5-8
「両手を洗面台ついて。今すぐ」
言われた通り、俺は洗面台に手をついた。
シモンは素早く俺の背後に周り、身体検査を始める。
そして、俺のポケットを探ると、あの首飾りを取り出した。
その時の彼女の顔には、驚きと、困惑が浮かんだ。
「やっぱり、貴女のものでしたか」
「どこでこれを……」
「落とした場所は、貴女も憶えがあるはずだ。違いますか」
シモンは、答えなかった。
検査を終えると、彼女は俺の両手に手錠をかけた。
用意周到なことだ。もしかすれば、常時手錠を持ち歩いていたのかもしれない。
「外に出て」
背中を突き飛ばされ、洗面所から押し出される。
廊下にでも出されるかと思ったが、彼女はそのまま、俺を寝室の方へと連れて行った。
俺をベッドに座らせると、俺の前に椅子を持ってきた。
背もたれを俺に向けると、彼女は椅子に座り、両腕を背もたれの上に置いた。
「どうやってここを知ったの」
「尋問ですか」
「いいから、さっさと答えて」
シモンはナイフの刃を俺の顎に突きつける。
「学校の職員から聞き出しました。首飾りを届けたいという理由で」
「そんな理由で、おいそれと住所を明かすわけがないでしょ」
「ええ。なので別の理由も取り繕っておきました」
「何よ、理由って」
「男女的な、熱っぽいことを少々」
「……あなたって人は」
シモンは呆れ顔でため息をついた。
「職員の方を責めないでください。騙した自分が悪いんですから」
「もちろんそうよ。でも、安易に喋った職員も同罪ね。こんなことなら、適当な住所を書いておくんだった」
ちくりと、首筋に鋭い痛みを感じた。
首筋を伝う液体の感触。
生暖かい血は首をつたい、シャツの襟に染み込んでいく。
「で、何しにここへ来たの」
「貴女が何者なのか、調べに来ただけです。元軍属とは聞ききましたが、それが本当なのか。それと、どうして自分を尾けていたのか。それを確かめたくて」
シモンは表情を緊張させる。
「そんな事実はないわ」
「ビルゲート氏の娘に危害を加えておいて、その言い草はないでしょう」
強張った頬がけいれんを起こした。
どうやら痛いところをついたらしい。
「カタリナ嬢に手を出したのです。軍属であるのなら、この事実がどれだけの災難を招くか。わからないはずはないでしょう」
「……なんの話をしているのか、さっぱりわからないわ」
「では、その首飾りを捨てたらどうです。それはカタリナ嬢の足をすくい、転倒させた女のもの。貴女と無関係なら、そんなものは必要ないはずです。後生大事に持っていれば、貴女が尾行者である、有力な証拠になってしまいますよ」
片手に握りしめた、指輪の首飾り。
シモンはそれに目を落とす。
葛藤、逡巡、数秒間にわたる迷いの時間。
わずかに腕を振り上げたあと、彼女は静かに腕を下ろし、ため息をついた。
「やはり、貴女なんですね」
「……そうよ」
肩を落とし、シモンは言った
「どうして尾行なんて真似を……」
その時だ。ドアを乱暴に叩く音が聞こえたのは。
「ミッドランドさん、帰ってるんでしょ。開けてくれませんかね」
シモンの顔から、さっと血の気が引いた。
迷惑そうに目を伏せて、唇を噛み締める。
「誰です」
「借金取りよ。母が金を返さないからって、私のところにやってくるの。無視してれば帰るわ。気にしないで」
「開けてくださいよ。ミッドランドさん」
また乱暴に叩かれる。
「軍に相談しないのですか」
「私が軍に入ったのは、借金取りから逃げるためじゃない。こんなことで軍に手を焼かせるわけにはいかないでしょ」
「ミッドランドさん。いい加減にしてくださいよ。お母さんが困っているんですよ。手助けするのが、娘の勤めじゃないんですか」
部屋に響くノックの音。
シモンは先ほどの勇敢さが嘘のように萎縮してしまっている。
「……少し、静かにしてもらいましょうか」
俺がそう言った時、彼女は少し言葉の意味がわからない様子だった。
俺が立ち上がり、ドアの方へ向かう。
「勝手に動かないで」
「逃げはしませんよ。彼らを追い払うだけです」
両手で、ドアノブを握る。
そしてノックが打たれるタイミングを狙い、ドアを引いた。
「うぉっ」
廊下から、男が前のめりに倒れてきた。
金髪の男だ。
俺はその顎に、膝を叩き込む。
噛み合わさった歯から、ガチンと硬い音がなる。
男は何が起きたのかもわからずに、白目をむいて床に倒れた。
「な、なんだテメェは」
男はもう二人いた。
一人は坊主頭。
一人は頭頂部のはげた、黒髪の男。
「失せろ」
「んだと、この野郎。ナマ言ってんじゃ……」
坊主頭の男が食ってかかる。
近寄ってきたところへ、男の股間を蹴り上げる。
柔らかいにナニがスネの上で潰れ、男は嗚咽を漏らして、廊下にうずくまる。
がら空きの後頭部へかかとを振り下ろせば、動かなくなった。
「な、なんなんだよ。お前」
「とっとと消えろ」
床に倒れた男の襟首を両手で掴み、廊下に投げ出す。
男は迷っているようだったが、二人の男を引きずり、階段に消えていった。
「行きましたよ。奴ら」
階段に消えた男たちを見て、俺は言った
そして、シモンの方を見た。
彼女は安堵している様子はない。
ただ迷惑そうに、俺を睨み付けている。
「ヒーロー気取りってわけ」
「話の邪魔だと思っただけですよ。……話を戻しましょうか」
ドアを閉めて、シモンに体を向ける。
「どうして尾行なんてしたんです」
「それをあなたに教えるつもりはないし、教えることもできないわ」
「カタリナ嬢の件を、ビルゲート氏に伝えると言ってもですか」
「脅すつもりなら無駄よ。仮に伝えたとしても、その時は私がやめさせられるだけ。あなたの周りから、目が消えることはないわ」
「新たな芽が芽吹くだけ、ですか」
「好きなようにすればいいわ。あなたにバレたことで、私の立場はおそらく悪くなる。けど、それ以上に悪くなるわけでもない」
「困りましたね」
軍属であること。そして、俺に関する何かを調べている。
今日はそれがわかっただけでもよしとする他にないだろう。
「それで、自分は逮捕されるんですか」
「いいえ。今日は見逃してあげる。一応あなたに助けられたんだし。それに、借りを作るのって趣味じゃないのよ。私」
「よろしいので」
「不手際が一つ増えたところで、立場が変わるわけじゃない。あなたを招き入れたってことにすれば、そこまで大事にはならないはずよ」
「寛大な心遣いに、感謝いたします」
シモンに頭を下げながら、片手親指の関節を外す。
手錠から片手を抜くと、もう片方も同じように外した。
「やっぱり、ただの庭師ってわけではなさそうね」
「ご想像にお任せします」
「ええ。たっぷり想像させてもらうわ」
頬緩めた彼女の目には、また猛禽のような鋭さが戻った。
俺はドアを開けて、廊下に出る。
「あの指輪に入っていたイニシャル。一つは貴方のものですね。
「いいから、帰って」
ドアを閉じる間際。ふと彼女の顔を、その隙間から覗き見た。
深い悲しみと憂いが、彼女の顔に張り付いていた。
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