第七章 與呂伎(よろぎ)
●悠久の時●
一 雨の誓い
しとしとと雨が降っている。
太陽の国ともてはやされる
その雨の中、
萌え始めたばかりの若草と低木に覆われたこの丘は、先々代の姫比王、
「ここで待て」
供をして来た従者にそう命じて馬の手綱を預けると、姫比津彦はゆっくりと丘の斜面を登った。
丘の上に立つと、細長い島に囲まれた穏やかな
かつての王は、この丘から姫比の行く末を眺めているのだろうか────と、少々感傷的な気分になりながら、姫比津彦は低木の茂みをかきわけた。
茂みの向こうは平らな広場になっていて、地中から生えた墓標のような大きな岩が五つほどある。その岩の一つに、うずくまる人影が見えた。雨に濡れることも厭わずに、ただじっと座っている。
「やはりここに居たのか、鷹弥」
姫比津彦は、彼の少し手前で足を止めた。不用意に近づくのは得策ではない。そう感じるほど、彼の全身からは人を拒む波動が滲み出ていた。
「一人で帰って来たかと思えば、仕事もせずに毎日のように父君の墓参りか? そろそろ私に、何か一言あっても良いのではないか? そなたはどうしたいんだ?」
声をかけても、鷹弥は反応しない。雨の中、ただじっと虚空を見つめている。
ふぅっ、と姫比津彦は嘆息した。そして、まるで出来の悪い弟でも見るように、腰に手を当てて鷹弥を見下ろした。
「────どうしたい、と尋ねはしたが、今から王位を返せと言われても、少々困るぞ。そなたが
そう言って、姫比津彦は鷹弥の答えを待った。
雨の音に混じって、くぐもった声が聞こえた気がした。
「ん、何か言ったか?」
「らん……王位など、いらん、と言ったんだ」
鷹弥はほんの少しだけ顔を上げ、面倒臭そうに姫比津彦の方を向いた。しかし、瞳は変わらず虚ろなままだ。
(これが、私に名を名乗れと詰め寄った男か? ただの腑抜けではないか)
姫比津彦の胸に、怒りが湧いた。
都萬国から戻った鷹弥は、哀れなほど憔悴していた。余程の事があったのだろうと、好きにさせておいた。だが、もう我慢の限界だった。
姫比津彦はつかつかと歩み寄ると、鷹弥の胸倉をつかみ立ち上がらせた。
「いい加減にしろ! 何があったかなんて聞いてやらぬぞ! あの娘が今ここに居たら、きっと私と同じことをするだろう」
そう言うなり、手を振り上げて鷹弥の頬を叩いた。手のひらが熱く痛むほど、強烈な平手打ちだった。
「ううっ……」
鷹弥は呻いて、血の混じった唾を吐いた。
「そなたを都萬国へ送り出した時、私はそなたが帰って来るとは思わなかった。そなたがこれからの姫比にとって……いや、
胸倉をつかんだ手に、再び力を込める。もう一発殴ろうと手を振り上げた時、
「……気持ちは、変わってない」
酷く掠れた声がした。胸倉をつかんでいた姫比津彦の拳に、鷹弥の手が重なる。
ゆっくりと瞼を開く鷹弥を、姫比津彦は厳しい目で見下ろした。
「変わってない?」
「そうだ。俺は、王位などいらない」
鷹弥は、雨と血に濡れた口元を手で拭った。
「お前が……姫比を治める良き王となるなら、影からお前を支えよう。我が父、
濡れた前髪の間から、真っ直ぐ姫比津彦を見つめる鷹弥の目は、もう虚ろではなかった。黒曜石のような硬質な光を取り戻している。
姫比津彦は、鷹弥の決意に胸を衝かれた。
「よく、言ってくれた」
姫比津彦は笑みを浮かべて、鷹弥の衣から手を放した。
宇良の身代わりとなった自分を、誰も知らない。この孤独は一生続くと覚悟していた。自分で願った事だが、常に不安が付きまとっていた。鷹弥の言葉は、そんな姫比津彦の不安を和らげてくれた。
「私も、伯父上に誓おう。この手にかけた
そぼ降る雨の中、紫帥王の墓標のような五つの岩に向かって、姫比津彦は高らかに宣言した。そしてすぐさま、鷹弥に厳しい目を向ける。
「私が宇良と入れ替わった事は、そなたと姫比の巫女しか知らない。私は太丹王に仕えていた者たちを全て廃し、信頼できる者を集め、急ぎ新しい国づくりを始めねばならぬ────が、まぁ、まずは阿知宮へ帰り、着替えるのが先だな。帰るぞ、鷹弥」
濡れそぼった鷹弥を促し、姫比津彦は踵を返した。
「……ああ」
丘を下り始めた姫比津彦に続き、鷹弥はゆっくりと歩き出した。
鷹弥の心を苛み続けている過去の罪────自分のせいで、アカルの故郷が燃えてしまったという事実は、一生消えることはないだろう。だが、そんな自分を憐れむのはもう止めた。
(この姫比を守り、
天を仰いだ鷹弥の上に、優しい雨が降り続いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます