逢魔時にはヤツが来る

霧ヶ原 悠

第一話



 セピアというほど濃くはなかったが、世界がなんとなく黄色く見えた。

 夏の終わりの、雲が多い夕方のことだった。


 歩き慣れた駅からの帰り道を、いつものように歩く。郵便局の角を曲がって、きれいに区画整理された住宅街の道をまっすぐ、月極駐車場を左に折れて、分譲マンションの9階。


 *


 『ちょうど今時分を「黄昏時」と呼ぶのですが、学生さん、あなたご存知でしたか? 

 日が暮れて薄暗くなり、景色が黄金色に輝く一方で、相手の顔の見分けがつきにくくなることから、「あんた誰?」と問いかける「たれかれ」がつづまって、たそがれという音ができたのです。

 黄昏こうこんというかっこいい字面も、実は当て字だそうです。「黄」は空気が黄色っぽく色づくからでしょうかねえ。「昏」という字は、もともと日が低くなるという意味を持っていて、それが転じて道理にくらい、目がくらむ、という意味も増えたみたいです。そう、昏睡とかの「昏」ですです。

 うーん、実に雅な日本語ですが、今日の夕暮れはちょっとくすんでいるようですねえ。残念♪ 

 同じように、明け方の薄暗い時分を「たれ時」と言いますが、まあこれはどうでもよろしい。


 古来より日本では、夜は怨霊妖怪魑魅魍魎が跋扈する時間とされてきました。

 これらを鎮めるために陰陽師がいて、寺社仏閣があったわけです。菅原道真の怨霊の話は聞いたことがあるでしょう? 京都の祇園祭も始まりを辿れば、都に蔓延する疫病をもたらす悪霊たちを鎮めるためのお祭りでしたからねえ。

 しかししかし江戸時代、歌舞伎で怪談ものを演じると驚きの大好評! 

 四谷怪談、番長皿屋敷に牡丹灯籠と次々と新たな演目が増え、日本人は恐るべき人ならざるモノどもを娯楽としてしまったのです!

 もともとは芝居小屋が蒸し風呂になる夏にも客を入れるため、夏季休暇中のベテランの代わりに新人を投入して大掛かりな仕掛けで客を楽しませたそうです。まあ全て某教育番組からの受け売りですがね。


 そして怪談といえば、忘れてはならぬのが明治の小泉八雲、本名パトリック・ラフカディオ・ハーン! 

 彼はギリシャ生まれの外国人ながら日本人に帰化し、耳なし芳一や雪女などの幽霊話を集めて「怪談」を著した日本の怪談話の立役者! 

 さていつのことだったか、彼の「むじな」という作品を英語で読みました。一言で言えば、昔、夜中に商人が堀の近くで泣いてる女性を見つけて声をかけたらのっぺらぼうで、逃げた先の蕎麦屋でその話をしたら蕎麦屋の主人ものっぺらぼうだった、というお話ですね。

 こんなんでも英語で書かれていると案外難しいもので、辞書を片手にがんばって翻訳していると突然出てくるO-jochu! 

 なぜ日本語! LadyやMissならいい。なぜお女中はお女中のままなのか!?


 さてさて時代は下り、二度の世界大戦から高度経済成長期に至り、突然やってきた空前絶後のオカルトブーム! 

 その火付け役になったのは、1974年に公開された「エクソシスト」という映画です。あなた、見たことあります? 

 そう、首が360度回転してブリッジで階段を駆け下りるアレです! 

 怖いですよねえ、怖い怖い。

 この頃にこっくりさんや口裂け女、人面犬、メリーさんの電話などなど都市伝説として新たな怪談が登場したわけです。どれも一度は聞き覚えがあるのでは?


 それが落ち着き平成へ時代が移り、学校の怪談が満を辞してご登場ですよ! 

 トイレの花子さん、走る人体模型、動く肖像画、13段の階段、テケテケ、踊り場の合わせ鏡、突然鳴り出すピアノ、午前4時44分に開く異界の扉など、誰でも一度は耳にしたはずの七不思議! 

