大穢土鬼物語 ── 神も仏もぶん殴る ──

榊 八千代

第1話

 山の中は薄暗く、葉が陽光を遮る。


 早朝の冷ややかな空気は霜を成し霧を立てている。


 季節は春を過ぎたとはいえ標高からか、あたりには雪が満ちている。


 一歩一歩。足が残雪を踏む音が静かな山中に響く。


 残された足跡は山頂から伸びてきており、その大きさから男のものであることがわかる。


 黒の短髪は足元の白とは対照的で、コントラストを生み出して進んで行く。


 吐いた白い息は気温の低さを思い出させる。もう少し着込んで来るのだったな、と自分の迂闊さに少し反省する。


 だがまあ、あまり外の世界に出ない以上、やはりそこらの機微に疎いのは仕方ないことか。


 そんな思考をしながら見上げた先には幾重もの山が連なる。これから越える山だ。


 更にその先、あるのは天に届かんとばかりにそびえる建造物。


 それは高く長い、巨大な壁だ。


 視界の左端から右の端まで、その終着点は見えないまま地平の果てに沈んでいる。

 随分近づいてきたな、と思う反面、まだ着かないのか、と少し不安になる。


 幸いここまで命の危機に至るような状況はさほどなかったため、食料的にも体力的にも余裕はまだある。山越え自体は無理なく行けることだろう。


 ではなにが不安なのか。それは……


「連れがうるさいからのう……」


「なにか言ったー?」


 ぼそりと小さなつぶやきではあったがどうやら聞こえたらしい。随分な地獄耳なことだ。


 微妙な抑揚で放たれた言葉が背後から届く。


「……お主、旅慣れしておるはずじゃろ。野宿ぐらいで騒がなくてよかろうに」


「慣れる慣れないの問題じゃなくてねえ。私みたいに可憐な少女を野に晒すとかそれ私の母国じゃ許されないことだから。せめて頼むならもう少し申し訳なさそうに頼んでほしい」


「だからって寝る前に毎度毎度不満垂れんでもええじゃろうが……」


 振り返った先にいるのは同じ年頃の少女。半目でこちらを睨んでいる。


 長い金髪に碧い目はこの国では滅多に見ることのない南蛮のソレ。


 顔立ちは美しく、本人曰く可憐できゅぅと……らしい。意味は分からないが。


 生来まともに人間を拝むことすらそうはない環境で育ってきたもので、当然ながらその手の美的感覚は鈍いと自覚する。


 わかることといったら大層ワガママな女であることと、この山道を苦も無く付いてくる力量ぐらいだ。その点は非常に好ましいと言える。


 故に、そういうものなのかと思いながら歩を進める最中……揺らぎが聞こえた。


「…………」


 それは生命の気配で、つまりは異常を知らせる合図でもある。


 春は生き物がその活動を再開し草木が芽生える時期。


 冬眠明けの生物はせわしなく動き回る季節だ。


 ────本来ならば。


 それが今、この旅の中で初めて気配を出した。


 生き物がいるはずの季節に、生き物がいなかった場所。そこに現れた生命は、果たして正常と言えるのだろうか。


 男は足を止め、待つ。ガサゴソという擦れる音と一緒に藪から現れたのは大きな影。


 涎を垂らしうごめいているのは異形の合成獣は辺りを見回している。


 猿の顔に寅の手足、蛇の尾を持つ化物。『鵺』と呼ばれる降魔だ。


 自分の倍近くあるその個体は、生家近くで生息していたものよりもいくらか大きいと判断する。


 男の見上げた顔は険しく、手は頬をさすりながら目の前の状況に対して思わず……


「……不味そうじゃな」


 言葉が漏れた。


「……待った。ねえ伊吹待った。貴方もしかしてアレを食べる気? 明らかにやばい瘴気垂れ流してるんだけど? 絶対健康に悪いわよ」


「持ち出した飯は大した量もないんじゃ。現地調達するしかなかろう」


「別にいいじゃない。上手にやり繰りするのが旅の醍醐味ってもんでしょ?」


「どこぞの無駄飯ぐらいが無駄に旅に加わってな。やり繰りしても足りんのじゃ」


「あら。誰かしらその人」


「ったく。お主は……」


 それにだ、と男は思い出したように付け加える。


「お主が飲んでいたの方が……余程健康に悪いと儂は思うがのう」


 言いながら思わず手は自身の首元へ。思い出すのは数日前の記憶と痛み。


 指先から感じる微かな凹凸二つが、心底世の不可思議さというものを実感させる。


「私と人間じゃ身体の構造から違うんだし別にいいのよ! ──というか、後ろ」


 鵺はこちらを認識したのかいつの間にかその両眼を向けている。


 それに対して男は「強いな」と。


 そう思える余裕がある。


 濃い瘴気に適応し、あたりを狩りつくしたこいつはこの山の主といったところだろう。そんな相手を前にしてこれほど冷静を保てているというのは……


「……お主、本当に強かったんじゃのう」


 ────それ以上の化物が背に控えているから、なのだろうか。


「あら、今更気付いたの? 初めて会ったときにちゃんと自己紹介したじゃない」


 ふふんといった具合に少女は鼻を鳴らし、自慢気に語る。


「吸血鬼の女王。それがこの私、エヴァリエン・ヴァニューシャよ? もう無敵も無敵。欧州じゃ敵なんていないんだから」


「その名前、なんど聞いても舌がつりそうで嫌いなんよなぁ……」


 吸血鬼。……『血を吸う鬼』と書いて吸血鬼。


 死なずの命と強靭な肉体を持つ南蛮の降魔。西洋の大陸にて猛威を振るった。それが彼女だ。


 それは彼女にとっても誇るべき実績であり、事実彼女を害せた者などこの数百年記憶にない程。


 圧倒的強者として彼女は海の向こうで君臨していた。


 そんなエヴァリエンは過去の栄華を誇りつつ、しかし溜め息をついた。


 まあでも、と前置きをして、思い出すのは近しい記憶。


「……まさかこんな極東で殺されるなんて思ってもみなかったけどね」


 あーあ、と大きなため息を一つ。目前に迫る降魔を気にもせずドカッと腰をついた。


「さ、頼んだわよ。大江伊吹。私は少し休憩するわ」


「ちょっとは手伝おうとか思わんのか……」


 視界の端には随分とくつろいだ少女が映る。呟いた愚痴を気に留める様子はない。


 言っても無駄じゃのう……


 ワガママな女だ。そんなことを考えながら構えをとる。


 流れるように、自然に取られたそれは幼少時から親父殿に叩き込まれたいつもの姿勢だ。


 そう……


「私の手伝いなんていらないでしょ、その程度に。なんせ……」


 ……昨夜彼女を殺したときと同じ構え。


「────一晩で私を五十七回も殺した傑物。それが貴方じゃない」


 フッと息を漏らし。しかしどこか楽しそうに。彼女は言う。


 思考が透明に澄んでいくような感覚だ。こういうときは調子がいい。


 理性なき獣は、しかし異国にて猛威を振るった降魔に比べ脅威とは思えない。


 故に再度、心の底から言葉が溢れた。


 ああ……



「不味そうじゃな……」


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