第五章 都萬国(前編)
●魔物●
一 古の壺
白い息を吐きながら、
凍えるような
今はまだ、暗い海と空には境目がない。
辛抱強く待っていると、やがて闇は薄くなり、海と空との狭間に筆で描いたような細い光が差しはじめる。
その光はすぐに四方に弾け、空と大地を明るく照らし始める。
(────今日も、穏やかに明けたわ)
いつものように最初の祈りを日の神に捧げ、ホッと息を吐く。
毎朝の祈りは大切な仕事だ。十世は【日の巫女】の位を継いだ時から、この仕事を一日も欠かしたことはない。けれど、気を抜くと、彼女の心はすぐに別の場所へ
西都に住まう者たちは、誰もそのことに関心がない。けれど、十世にとって依利比古の安否は一大事だ。何もわからないせいで、この所ずっと心が苛立っている。彼の身を案じるあまり、ろくに眠れないせいだ。
(あの役立たず! いったい何をしているのかしら。壺から解き放たれたのをいいことに、役目を忘れているのではないかしら? それとも……まさか、依利比古さまの身に何かあったのでは……)
頭に浮かんできた悪い考えを振り切るように、十世は激しく首を振った。
(いいえ、そんな筈はない。依利比古さまは無事に帰還されると
十世は自分を
その時、ヒュン、と十世の目の前をかすめるように、白い小鳥が飛び込んで来た。
「お前は……」
その小鳥は、十世が捕らえた鳥の
「
ピシャリと言い放つと、小鳥はようやく十世の目の前でポン、と少年の姿に
その姿を見て、十世は息を呑んだ。本来ならば、額の呪符に隠れて見えないはずの目が、真っすぐ自分を見つめている。
十世は、一歩後退った。
(術が……破られている。それに、この妖はこんな風だったかしら?)
葉月の姿にかすかな違和感を覚える。白かったはずの髪は、前髪の部分が薄青く染まり、その奥に潜む目も青く輝いている。
じっと見ていると、葉月が笑った。
『依利比古さまがお帰りになったよ。西都には明日にでも伺うと伝えてくれってさ』
葉月の言葉で、十世の警戒心は吹き飛んだ。
「い、依利比古さまが……お帰りになった? どうして、もっと早く知らせに来なかったのよ! 一日でも前に知らせてくれていたら、東都までお迎えに行けたのに!」
十世が怒っても、葉月は
『ボクの呪符が外された事より、出迎えの話? だからアンタはその程度なんだよ』
「何ですって?」
十世は葉月を睨みつけた。
『けど、安心していいよ。呪符がなくなっても、ボクは依利比古さまが好きだからね。このまま力を貸してあげる。ああ、言っとくけど、アンタの命令はもう聞かないよ。嫌いだったんだよね、アンタの気配。だからアカルには感謝してるんだ』
「あかる? 誰なの?」
『姫比で会った娘さ。巫女なのかなぁ? とにかく依利比古さまがお気に入りでさ、わざわざ姫比から攫って来たんだよ。たぶん依利比古さまは、あの娘を自分の巫女にするつもりだと思うよ────あれぇ? 顔色が悪いね。どうしたの?』
青ざめる十世に、葉月は無邪気に笑いかける。
『そうだ、最後だからこれも教えてあげようかな。依利比古さまの話だとね、アカルは
クスクスと楽しそうに笑う葉月。
十世の瞳に憎悪の火が灯った。
「なんですって……千代姫の呪いを返し、私に怪我を負わせた術者が、依利比古さまの巫女になる? 冗談じゃないわ! そんなの、絶対に許さない!」
低い声でそう呟くと、十世は葉月を蹴散らすように駆け出した。
遥拝殿を出て林の中を走り、一直線に神殿を目指した。
(許さない、許さない、許さない)
呪いのような思念が、頭の中に溢れてゆく。
空に向かって伸びる楼閣のような神殿に戻るなり、十世は祭殿の扉に手を伸ばした。
「十世さま、朝餉の支度が出来ておりますが……きゃあ!」
目の前に現れた女官を突き飛ばすようにして祭殿へ入ると、十世は大きな音を立てて扉を閉ざした。そのまま肩で息をしながら、壁際に置かれた棚に近づいてゆく。
