

 立春が過ぎても、まだ寒さが強い朝。

 上下セットになったスウェットの上から分厚いカーディガンを羽織り、厚手の靴下を二枚重ねで履くという防寒対策を施して自室からリビングへ移動してすぐ。

 優しい笑顔で呼ばれて手渡されたものは、青いリボンと同色ストライプの包装紙で可愛らしく飾られた小ぶりな箱。

 中身はもちろん、義姉お手製のトリュフチョコ。きっと中身の装飾も、『素人の手作り』と『プロの作品』の中間くらいに可愛らしく美しいだろう。

「ありがと……みなき姉ちゃん」

 先週から練習していた【嬉しい】という素振りを完全に消去させた表情を作り込み、何気なく受け取ることに成功した。

 義理チョコであっても義姉――――みなきが試行錯誤を繰り返したチョコは、毎年例外なく美味しい。自分が甘いものしか頭にないただのスイーツ男子とやらであったなら、もっと美味しく胃に収められるのに……と嘆息する真尋のすぐ横で。

「はい、慎司くん」

 同じようにみなきが、真尋の兄へ手渡したもの。

 四隅に赤いリボンがかけられて、オレンジチェックの包装紙で包まれた甘い匂いを漂わせる小箱。リボンや包装紙の色柄以外は、真尋が受け取った物とあまり差異のないそれ。

 しかしあれこそが彼女にとっての【本命】チョコだと、真尋は痛いくらいよく知っている。

「いつもありがとな、みなき」

 彼女の頭を撫でる兄は、いつもの粗野な雰囲気はどこへやら、柔らかい表情と雰囲気を醸し出していた。そんな兄の好意を受け取った義姉の表情も、釣られて柔らかくなっていく。

 漂うチョコの匂いに負けず劣らず、甘ったるい匂いが部屋に満ち始めたことで、真尋はまた盛大な溜め息を募らせた。

 ――――笑顔で見つめ合うふたりを眺めさせられる、こちらの気分にもなれってんだよ……。

 面白くない、と素直な気持ちが真尋の顔に表れたとしても、いまや気に留める者はこの場におらず。

 ならばとテレビのリモコンに手を伸ばし、ボタンで音量を引き上げる。そして咳払いを含めてわざとらしく。

「占いカウントダウン終わっちゃったなー今日の俺は最下位かー超ガッカリー」

 朝のニュース番組に付き物の占いコーナーが終わる時間は、新宿の出版社に勤める義姉のギリギリ出社時間に当たる。

 真尋の思惑通りにみなきが踊らされた。

「え!? やだ、遅刻しちゃう!」

 先ほどの甘ったるい空気など一瞬で吹き飛び、慌ただしく支度を整えに洗面所へ走った。

『先日も都内でまた、全身の血を抜かれる不審死体が発見され、警察が捜査に――――』

 ドライヤーの騒音をバックミュージックに観ていたテレビの番組内容が切り替わり、真尋の正面で朝カレーを頬張っていた慎司の顔つきに変化が生じる。

 みなきと会話していたときの柔和な眉や目尻は、よく研がれた刃物のような鋭さへ。

 間髪入れずに椅子を蹴飛ばしてリビングを飛び出し、自室へと向かった様子が真尋の席からも見えた。

 みなきがドライヤーで髪をブローする音が終わるとすぐ、外出の支度を終えた兄が車のキーを持ち出して、彼女の背中に投げかける。

「送ってく」

 神妙な表情を浮かべた兄の申し出に、しかしすっかりオフィスカジュアルな装いに身を包んだみなきは。

「もう……大丈夫よ、慎司くん。今日は、ね?」

 少し困ったようにそう笑って玄関へ向かい、靴箱から通勤用のシンプルなパンプスを取り出す。みなきが靴を履いて玄関の姿見で身だしなみをチェックするあいだ、慎司はいつもより取り乱していた。