 それから、今の子はもう知らないかなあ。15年ぐらい前にフラッシュアニメというものが大流行りしましてね。

 懐かしい「チバシガサガッ!」。意味が分からないけど面白いので、ぜひ検索してください「チバシガサガッ!」。

 ああ、いや、本題はこれではなくてですねえ、そう、「赤い部屋」ですよ。知ってますか? 赤い部屋。

 あれを一度興味本位で見てしまってねえ。3日は寝れなくなりました。

 まったく、ホラーは嫌いなのに何故かそういうの見ちゃうんですよねえ。


 そして今は令和の時代です。ご存知ですか? 噂の新しい怪談系都市伝説。















 そうです。ワタクシ、「おしゃべりマン」です』


 *


 制服を着た学生は、ただただ目の前の男に怯えて震えていた。どうしてこんなことになったのか、学生には何も分からなかった。


 1階で一緒にエレベーターに乗ったこの男。帽子を目深にかぶり、マスクをしていかにも怪しげだったが、流行警戒中の新病を考えたら仕方ないのかもしれない。げんに、学生も予防のためにマスクをつけていた。


 男がボタンの前に立ったので、学生はできるだけ離れた対角線上の隅で小さくなっていた。


 ドアが閉まり、寒々しい蛍光灯に照らされた鉄の箱がゴゥンと動き出した。その瞬間、『やあやあどうも!』と言いながら男は触れ合う紙一重まで近づいてきたのだ。


 学生はもちろん、悲鳴をあげた。だが逃げ場がない。男がほぼ密着状態まで迫ってきていたからだ。


 そして、何か生理的に受け付けない臭いをさせながら、上のようなことをベラベラと一方的にしゃべっていた。


 口を挟むことも、顔を逸らすことすら許されなかった。顔を逸らそうとすれば、冷たいカサカサの指で顎を強く掴まれ、強制的に目を合わせさせられる。

 そして学生は気がつき、顔を青ざめさせた。


 この男、まばたきを一度もしていない。そんなのが、人間であるはずがなかった。


 こんな時に限って、エレベーターには誰も乗ってこない。


 やたら動くのが遅くて、まだ9階まで着かない。


 どうしようもできないまま、歯の根が合わないほど震えていた。

 何度も何度も唾を飲み込んで、瞬きを繰り返して、なんとか恐怖に耐えていた。涙も冷や汗も、滝のように流れていったが拭うことはできなかった。


 チンッという音を立ててエレベーターが8階で止まり、おしゃべりマンと名乗った男は急に何事もなかったかのように、踵を返して降りていった。


(た、助かった……?)


 学生がホッと息をついたとき、男はぐるりと腰を回した。


 「ひっ!?」


 引きつった音が喉から飛び出したが、それ以上は続かなかった。


 こちらを見る男の目がなかった。ただ黒々とした空洞の眼窩が、学生をひたりと見据えていた。


 マスクの下の口も酷かった。ニタリと描いたこの先は耳にまで迫り、黄色く汚れた歯があらわになった。


 もう押さえつけられることはないのだから、目をそらすこともできたはずなのに、なぜか身動きできないまま学生はずっと棒立ちになっていた。


 やがてエレベーターの扉がしまって見えなくなるまで、男はハァ〜〜と嫌な愉悦の息を漏らして学生を凝視していた。


 エレベーターが無事に動き出して、自分一人になっても安心はできなかった。


 なぜあの男は笑ったのか。自分は助かったのではないのか。


 浅く速い呼吸を繰り返しているうちに、学生はふと気がついてしまった。


 その瞬間に血の気が失せ、狂ったように泣き叫んだ。


 止めて!


 止まって!


 開いて!


 下ろして!


 逃して!


 助けてっっっ!!!


 なぜならここは9階建ての分譲マンション。男が降りたのは8階。エレベーターの行先はあとひとつしかない。つまり、





だから学生は泣き叫んだ。ドアから一番遠い奥の壁にすがった。


だが無意味。なんの不具合もなく、エレベーターはあっという間に最上階へ辿り着いた。


ドアが、開く。恐る恐る振り返った向こうで待っていたのは──










 おしゃべりマンと名乗った男は、この世かあの世かのどこかで言う。


 『一人で喋るのはねえ、キツいんですよ。反応をもらえないと悲しいんですよ。だからあなた、ずーっと、ワタクシとお喋りしてくださいね』



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逢魔時にはヤツが来る 霧ヶ原 悠 @haruka-k

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