失恋した。だから髪をのばす。
藍夏
第1話 後悔と自己嫌悪
大学生は人生の夏休みという言葉をそのまま信じていたものの、実際に過ごしてきた一年半は全くと言ってもいいほどに理想とは異なっていた。先輩は一年の間に遊んでおかないと一生後悔すると去年言っていたが、その意味を今ようやく実感している。八月入って夏季休暇という名のテスト期間が続き、もう九月に入って唖然としている。暑さは真夏さながらであるが、夕陽はもう秋らしさを滲ませている。去年は一緒に遊んでいた高校のときの友人とも会うことすらできず、友人達がインスタに上げている写真にいいねを機械的に押しては溜息を吐くことを繰り返している。友人は海に行ったりテーマパークで遊んだりして楽しんでいる一方で私はサークルとバイトと自室をぐるぐる回って一日が終わる。前は漫画やアニメの話をしていた友人も今やほとんどが彼氏ないしは彼女を作っていた。
それでも私がそんな友人達を恨むことがないのは木下くんの存在であろう。
木下くんとは大学一年の頃バイトで出会った。違う大学に通ってはいるものの、バイトのシフトがよく被っていたためかなり親しくしていた。バイトはこじんまりとした一対一の塾講師であった。シフトを土日に希望していたため、他にもバイトをしている人はいるにも関わらず、私は木下くん以外見たことがなかった。木下くんも私以外のバイトの人を見たことがないらしかった。私は一人暮らしをして地元を離れていたため土日は暇して自室でただオンラインゲームをしているだけで一日を終わらせてしまいがちなのでせっかくならと土日できるバイトにしたのだ。一方木下くんは実家住まいで友人も多く近くにいるはずで土日にバイトを入れている理由がよくわからなかった。
この年の九月に入って夏休みシーズンよりも生徒が減って木下くんと話す時間が増えた。その日は花火大会があった。もちろんバイトの時間帯なので見ることは諦めていた上に、もとよりそもそもそこまで親しい人も近くにいなかったのでわざわざ外に出ようとも思わなかった。
「大原先生、花火見にいかないの?」
そう小学五年生の女の子が和差算の問題でぐずっていたときそう言えばといったノリで私に話しかけた。
「先生はね、お仕事があるから無理なんだ。」
そう返して窓の外に目をやると眩しい夕陽が目を刺した。
「そうなんだね。残念だねぇ。私はね塾終わったらお父さんが連れてってくれるって言ってくれたの。」
そう嬉々として女の子は話していた。
「木下先生は行かないの?」
また少女は続けと、教室の端でファイルの整理をしていた木下くんがぴょこっと顔を上げて、「先生も無理かな。」と笑った。
「大原先生、よかったね!一人じゃないみたい!」
そう女の子は言い、にこっと笑った。
「じゃあ花火のために和差算をさっさと終わらせようね。」
私はそう言って彼女の意識を勉強に戻した。教室の隅でカタカタとファイルの音としゃっしゃっとペンを走らせる音が聞こえた。
女の子はお父さんの車に乗り込んで私に手を振った。私も笑顔を返す。営業スマイルではあるけれども、自然と溢れた。音とガソリンの匂いを残し、夕暮れの中に車は去っていった。
「大原さん、おつかれ。」
背後から急に声が聞こえた振り向くと目の前に小柄のコーラのペットボトルが現れた。
「木下先生、お疲れ様。ところでこのコーラはどうしたの?」
そう言うと木下くんは歯に噛んだ。
「あげる。」
そう言うと木下くんは教室へ足取りを戻した。
「ありがと。」
私はそう言い、ペットボトルを開けながら木下くんに着いて行って教室に戻った。
「木下くん、日が悪かったね。」
「え?なんで?」
「だってせっかくの花火大会なんだよ?彼女さんとかお友達との時間過ごしたかったでしょ?」
木下くんは顔を背けながら暗くなりつつある外を眺めた。
「そもそも俺、彼女いねぇし、大原さんと過ごせるの週二回のバイトの方がずっと貴重だし。」
「またまたぁ。何かしらのご機嫌どりなのかな?」
「いや、本音だよ。」
木下くんは私に視線を戻し、肩を抱き寄せてキスをした。私にはファーストキスだった。頭が真っ白になり、心臓がおかしくなった。初めて口の中に私以外の舌が入り込んだ。生温いそれは心地よく優しく、そしてコーラの香りが広がった。
気付いたら木下くんは軽く私から離れた。
「大原さんのこと好きなんだよ。」
私は驚いた。初めて告白された。初めてづくしだった。気付いたら私は泣いていた。木下くんは驚いたようにごめんねと何度も言った。胸がいっぱいってこういうことを言うのだと思った。
「木下くん、私、なんかよくわかんないけど、すごく嬉しい。でもね、君とは付き合えない。ごめんね。」
「そっか。」
木下くんは寂しく笑った。
「木下くんの好意を知って、正直私は今木下くんのことが好きなの。でも、私は木下くんを不幸にしてしまう。それが一番怖いの。」
「そんなことない。大原さんが不幸の原因になるとか、そんなファンタジーのようなことはありえないよ。」
そう木下くんは強く言った。
「私、誰からも好かれたいの。でも誰かにとっての特別にはなれないの。」
