第五章 都萬国(前編)

●魔物●

一 古の壺


 白い息を吐きながら、十世とよはひとり、夜明けを待っていた。

 凍えるような暁闇ぎょうあんの刻。林に囲まれた神殿の東端に、人の気配はない。

 都萬つま国の西都さいとは川に挟まれた台地上にあり、十世のいる遥拝殿から東を望めば、河口にある東都とうとや、そこから横に広がる海岸線を見渡すことが出来る。


 今はまだ、暗い海と空には境目がない。

 辛抱強く待っていると、やがて闇は薄くなり、海と空との狭間に筆で描いたような細い光が差しはじめる。

 その光はすぐに四方に弾け、空と大地を明るく照らし始める。


(────今日も、穏やかに明けたわ)


 いつものように最初の祈りを日の神に捧げ、ホッと息を吐く。

 毎朝の祈りは大切な仕事だ。十世は【日の巫女】の位を継いだ時から、この仕事を一日も欠かしたことはない。けれど、気を抜くと、彼女の心はすぐに別の場所へ彷徨さまよい出てしまう。


 依利比古いりひこ姫比きびへ向かってから、もうひと月が過ぎている。なのに、連絡用につけた使鬼しきからは未だに何の連絡もない。

 西都に住まう者たちは、誰もそのことに関心がない。けれど、十世にとって依利比古の安否は一大事だ。何もわからないせいで、この所ずっと心が苛立っている。彼の身を案じるあまり、ろくに眠れないせいだ。


(あの役立たず! いったい何をしているのかしら。壺から解き放たれたのをいいことに、役目を忘れているのではないかしら? それとも……まさか、依利比古さまの身に何かあったのでは……)


 頭に浮かんできた悪い考えを振り切るように、十世は激しく首を振った。


(いいえ、そんな筈はない。依利比古さまは無事に帰還されると卜占ぼくせんにも出ていた。連絡が遅れているだけよ。きっと大丈夫)


 十世は自分をなだめながら、神殿へ戻ろうと朝日に背を向けた。

 その時、ヒュン、と十世の目の前をかすめるように、白い小鳥が飛び込んで来た。


「お前は……」


 その小鳥は、十世が捕らえた鳥の化生けしょうに違いない。それなのに、小鳥は揶揄からかうように十世の周りをぐるぐる飛び回っている。


葉月はづき! 今すぐ下りてきて報告なさい!」


 ピシャリと言い放つと、小鳥はようやく十世の目の前でポン、と少年の姿に変化へんげした。

 その姿を見て、十世は息を呑んだ。本来ならば、額の呪符に隠れて見えないはずの目が、真っすぐ自分を見つめている。

 十世は、一歩後退った。


(術が……破られている。それに、この妖はこんな風だったかしら?)


 葉月の姿にかすかな違和感を覚える。白かったはずの髪は、前髪の部分が薄青く染まり、その奥に潜む目も青く輝いている。

 じっと見ていると、葉月が笑った。


『依利比古さまがお帰りになったよ。西都には明日にでも伺うと伝えてくれってさ』


 葉月の言葉で、十世の警戒心は吹き飛んだ。


「い、依利比古さまが……お帰りになった? どうして、もっと早く知らせに来なかったのよ! 一日でも前に知らせてくれていたら、東都までお迎えに行けたのに!」


 十世が怒っても、葉月は暢気のんきに空を眺めて小さく肩をすくめる。


『ボクの呪符が外された事より、出迎えの話? だからアンタはその程度なんだよ』


「何ですって?」

 十世は葉月を睨みつけた。


『けど、安心していいよ。呪符がなくなっても、ボクは依利比古さまが好きだからね。このまま力を貸してあげる。ああ、言っとくけど、アンタの命令はもう聞かないよ。嫌いだったんだよね、アンタの気配。だからアカルには感謝してるんだ』


「あかる? 誰なの?」


『姫比で会った娘さ。巫女なのかなぁ? とにかく依利比古さまがお気に入りでさ、わざわざ姫比から攫って来たんだよ。たぶん依利比古さまは、あの娘を自分の巫女にするつもりだと思うよ────あれぇ? 顔色が悪いね。どうしたの?』


 青ざめる十世に、葉月は無邪気に笑いかける。


『そうだ、最後だからこれも教えてあげようかな。依利比古さまの話だとね、アカルは西伯さいはくの姫の呪いを解いた術者なんだって。アンタとも知らない仲じゃなかったってことだよね?』


 クスクスと楽しそうに笑う葉月。

 十世の瞳に憎悪の火が灯った。


「なんですって……千代姫の呪いを返し、私に怪我を負わせた術者が、依利比古さまの巫女になる? 冗談じゃないわ! そんなの、絶対に許さない!」


 低い声でそう呟くと、十世は葉月を蹴散らすように駆け出した。

 遥拝殿を出て林の中を走り、一直線に神殿を目指した。


(許さない、許さない、許さない)