「し、しかしだな」

「いいからこのまま家にいなさい!」

 後を追って靴に手を伸ばし始めた慎司の鼻先に突き付けられた細い指は、研ぎ澄まされた刀のごとく有無を言わせない迫力。

 それに圧倒された慎司が息を呑んだ様子を見計らって、みなきは再びの微笑みを浮かべて指を退いた。

「いってきます!」

 開かれた玄関扉から侵入した目映い朝の光に包まれて、みなきは家を出た。マンションのよくある少し重い玄関扉が、スプリングに合わせてゆっくり閉まる。

 一人でも姦しい彼女がいなくなった室内は、静かすぎるように感じられた。一人で騒ぐテレビでの話題は、もう別のニュースに切り変わっている。

 だが慎司の心を占めるものはなにも変わらず、むしろ募る一方のように弟としては感じられた。

「本当にいいの? 昨夜もみたいだよ」

 濃紺のストレートジーンズと白いカッターシャツの上に分厚いコートを着込み、手にした車のキーを砕かん勢いで握り込める兄の背中に切り出した。

 しかし質問した当人は、彼の答えを一字一句、違わぬことなく予知している。質問自体は単なる嫌味に過ぎない。

「帰りは迎えに行くさ。あれは一度言い出したら聞かん」

 大きな嘆息。

 握りこんでいた車のキーをソファに投げ捨て、面倒くさそうにコートも脱ぐ兄の背は、【自分にはなにもできない】というもどかしさと負い目を色濃く描いている。

 その感情の根源をよく知っている真尋としては、義姉も兄も同じくらいと思っていた。

「大変だねー、ガンコなお嫁さんを持つと」

 思い切った皮肉を込めた冗談は、しかし人のよすぎる慎司に通用するはずもない。

「バカいえ! まだ嫁さんじゃねぇ!」

 いつかの海岸で見た、夕焼けよりも鮮やかな真っ赤に染まった兄の顔。

 恋愛ごとに疎い兄の表情は日を追うごとに、みなきとの出逢いから様変わりしていった。みなきの表情もまた、どんどん深いものへと変わっていった。

、ね」

 胸の内に秘めるものを封じ込めるべく、兄のマグカップに残っている冷めたコーヒーを奪って干す。

 兄好みの強い酸味が口中に押し入り、真尋の顔が僅かに歪んだ。

 ――――本当に……バカだよ。兄貴も、みなき姉ちゃんも。

 呑み込んだ言葉は、それこそたくさんある。しかし真尋に吐き出す資格など……もうない。

 いや、最初からあるなどと思い上がっていない。

「っ! いいから、さっさと出かけるぞっ」

 慎司は弟の真意を知らず茶化された恥を誤魔化すべく、やや理不尽に真尋の支度を急かし始める。

 同じ中学で出逢った慎司とみなきは、周囲が呆れるほどにお互いのことしか見えていなかった。堅物すぎる慎司はみなき以外の女に興味はなかったし、みなきも彼以外の男に目移りすることはない。

 恥ずかしいくらい、憎たらしいくらいの美しい相思相愛。

 でも、だからこそ。

「別に……わざわざ有給なんぞ取ってまで……」

 文句を言いつつ、背中を押されるがままに洗面所へ進む。

 数日前に突然、兄がこの日に有給を取ったからお前の学校にも休みの連絡しておくぞ、と言い出した。

 高校受験の年以外では毎年の恒例だったが、まさかまだ続けるつもりだとは真尋の予想外だ。

 てっきり中二で卒業のイベントだと思っていたのに……。

 去年は慎司が忙しかったようでみなきの手作りケーキだけで済み、内心でほっとしていた。

 この年頃の少年にとっては、それさえも擽ったくて煩わしい。同性の兄弟なら、少しは理解できる気持ちであってもらいたいものだ。

 そんな弟の本音を感じ取ったように、慎司の手は真尋の頭を乱暴に引っ掻き回す。

「オレがしてやりたいんだよっ! 弟ならたまにゃ兄貴のワガママに付き合え」

 十歳近く歳の離れた兄の手は分厚くて、眼差しと同じく父のような頼もしさと温かさを帯びていた。

 両親を不慮の事故で亡くしてから十年間も養ってもらった恩義からか、兄のこうした強引な誘いも、真尋には断りづらい。

「そのワガママのためだけに、わざわざ学校休んだ弟の身にもなってよ」

 とは口にするものの。

 歯磨きの後に身につけた衣服は黒い学ランではなく、ラフなシャツとチノパン。使い古しのボディバッグに財布と携帯、ハンカチやちり紙を詰める真尋の背後で、慎司が豪快に笑った。

「来年は絶対やらん。受験シーズンだからな」

「やられたらはっ倒す」という弟からの切実な視線での訴えを華麗に無視する慎司が、唐突に表情を改めた。

「十七歳の誕生日おめでとう、真尋」

 みなきへ向ける優しさとは少し別種の、しかし同等以上に溢れる愛情が痛い。

 兄がロクでなしで意地悪で女たらしだったなら――――いっそ呪って不幸を願ったのに。

 中学三年生の兄が自宅に同級生のみなきを連れてきた日を思い返し、歯を食いしばる。

 初恋というものは、何歳であっても叶わないものらしい。

 憎たらしいはずの恋敵は、よりにもよって大好きな唯一の家族。

 並以上の苦労をかけた分より多く幸せになって欲しいはずの家族から、どんな形であれその幸せを奪うなど……できるはずもない。

 しかしそれ以前に、ふたりの間に立ち入る隙など見えないのだ。

「……ありがと、兄貴」


 仮面の感情、偽りの微笑み、塗り固めた愛情。

 自分のなかの汚くて暗いものは、海の波に攫われて削られてしまえばいいのに。

 ――――本当に……二月十四日は、世界で一番大っ嫌いな日だ。

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