「つまり、付き合えないってことだよね。でも、真剣に考えてくれてありがとう。」
そう言って木下くんは笑った。
「木下くんには申し訳ないとはわかってるけど、友達のままでいてくれる?」
もちろんと言って木下くんは優しく笑った。遠くで花火の地響きが聞こえた。
その日から私は木下くんに恋していた。なんであの時振ってしまったんだろうという後悔が日に日に強くなっている。それでも私は木下くんにそのことを伝える気はない。傷付けることは嫌だったから。私の単細胞なエゴがそれを許さない。
幼い頃から親友という存在が嫌いだった。一人でいる割には寂しがりやで人から好かれるように頑張っていた。ただ親友にしたくなくていつも距離を開けてしまう。自分でもなんでこんなことをしてしまうのかわからなかった。誰かからの特別になることが怖くて、そして気持ち悪かった。自分が親友という言葉に収まってしまうことが怖かった。結局私は適度に距離のある友人というのに収まった。私はそれでよかったと思っている。けれどそこで寂しさを感じていることを否定できずにいる。
中学校時代のゆかりちゃんという友達がいた。ゆかりちゃんは私を一番大事にしてくれた。移動教室も登下校も一緒にしてくれた。でも私はそれが苦痛でしかなかった。理由はわからない。奥歯にガムがくっついて取れなくなったときのような不快感が私の心を黒くしていくようだった。いつも私に笑ってくれた。できないことがあったらしてくれた。わからないことがあったら教えてくれた。遊びにだって誘ってくれた。けれど私はそのほとんどを拒否した。やんわりと用事や私事で都合が悪いといった、今思えば言い訳に過ぎないそれらで傷付けた。今でも彼女のことを思い出す度に彼女の優しい微笑みが私の心を刺す。これも私のエゴに過ぎないとわかっている。
こういうことが度重なった。以前は全て周りが悪いのだと、群れようとするのが悪いのだと自分を正当化していた。けれど今ならわかる。これはただの負け犬の妬みに過ぎない。私が他人の特別になりたくないというただの我が儘で人を振り回してきたということを今なら理解できる。自分にとって都合がいいのがいいという我が儘だってわかっている。それでも今でもその気持ち悪さに耐えることができず昔のままでいる。
そのくせ人が離れていくと愛おしくて仕方がない。興味のなく遊んだこともない積み木を捨てられたときのショックを今木下くんに感じている。それでも木下くんが私を好きだったという事実に私の精神は保たれている。きっと一般的に私みたいな人間を狂人というのだろう。あの時気持ち悪いと思ったキスも結局自室で捨ててしまったコーラも今となっては淡く切ない青春に喩えられそうな思い出になってしまっている。それらに私はしがみついている。
例えば今私がショートヘアにしているのも、木下くんがショートの子が好きだと当時言っていたからである。自分の単細胞さに悲しくなる。それでも心が満たされているのだ。私の中では彼にとって私がどうでも良くなったことはわかっている。だからこそ私は彼に恋しているのだ。
蝉の鳴き声は聞こえないもののまだ暑さが続いている。バイトでは生徒にあわせてクーラーをガンガンに効かせている。
昼休みのとき私はお弁当を開こうとしたとき、木下くんが休憩室に入ってきた。
「一人暮らしで弁当作るとか凄すぎだろ。」
「慣れたら案外できるんだよ。」
「それでもだよ。」
そう言って木下くんは笑って続けた。
「俺の彼女は作れないもん。」
その一言は正しく私を綺麗に抉った。クリーンヒットとはまさにこのことなのだと痛感した。
「そうなんだね。でも彼女さんとその分外で食べたりおうちでピザとか頼んでゆっくりしたりとかで楽しそうだけどなぁ。」
そうとんちんかんなことを返すだけで精一杯だった。
「それは考えたことなかったかも。そう考えたらそれもありだなぁ。そう言えばこの前とか彼女が一人じゃ料理できないから二人でシチュー作ったんだけど、彼女包丁使ったことないとか言ってて、家庭科のときどうしてたんだとか聞くとサボってたとか......。」
それから木下くんは沢山惚気ていた。私はケラケラ笑いながら聞いていた。もちろん心の中は笑える状況ではなかった。
気付いたらヘラヘラしながら「彼女さんとたっくさんイチャつかなきゃだめなんだからねぇ。」とか言っている自分がいた。木下くんは「うん。」と顔を赤らめながら言った。
その日私は食事がまともに食べられなかった。失恋して痩せるなど馬鹿げているとか思っていた自分が憎い。けれど一番憎いのはやはり告白を蹴ったくせに恋してしまった自分だった。
家に一人部屋を暗くして寝ようとしたら唐突に寂しさが襲ってきた。孤独と言った以前まで陳腐な感情だと笑った感情が押し寄せる。こんなことを繰り返して生きていくのかなとか無意味に考える。答えがないことなんてわかっていた。それでも考える。考えることで私はこの世界に責任転嫁ができる気がした。
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