そこに並ぶ壺には、かつて捕らえた
十世は片っ端からその壺の蓋を開けた。
白い煙が立ち昇り、額に呪符を張り付けた使鬼たちが現れると、十世は即座に命令を下した。
「依利比古さまが連れて来たあかるという娘を探して! お前……いいえ、もう誰でもいいわ。誰でも良いから、あかるを殺しなさい!」
使鬼たちが消えてしまうと、十世はその場に
「弱い……使えないモノばかりじゃない。そうよ、千代姫を呪うのに、一番力のある化生を使ってしまったのだもの」
悔しさに涙が込み上げてくる。
その時、まるで神託のような
十世の脳裏に、地下蔵の様子が浮かんだのだ。
(そうだわ……)
十世が捕らえた使鬼は、今ので全部だ。けれど、古い壺ならば他にもある。
────三年前、十世たちは迫りくる
逃げ出す時に巫女たちが運び出した古い壺。先代の【日の巫女】さまや、その他の巫女さまたちから受け継いだ壺が、この都萬国の神殿に安置してある。
十世は跳ね起きると、祭壇の下の床板を外して地下へと降りて行った。
軋む木の
この地下蔵に入るのは三年ぶりだ。灯明皿をかざして見ると、床や壁からは木の根のようなものが飛び出して、並べておいたはずの古い壺は散乱し壊れていた。
(何だか酷い有様ね。まるで盗賊に荒らされたみたい……)
辛抱強く見回すと、ひとつだけきれいに立っている壺があった。黒漆が塗られているのか、灯明皿の僅かな光に、てらてらと光を反射している。
十世は黒い壺に駆け寄ると、迷わず手に取った。蓋には二重に呪符が張り付けてあったが、躊躇などしなかった。
ベリッと無造作に呪符を剥がし、木の蓋をねじ開ける。
他人が捕らえた使鬼は、自分の血で従えさせねばならない。
使鬼が姿を現したらすぐに血を与えようと、目の高さに構えていた小刀を、十世は取り落とした。指先から力が抜けてしまったのだ。
敷石の床に落ちた小刀が、カラン、と乾いた音をたてる。
黒光りする古い壺からは、尋常でない煙が立ち昇っていた。どんどん大きくなったその煙が、やがて不思議な形にまとまり始める。
他の使鬼たちのような人型ではない。細長い本体と、そこから伸びる無数の根のようなものが、ざわざわと蠢いている。
「ひっ……」
十世の口から、悲鳴にもならない声が漏れた。
自分が、開けてはならないものを開けてしまったのだとわかった。
壺から出た異形のモノは、尻餅をついた十世を嘲笑うようにふわりと上昇し、祭壇下の出口から外へ出て行ってしまった。
〇 〇
(まだ夜が明けたばかりだというのに……)
いつもより早く目覚めてしまった
今朝は特別寒い訳でもないのに、ずっと指先が震えている。火で温めても震えは止まらない。体の異変はそれだけではなかった。目覚めてからずっと胸の動悸が収まらない。
「何だろう、この動悸は」
恐ろしいような、嬉しいような、判別しがたい感情が渦巻いている。
しばらくすると、ゴォーっと風の唸りに似た音が聞こえてきて、月弓の指先の震えが強くなった。
(何か……来る!)
とても座ってなど居られず、月弓は戸を開けて外へ出た。
振り仰いだ
「翼のある……蛇神か?」
月弓は、上空に浮かぶ黒い蛇に目を奪われた。
恐れと共に、歓喜の感情が湧き上がってくる。
引き寄せられるように走り出し、よろめいて膝をついても、魅入られたように空に浮かぶ蛇神から目が離せない。
月弓が空に手を伸ばすと、空でのたうっていた黒い蛇が、スーッと引き寄せられるように下りてくる。
伸ばした指先から腕へ絡みつくように、黒い煙と化した蛇神がゆるゆると巻き付いてくる。
心の内と外が、ざわざわとせめぎ合い、体がビクッと反り返るように硬直した瞬間、月弓は意識を手放した。
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