同人誌 (夢と幻想 連作 Ⅲ終)

春嵐

01 ENDmarker.

 リップクリームを塗っていたら。扉の開く音。誰か入ってきた。


「チーフ」


嵩奏かさがなさん。どうでしたか、涅槃の華は」


「ばっちりです」


 カメラマンの嵩奏。部屋に入ってくる。


「あれ。彼女さんは?」


「不死鳥は役所へ手続きに行きました。すぐに戻ると思います」


「そうですか。少しお話をしましょう」


 嵩奏に、椅子をすすめる。


「いえ。立ったままで」


「そうですか」


 自分は普通に椅子に座った。スカート越しに、ふかふかの感触。


「あなたは、夢と幻想を見つけた。先他川さんも、じきに記憶を取り戻すでしょう」


「はい」


「わたしは、お二方の作品が好きです。写真も、造形も。だから、同人誌に載せ続けていました」


「理解しています。どこの馬の骨かも分からない俺たちを、拾ってくれたことは」


「拾ったなんて、とんでもない。お二方とも、高名な賞を授与されているのにまったく前に出ていかない。コンテストよりも重要なものがあった。それを、私が勝手に応援していたというだけです」


 嵩奏。無表情。


「嵩奏さん。あらためて、あなたに訊きます。あなたの求めていた夢と幻想は、すでにあなたの手のなかにある」


「はい」


「あなたはこれから、どうするおつもりですか?」


 そう。先他川にも嵩奏にも、もう同人誌は必要ではない。


 嵩奏は、夢と幻想で逢った不死鳥を現実で見つけて。先他川は、涅槃を失う代わりに助けた華に見初められて。


 自分ひとりだけが。


 まだここにいる。


「やっぱり、座ってもいいですか?」


「どうぞ」


 嵩奏。


 机を隔てて、向かい側に座る。この机は、特注品だった。


「正直、自分でも、わかりません。今の自分の気持ちを、話していいですか」


「めずらしいですね。シャッターの先でしかものを語らないあなたが」


 嵩奏。無表情のなかに、わずかに感情が見え隠れする。


「俺は、夢と幻想を探して生きてきました。心のどこかで、やはり、夢と幻想は見つからないものだと。そう思っていて。どこにもいない不死鳥を探して、いつか、ろくでもないところで死ぬんだろうと。本気で思ってました」


 嵩奏の感情。どういう気分なのか。わからない。


「でも、見つかってしまった。生きる指針だったものが。なくなったんです。俺のなかから。消えてしまった」


「彼女は。かんどりさんは、生きる指針にならないのですか?」


「あいつは俺にとっての神の鳥です。ただ、これからも彼女を愛する自信が、俺にはない」


「それは」


「俺にとって夢と幻想は、彼女の存在よりも、重かったんです。何言ってるか分からないと自分でも思いますけど、でも、そうとしか、言えない」


 夢と幻想そのものである彼女よりも、夢と幻想が重要。


「彼女は現実に存在する、ひとりの女性です。今は同じ夢と幻想を見ていたから、同じ方向を向いています。でも、これからも、そうだとは、かぎらない」


 嵩奏。表情が歪む。


「俺の夢と幻想を、いつまでも、彼女に押しつけるわけにはいかない。彼女には、彼女の生き方が。彼女の生きる指針があるはずです」


「それを、嵩奏さんは訊いたのですか。彼女の、生きる指針を、彼女の口から」


「いえ。訊いていません。聞くべきではないと、思っています」


「懸命な判断ですね。あなたらしくない」


「自分でも、そう思います。夢と幻想を追いかけるだけの自分が、なぜこんなにも、他人に気を配ってんのか。ばからしくて」


「いつ、彼女には別れを切り出すおつもりですか?」


「彼女が役所から戻ってきたら。きっと彼女は、森林管理の後任を蹴って、俺のところに来ようとする。そのときに、言うつもりです。それなら、森林管理の後任という仕事を失わずに済む」


「やさしいですね。嵩奏さんは」


「やさしくなんか、ないです。俺は。現実でようやく見つけた相手を、自分勝手に捨てようとしている。そして、絶対に存在しない、夢と幻想を。また追いかけようとしている」


 嵩奏。握った拳が、震えている。


「おねがいがあります。チーフ」


「なんでしょう?」


「俺に。生きる意味を。ください。これからも、同人誌に、俺の作品を。載せさせて、くれませんか」


 嵩奏。頭を下げる。


 ただ夢と幻想をばかみたいに追いかける人間が、遂に、他人に頭を下げるところまできた。


「なんか、人が成長するのって、素晴らしいことだなって。いま。思いました。頭をあげてください」


 嵩奏。頭を下げたまま。動かない。


「私の同人誌に載せる作品は、私が決めます」


 椅子から、立ち上がる。窓際。外の景色。


「いまは、同人誌と言えば専ら二次創作です。私たちのように、同じ志のもとに集って何かを追いかける同人誌など、ほとんど存在していません」


 夢と幻想を、追いかけるための雑誌。それが、私の同人だった。


「私から言わせれば、あなたの志は。夢と幻想への情熱は。錆びた」


 嵩奏のほうを見ずに、外の景色を見ながら話す。


「私の同人誌に、夢と幻想を持たない人間は不要です。お引き取りを」


 嵩奏のほうを向く。


 頭を下げたまま。固まっている。


 それが、立ち上がって。


「ありがとうございました。今まで」


 また頭を下げる。


「勘違いしないでください。私は、今でもあなたを。あなたの夢と幻想を、見たいと思っています」


 優しい声をかける自分。


「いつでもお越しください。あなたがフィルム越しに写した、夢と幻想を持って。私は、あなたの夢と幻想に、今でも期待しています」


 どうしようもない、苦い気分。


「ありがとうございます。また、すぐに。夢と幻想を、お見せしに伺います」


「ああ、ちょっと待ってください」


 執務室を出ていこうとした嵩奏を、引き留める。


「このまま、ここにいてください」


 外の景色。そろそろ、夕方。


 頃合いだった。この執務室から見える夕焼けは、この街の夕暮れでもっとも美しい。


「じきに、あなたを夢と幻想に引き戻す人間がここへ来ます。それまで、あなたはここに」


「わかりました」


「給湯室からポットとお茶、あとラーメンも持ってきていますので。ご自由にどうぞ。私は、ここで」


「ありがとうございました。色々」


「いえ。あなたの人生は、これから始まるんです。あなたは、自由ですよ」


 執務室の扉を、閉めた。


 電話を一本かけて、確認をとる。


「ええ。執務室にいます。はい。どうぞ。すべては、あなた次第です」


 これでいい。これで。


 夢と幻想など。


 生きていくのに、なんの足しにもならない。


 ゆっくりと歩いて、アトリエに向かった。

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