言葉にできない想い

 僕が声を失って二十年余りが経った頃。

 月日が流れる毎に交換日記は見る見るうちに積み重なって、気づけば六法全書並みの厚さになってしまった。


 見るからに分厚いそれは僕らの夫婦として過ごした時間が可視化された証で、その重さは見た目以上に重く、この世の何物にも代えがたい価値あるものになっていた。


 歳を重ねるごとに書く内容も減ってしまい、最近では『お仕事お疲れ様』、『家事ありがとう!』の二言だけ。あとは気になったことを互いにぽつりぽつりと記すのみ。

 それでもたった二言を交わすためだけに、交換日記は続けていた。これが僕と妻と繋ぐ架け橋だったから。


 そんな大切な交換日記でも、僕は唯一書けない言葉があった。

 声を失ってから口にしていない言葉。長らく彼女からもその言葉を聞いていない。


 言葉にしたくないわけじゃない。

 ただ、それを伝えてしまうと交換日記の終わりを告げてしまうような気がして。もう二度と、会話を交わせないような気がして。


 独りよがりなこの漠然とした不安は、声を失って、子供もいない僕だからこその考えだ。


 こうして日記にして、文字にして、形にして、物として、遺すことが声を失った僕ができる、子供がいない僕たちにできる――夫婦二人で生きた証明になると思ったから。


 本当は写真でもよかったのかもしれない。むしろアルバムの方がよかったのかもしれない。


 でも僕は交換日記を選んだ。


 お互いに向けての会話が、想いが、声がなくとも伝わるから。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る