第2話

 真っ白な世界。

 視覚によるものなのか、それとも脳が創り出した幻想か。

 彼にはまだ、判別できない。

 壁も床もなにもない空間に浮いているような、はたまた水底に沈んでいるかのような、奇妙な揺らぎが全身を隙間なく包み込んでいる。

 そこから徐々に聴覚の覚醒が始まり、間髪入れず布団の感触と温かみを手の甲や指の腹で確かめた。

 そうこうしているうちに何種類ものスパイスを複雑に組み合わせて効かせた匂いが、鼻腔をツンと撫で回す。おそらくカレーのルーを大鍋で煮込んでいる匂いだろう。そこに混ざって、炊きたて白米の甘みが強めの匂いも感じる。

 陽の光が眩しくて未だ瞼を閉じたままだが、現在は間違いなく朝の時間。

――――朝からカレーを食うのなんて、うちじゃ兄貴くらいだ……。

 まだ目覚めきっていない頭が、兄が朝から大盛りカレーライスを頬張る笑顔を想起させた。

――――『「みなきの作ってくれるカレーが一番うめぇんだよな、これが!」』

 そんな清々しさすら感じる惚気を盛り込みながら口いっぱいにカレーを含む兄の豪快な姿の隣で、彼女はいつも微笑んでいた。幸せいっぱいのふたりの姿を、食卓の向かい側で彼は半分呆れながら眺める。

 苦労をかけた兄と、が幸せな様子をすぐ側で見守れる――――それは弟にとって、一番の幸福なはずだ。なのに。

 彼の心に渦巻く感情には、なんらかの仄暗いノイズが混じっている。

 その正体がなんなのか、彼は知っていた。

 知っているけれど、

 兄たちの幸せを、心から祝福している……という【嘘の顔】。

 本当は――――

 ふと訪れた目尻の違和感が覚醒を本格的に促し、現実に戻った彼は首を傾けた。

 目尻を濡らすものを彼女に見られたくないという、くだらない男の意地みたいなものだ。

 しかし。

 就寝直前まで隣にいたはずの存在が消えていることに気付き、まるでバネ仕掛けのように勢いよく身体を起こす。

 まとわりついていた毛布を蹴散らして、寝室のドアを殴るように開け放った。短い廊下を大股のほんの三歩ほどで駆け抜ければ、匂いの元があるはずの八畳のダイニングキッチンだ。

