幸せの交換日記
鈴風飛鳥
僕が声を失くした日
僕は妻と交換日記をつけることになった。
理由は至極単純。僕の声が出なくなってしまったのだ。
医者に診てもらったところ心因性のものらしく、いつ治るかもわからないとのことだった。
原因はわからない、けれど思い当たる節はある。会社でのストレス、よくある上司からのパワハラというやつだ。
イラ立ちをぶつけられる日々。次第に心のどこかで自分の精神が削られていくのに、自分自身で気づけなかった。
気づいた時には、声の出し方を忘れてしまっていた。
僕は会社に診断書を提出して、退職することになった。
『――ごめん、ほんと……不甲斐なくてごめん』
退職が決まったことを妻に伝えた。
ミミズが張ったような文字で書かれたメモ用紙を妻に見せると、彼女は「無理しないでゆっくり休んでね」とそれだけ言って、割れ物を扱うかのように優しく頬を擦ってくれた。
僕らの間に子供はいない。妻は不妊症だった。
僕らの両親にそのことを伝えたときはとても苦い顔をして、可哀そうなものを見る目をしていたのを覚えている。それでも彼女は僕といることを望み、僕も彼女といることを望んだ。
「子供がいない分、二人で好きなことをして楽しく過ごそう!」
最初は悲観的だった彼女だが、持ち前の明るさとポジティブ精神で見事に立ち直ると、自分が今までできなかったこと、やりたかったことに没頭した。
サイクリング、キックボクシング、料理教室、園芸、温泉巡り、カフェ巡り、etc……。何にでも興味をもち、即実行の彼女は持ち前の行動力でどんどん趣味を増やしていった。
趣味が増えればその分お金も使う。
彼女はパートとして週四で働きはじめた。彼女は自分が生きている時間をフルに、無駄にすることなく使っていた。
僕はそれがどうしようもなく羨ましかった。
会社を休み始めた初日。彼女は一冊のノートを買ってきた。
「せっかくだし、交換日記しない?」
声が出せなくなった日からメモ帳とボールペンを常備するようになっていた僕は、ポケットからそれらを取り出して『どうして?』と書いて妻に見せた。
すると彼女は、
「これなら、声が出なくてもお話しできるでしょ?」
と言いながら、ふふっといたずらっぽく笑った。
こんな状態の僕にも、普段と変わらずに接してくれる彼女の心遣いに少し救われた。これで逆に気を使われでもしたら、僕は今以上にひどい有様になっていただろう。今の僕にとって、彼女の笑顔が唯一の処方箋なのだから。
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