 呪いのような思念が、頭の中に溢れてゆく。

 空に向かって伸びる楼閣のような神殿に戻るなり、十世は祭殿の扉に手を伸ばした。


「十世さま、朝餉の支度が出来ておりますが……きゃあ!」


 目の前に現れた女官を突き飛ばすようにして祭殿へ入ると、十世は大きな音を立てて扉を閉ざした。そのまま肩で息をしながら、壁際に置かれた棚に近づいてゆく。

 そこに並ぶ壺には、かつて捕らえた化生けしょうが閉じ込めてある。

 十世は片っ端からその壺の蓋を開けた。

 白い煙が立ち昇り、額に呪符を張り付けた使鬼たちが現れると、十世は即座に命令を下した。


「依利比古さまが連れて来たあかるという娘を探して! お前……いいえ、もう誰でもいいわ。誰でも良いから、あかるを殺しなさい!」


 使鬼たちが消えてしまうと、十世はその場にくずおれた。


「弱い……使えないモノばかりじゃない。そうよ、千代姫を呪うのに、一番力のある化生を使ってしまったのだもの」


 悔しさに涙が込み上げてくる。

 その時、まるで神託のようなひらめきが降りて来た。

 十世の脳裏に、地下蔵の様子が浮かんだのだ。


(そうだわ……)


 十世が捕らえた使鬼は、今ので全部だ。けれど、古い壺ならば他にもある。



 ────三年前、十世たちは迫りくる南那国ななこくの軍勢から逃れようと、住み慣れた巫女宮、日輪殿にちりんでんを捨てた。

 逃げ出す時に巫女たちが運び出した古い壺。先代の【日の巫女】さまや、その他の巫女さまたちから受け継いだ壺が、この都萬国の神殿に安置してある。

 十世は跳ね起きると、祭壇の下の床板を外して地下へと降りて行った。

 軋む木の梯子はしごを下りると、湿気た土の匂いがした。

 この地下蔵に入るのは三年ぶりだ。灯明皿をかざして見ると、床や壁からは木の根のようなものが飛び出して、並べておいたはずの古い壺は散乱し壊れていた。


(何だか酷い有様ね。まるで盗賊に荒らされたみたい……)


 辛抱強く見回すと、ひとつだけきれいに立っている壺があった。黒漆が塗られているのか、灯明皿の僅かな光に、てらてらと光を反射している。

 十世は黒い壺に駆け寄ると、迷わず手に取った。蓋には二重に呪符が張り付けてあったが、躊躇などしなかった。

 ベリッと無造作に呪符を剥がし、木の蓋をねじ開ける。


 他人が捕らえた使鬼は、自分の血で従えさせねばならない。

 使鬼が姿を現したらすぐに血を与えようと、目の高さに構えていた小刀を、十世は取り落とした。指先から力が抜けてしまったのだ。

 敷石の床に落ちた小刀が、カラン、と乾いた音をたてる。

 黒光りする古い壺からは、尋常でない煙が立ち昇っていた。どんどん大きくなったその煙が、やがて不思議な形にまとまり始める。

 他の使鬼たちのような人型ではない。細長い本体と、そこから伸びる無数の根のようなものが、ざわざわと蠢いている。


「ひっ……」


 十世の口から、悲鳴にもならない声が漏れた。

 自分が、開けてはならないものを開けてしまったのだとわかった。

 壺から出た異形のモノは、尻餅をついた十世を嘲笑うようにふわりと上昇し、祭壇下の出口から外へ出て行ってしまった。


 〇     〇


(まだ夜が明けたばかりだというのに……)


 いつもより早く目覚めてしまった月弓つきゆみは、二度寝する気にもならず、寝床から起き上がった。手早く身繕いをして、手焙り火鉢の火をおこして指先を温める。

 今朝は特別寒い訳でもないのに、ずっと指先が震えている。火で温めても震えは止まらない。体の異変はそれだけではなかった。目覚めてからずっと胸の動悸が収まらない。


「何だろう、この動悸は」


 恐ろしいような、嬉しいような、判別しがたい感情が渦巻いている。

 しばらくすると、ゴォーっと風の唸りに似た音が聞こえてきて、月弓の指先の震えが強くなった。


(何か……来る!)


 とても座ってなど居られず、月弓は戸を開けて外へ出た。

 振り仰いだ払暁ふつぎょうの空に、のたうつ蛇のような姿が浮かんでいた。体から木の根のようなものが生えていて、月弓にはそれが翼のように見えた。


「翼のある……蛇神か?」


 月弓は、上空に浮かぶ黒い蛇に目を奪われた。

 恐れと共に、歓喜の感情が湧き上がってくる。

 引き寄せられるように走り出し、よろめいて膝をついても、魅入られたように空に浮かぶ蛇神から目が離せない。

 月弓が空に手を伸ばすと、空でのたうっていた黒い蛇が、スーッと引き寄せられるように下りてくる。

 伸ばした指先から腕へ絡みつくように、黒い煙と化した蛇神がゆるゆると巻き付いてくる。

 心の内と外が、ざわざわとせめぎ合い、体がビクッと反り返るように硬直した瞬間、月弓は意識を手放した。


  

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