第七章 與呂伎(よろぎ)

●悠久の時●

一 雨の誓い


 しとしとと雨が降っている。

 太陽の国ともてはやされる姫比きび国にも、ここ数日は、春らしい温かな雨が大地を濡らしている。

 その雨の中、姫比津彦きびつひこ阿知宮あちみやの西にある、小高い丘にやって来た。編み笠に指をかけて、春雨に霞む丘を見上げる。

 萌え始めたばかりの若草と低木に覆われたこの丘は、先々代の姫比王、紫帥しすいの陵墓だ。


「ここで待て」


 供をして来た従者にそう命じて馬の手綱を預けると、姫比津彦はゆっくりと丘の斜面を登った。

 丘の上に立つと、細長い島に囲まれた穏やかな穴海あなうみ湾がよく見える。雨に煙る内海はとても静かだ。海も、島々を覆う木々も、みな灰青色に沈んでいる。

 かつての王は、この丘から姫比の行く末を眺めているのだろうか────と、少々感傷的な気分になりながら、姫比津彦は低木の茂みをかきわけた。

 茂みの向こうは平らな広場になっていて、地中から生えた墓標のような大きな岩が五つほどある。その岩の一つに、うずくまる人影が見えた。雨に濡れることも厭わずに、ただじっと座っている。


「やはりここに居たのか、鷹弥」


 姫比津彦は、彼の少し手前で足を止めた。不用意に近づくのは得策ではない。そう感じるほど、彼の全身からは人を拒む波動が滲み出ていた。


「一人で帰って来たかと思えば、仕事もせずに毎日のように父君の墓参りか? そろそろ私に、何か一言あっても良いのではないか? そなたはどうしたいんだ?」


 声をかけても、鷹弥は反応しない。雨の中、ただじっと虚空を見つめている。

 ふぅっ、と姫比津彦は嘆息した。そして、まるで出来の悪い弟でも見るように、腰に手を当てて鷹弥を見下ろした。


「────どうしたい、と尋ねはしたが、今から王位を返せと言われても、少々困るぞ。そなたが都萬つま国へ行っている間に、私は正式に王位を継ぎ、周辺国へも使者を出した。姫比国が変わらず瀬戸内の制海権を握っているのだと、早めに知らしめる必要があったからな」


 そう言って、姫比津彦は鷹弥の答えを待った。

 雨の音に混じって、くぐもった声が聞こえた気がした。


「ん、何か言ったか?」

「らん……王位など、いらん、と言ったんだ」


 鷹弥はほんの少しだけ顔を上げ、面倒臭そうに姫比津彦の方を向いた。しかし、瞳は変わらず虚ろなままだ。


(これが、私に名を名乗れと詰め寄った男か? ただの腑抜けではないか)


 姫比津彦の胸に、怒りが湧いた。

 都萬国から戻った鷹弥は、哀れなほど憔悴していた。余程の事があったのだろうと、好きにさせておいた。だが、もう我慢の限界だった。

 姫比津彦はつかつかと歩み寄ると、鷹弥の胸倉をつかみ立ち上がらせた。


「いい加減にしろ! 何があったかなんて聞いてやらぬぞ! あの娘が今ここに居たら、きっと私と同じことをするだろう」


 そう言うなり、手を振り上げて鷹弥の頬を叩いた。手のひらが熱く痛むほど、強烈な平手打ちだった。


「ううっ……」


 鷹弥は呻いて、血の混じった唾を吐いた。


「そなたを都萬国へ送り出した時、私はそなたが帰って来るとは思わなかった。そなたがこれからの姫比にとって……いや、宇良うらと入れ替わった私にとって、必要な男だとわかっていたのに、それでも私はそなたを送り出した。この国から自由にしてやりたかったからだ。だが、そなたは帰って来た。どういうつもりで戻って来たのか知らぬが、この国に居ると決めたのなら、それ相応の仕事はしてもらうぞ。今は国の存亡がかかった大事な時だ、いつまでも腐っているようなら────」


 胸倉をつかんだ手に、再び力を込める。もう一発殴ろうと手を振り上げた時、


「……気持ちは、変わってない」


 酷く掠れた声がした。胸倉をつかんでいた姫比津彦の拳に、鷹弥の手が重なる。

 ゆっくりと瞼を開く鷹弥を、姫比津彦は厳しい目で見下ろした。


「変わってない?」

「そうだ。俺は、王位などいらない」


 鷹弥は、雨と血に濡れた口元を手で拭った。


「お前が……姫比を治める良き王となるなら、影からお前を支えよう。我が父、紫帥しすい王に誓って……俺は、その為に戻って来た」


 濡れた前髪の間から、真っ直ぐ姫比津彦を見つめる鷹弥の目は、もう虚ろではなかった。黒曜石のような硬質な光を取り戻している。

 姫比津彦は、鷹弥の決意に胸を衝かれた。


「よく、言ってくれた」


 姫比津彦は笑みを浮かべて、鷹弥の衣から手を放した。

 宇良の身代わりとなった自分を、誰も知らない。この孤独は一生続くと覚悟していた。自分で願った事だが、常に不安が付きまとっていた。鷹弥の言葉は、そんな姫比津彦の不安を和らげてくれた。


「私も、伯父上に誓おう。この手にかけた太丹ふとには、伯父上への供物。この後は紫帥王を父と思い、鷹弥と共に、この姫比国を守って見せましょう!」


 そぼ降る雨の中、紫帥王の墓標のような五つの岩に向かって、姫比津彦は高らかに宣言した。そしてすぐさま、鷹弥に厳しい目を向ける。


「私が宇良と入れ替わった事は、そなたと姫比の巫女しか知らない。私は太丹王に仕えていた者たちを全て廃し、信頼できる者を集め、急ぎ新しい国づくりを始めねばならぬ────が、まぁ、まずは阿知宮へ帰り、着替えるのが先だな。帰るぞ、鷹弥」


 濡れそぼった鷹弥を促し、姫比津彦は踵を返した。


「……ああ」


 丘を下り始めた姫比津彦に続き、鷹弥はゆっくりと歩き出した。

 鷹弥の心を苛み続けている過去の罪────自分のせいで、アカルの故郷が燃えてしまったという事実は、一生消えることはないだろう。だが、そんな自分を憐れむのはもう止めた。


(この姫比を守り、北海ほっかい沿岸諸国との融和を目指す。俺は……何があってもお前の敵にはならない。だから、どうか、許してくれ……)


 天を仰いだ鷹弥の上に、優しい雨が降り続いた。

  

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