第25話 悪夢の終わり
美桜が作った夕食を食べ終え、その後。
俺は自室で息を潜めていた。
口を
なぜ我が家で肩身の狭い居候じみたことをしているかといえば、理不尽に脅かされないためだ。
このまま部屋に立てこもって姦しく語り合う声をBGMにして眠り、明日の朝を迎える――
「――お兄ちゃーん。お風呂空いたよー?」
……敵前逃亡は許されないらしい。
美桜の呼び掛けを無視することは兄として許容出来ないので、諦めて扉を開けた。
黄緑色のパジャマを着た美桜は湯上りで、しっとりと濡れた長く艶めいた黒髪を頭の上でお団子にしている。
俺が部屋に篭っていた理由は、お風呂から上がってくる三人と鉢合わせて面倒が起こらないようにするためだった。
頭ファンタジーな鈍感系主人公ならこうはいかない。
何も考えずトイレに行ったタイミングで誰かの着替えシーンに出くわして、ラブコメ展開へ陥るのだろう。
だが、俺に限っては有り得ない。
フラグは自らへし折る一級フラグ管理者。
何事もなく嵐を乗り切ったのだ。
「後で入る……って、パジャマ新しくなった?」
「よくぞお気づきになりました! 折角だから瑞葉ちゃんと新しいのを選んできたの。どうー?」
満面の笑みで美桜が言って、くるりと華麗にターンを決める。
うん、可愛い。
溜まっていた日々の澱みが浄化されるようだ。
やはり妹の笑顔は万能薬。
広辞苑にも載せるべき世界の真理だと思う。
「可愛いぞ、よく似合ってる」
「えへへ、ありがと。次は言われる前に言ってくれると女の子的には嬉しいよ?」
「非モテ陰キャには難しすぎる要求だな。善処はするけど期待はしないでくれ」
「首を長ーくして待ってるよ。じゃあねっ」
美桜は飛ぶように去り、自室へ消えた背を送った。
風呂が空いたのなら早いうちに入ってしまおう。
念の為に警戒しながら脱衣場へ向かうも、既にもぬけの殻となっている。
洗濯機も先に回されていて三人が着ていた服の類いは残っていない。
むしろ残ってたらどうしようかと思ったよ。
風呂上がりに処刑が待ち受けていないことを確認してから服を脱ぎ捨て浴室の中へ。
まだ温かな空気が満ちた浴室。
濡れた床の冷たさを足の裏で感じながら、ようやく安心して過ごせると息をついた。
シャワーのハンドルをひねり、湯加減の調整をしてから浴びる。
ぬるめのお湯がどうにも心地よい。
「……今日はいろいろあったな」
髪を洗いながら、本日の出来事を振り返る。
美桜が急にお泊り会をするといった時は遂にいい友達ができたと嬉しくなったが、来たのは有栖川と十束だった。
悪いとは言わないが、俺の心境は穏やかではない。
俺にできるのはなるべく関わりを持たずに夜を凌ぐことだけ。
一通り体を洗い終えて、溜めなおされていた湯船に身を沈める。
三人が浸かっていたお湯じゃなくて残念だ……とか欠片たりとも考えていないからな?
俺にそこまでの変態性癖はない。
「あぁぁ~染みるう……」
老人のような声を漏らすも聞く人はいないので気にしない。
ふうう、と長く息を吐いて、肩まで湯に沈んだ。
今日だけで蓄積された疲労が透明なお湯に溶けていく気さえする。
やはり湯船は偉大であると再認識せざるを得ない。
気が済むまで極楽を満喫し、名残惜しくも風呂を上がって着替える。
すっかり温まった身体がじんわりと眠気を伝えて、大きな欠伸を一つ。
そんなに遅い時間ではないはずなのだが、今日は寝てしまってもいいか。
一度キッチンへ立ち寄り、水で喉を潤してから部屋へ戻る。
その、途中で。
「うげ」
「人の顔をみてそれはないでしょう。私だって顔を合わせたかった訳では無いのに」
有栖川と出くわした。
もう寝る前なのだろう。
足首まで丈のある白いネグリジェを着ていた。
まるでお嬢様……いや、正真正銘いいとこのお嬢様だったわ。
普段の言動を見ていると忘れそうになるが。
「もう寝るのか?」
「多分、暫くは寝られないかと」
「美桜が勝手に盛り上がってるのか。付き合わせて悪いな」
「乗りかかった船ですから。それに……いえ、なんでもありません」
有栖川は何かを言いかけ、直前で言葉を呑み込んだ。
まあ、聞く必要もないだろう。
話したくないのならそれでもいい。
俺はもう眠いんだ。
「じゃ。おやすみ」
「ええ。永遠に」
「死なないからな??」
元々返事なんて期待してはいなかったため、有栖川とすれ違って部屋へ戻る。
明日も休みだと心が楽でいい。
降って湧いた休日に感謝の念を送りながらベッドへ寝転がり、目をつむればすぐに意識が落ちて―—
■
狭く寒い暗がりで、俺は天井を見上げていた。
クリーム色ではなく灰色のコンクリートの壁に覆われた、地下室と呼ぶべき窓のない牢獄。
手足にはベッドに取り付けられた枷が嵌められ、動くことはできない。
朧気な意識の中で、これが夢であることに気付く。
それも、身に覚えがあり忘れられない過去の再現だ。
状況を理解できたなら多少は落ち着くというもの。
冷えゆく頭の芯、思考が明瞭になっていく。
(なんで今になって、この夢を見せられてるんだよ。クソが)
誰にも聞こえないのをいいことに悪態をついて、舌を打つ。
なにせ、この後に待っている出来事を知っているのだ。
ギギ、と鉄の扉が軋む音を上げながら開く。
そこから入ってきたのは白衣の男——佐藤賢一だ。
賢一は俺を
「————」
口は動くも声は聞こえない。
だが、何を考えているかは知っている。
奴は俺を実験動物程度にしか認識していない。
『
結果として俺は『
賢一は俺を見限り次なる被検体——美桜へ魔の手を伸ばそうとしていたタイミングで、『異特』によって捕縛され計画は瓦解。
未来永劫、奴の望みは叶わない……はずだった。
(でも、もう遅かったんだろうな)
狂気を内包した嗤い顔を見上げながら、ふと考える。
というのも、賢一が捕らえられた時には美桜にも賢一の手が入っていた。
美桜は強制的に異能を書き換えられ、不完全に終わった計画を補完するための鍵の役割を背負わされた。
『
『
「————」
そんな未来を知らず、奴は俺の腕に無心注射器の先をあてがう。
コシュッ、と軽すぎる音が響いて。
暗くなっていく視界の中央で哄笑を浮かべる奴の姿が徐々に遠ざかって、意識が薄れゆく。
変わらぬ憎しみを再認識しながら、悪夢の世界は終わりを告げた。
■
「——っ、は」
夢から目覚めるなり、勢いよくベッドから上体を起こした。
荒い呼吸、背中はじっとりと嫌な汗が滲んでいる。
枕元の置時計が指し示すは午前3時と20分ほど。
かなり中途半端な時間に起きてしまったらしい。
とはいえ、あんな夢を見たせいで眠る気にもなれないのは困った。
とりあえず汗を流すためにシャワーだけでも浴びてこようかと考え――
「――お目覚めですか、先輩」
あざとさを感じさせる声が、耳元で囁かれた。
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