 キッチンへ続くドアに手が届いて開放されるまでのあいだ、心臓の鼓動が異様に速まり、脳内では嫌な想像しか作れなくなる。

 もし彼女がどうしよう。

 キッチンにもトイレにも浴室にも、この家のどこにも姿が見えなくて、例えばベランダの遥か下に広がるコンクリートの駐車場に脳髄の飛び散った骸が――――

 だがそんな不安も、キッチンから覗いた微笑みと底抜けに明るい声が、見事に一瞬で打ち消した。

「おはよう」

 腰まで届く栗色の長い髪を後ろでひとつに束ね、清潔感のある白いエプロンの下は、飾り気のない薄桃色のクルーネックシャツと、焦げ茶色のフレアスカート。

 首元ではシルバーの華奢なネックレスが、とうに喪われた愛の証として優しい光を放っている。

「どうしたの? そんなに青い顔して……」

 彼女は髪と同色の柔らかそうな眉根を歪ませ、エプロンで濡れた手を拭いながら駆け寄ってきた。

 彼の額を撫でる仕草は嫋やかで、水仕事のために服の袖を捲った腕は驚くほどに白くてか細い。

 いまにも折れてしまいそうな指が、彼の額にそっと触れた。

 飾り気のない黒い猫っ毛のひと束が汗で額に張り付き、頬骨付近まで汗を伝染させていることに、ここでようやく気づく。

「なにか怖い夢でも見た?」

 彼女の面倒見のよさから溢れる心配が、彼の心臓を少しずつ落ち着かせていく。汗を拭ってくれる彼女の指が触れた肌の先から、冷静が滲み始めた。

「っ……みな……」

『みなき姉ちゃん』と、高遠真尋素の自分が叫びかけた瞬間を見計らうかのごとく。

「意外と怖がりだよね、くんって」

 微笑む彼女はやはりいじらしく、しかし大人の女性豊かな余裕があった。

 ひたり、と。

 触れる彼女の指は徐々に様相を変え、『家族の異変を心配する女の子』から【好きな男を想う女】になっていく。

 伝うは耳の裏から首筋。

 少し膨らんだ喉仏をゆっくり通過し、痩せてはっきり浮いた鎖骨を丁寧になぞる。淫らで流麗な指は、彼の胸へと迫っていった。

 開襟シャツの隙間から覗く彼の胸はごく薄く、些か年頃らしい頼りなさを内包している。そこで彼女の指が止まりかけた。

 彼女が感じかけたであろう【違和】を打ち消すように、彼の腕は小さな肩を乱暴に抱き締める。

 そんな彼に求められた、と勘違いしたのだろうか。

「慎司くんったら……」

 明らかにうっとりした甘い声が、愛する男の名を呼ぶ。

――――違う……俺は兄貴じゃない、真尋まひろだ!

 子供みたいにヒステリックで、しかし当たり前の否定を、しかし彼は思いっきり呑み込んで胸のうちに秘め込んだ。

 彼の想いとは裏腹に、彼女の唇は【慎司】を求めて貪り尽くす。

 ミント系の爽やかな味わいが絡みつき、篭絡した細い腰を抱きとめて捕えた。

 いままさに彼女の中では、自分を抱く男が思っている相手と違うなどという葛藤はないはずだ。

 自分の唇を食み、身体に触れる男は世界でいちばん愛しているひとなのだと、文字通り妄信している。

 しかし確実に言えることは、いくつもあった。

 彼女が想い人――――本物の『高遠たかとお慎司』と肌を重ねる日は、二度とない。

 彼女が眼前の『高遠真尋』をその目に映すことはなく、世界はいつだって歪に廻る。

杠葉ゆずりはみなき』が心の歳を重ねることも、もう無いのかもしれない。

 偽りの【幸福】に身を委ね、依存し合う彼らの関係は――――姉弟でもなく、従姉弟でもなく、友人でもなく、恋人ですらない。


 恐ろしく滑稽な家庭像を築き始めた三ヵ月前は、よもやこんなに続くとは想像できなかったものだ。

 少なくとも自分が真っ先に音を上げるものだと、真尋自身が悲観的になっていたくらい。

 実際、先ほどのように彼女が目の前から消える想像をしない日はなく、気の休まらない日々が続いていた。

 それでもこの生活を手離したくないと足掻くのは、きっと……。

 朝から多めに盛られた手作りカレーライスを頬張りながら、ダイニングテーブルの向こう側で同じものを子リスのように食べる彼女を見遣った。

 目が合って、照れ臭そうに頬を染める彼女の表情や仕草は、可愛らしさと美しさを絶妙に同居させている。

「美味しい? 慎司くん」

「美味しくできたかな?」という不安が僅か、残りは「美味しいって言ってもらいたい」という期待が大きそうだ。

 簡単に見透かせるその単純さが――――と深い思考へ入る前に。

「いつも通り、バッチリ美味いよ」

 らしくない少し粗野な言葉遣いが、口からぎこちなく繰り出された。

 筋肉質でいかにもな兄と比べて、真尋は全体的に線が細い。加えて兄はアウトドア派、真尋は見た目通りのインドア派。

 正反対の人間を演じるには、どうも無理がありすぎる素質だ。

 しかしそれでも彼女は、真尋を慎司として扱い続ける。

 そうしなくては、彼女は自分自身を保つことができない。

 覚醒直前の奇妙な世界のように、足下の覚束無い世界に浸り続けるのだ。

――――俺は今日も兄貴のフリをして、兄貴の代わりに愛される。日毎に塗り重ねた罪過が、いつか……俺自身を潰していく想像に身を焦がしながら。

 杠葉みなきは兄・慎司の高校時代の同級生であり、婚約者。つまり弟の真尋からすれば、義理の姉となる予定のひとだった。


 なぜその女とふたりきりで同居しているのか。

 すべての終わりと始まりはやはり、いまから三ヵ月前に遡る――――。

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