始めるための物語

三谷一葉

泣き虫セレネ

 子供の頃の夢を見た。

 夜の女神キィノの剣であり盾でもある黒騎士になるために、訓練に明け暮れていた頃だ。まだ十三か、そのくらいの時だと思う。

 男女の差がはっきりして来る時期だ。それまで自分よりも小さく、力も弱かった少年たちの背がすくすくと伸びて、鍛えれば鍛えただけ筋肉がついた。

 置いて行かれまいと必死に訓練をしたが、同年代の少年たちのようにはいかなかった。

「泣き虫セレネめ、お前みたいなチビがいくら頑張ったって無駄なんだ。さっさと諦めちまえ!」

 そうはやし立てられて、頭に血がのぼった。

 無駄かどうか確かめてみろと、少年たちの大将に決闘を挑む。力では敵わなくとも、技には自信があった。

 頭上から降ってくる木剣を弾いて軌道を逸らし、相手の懐に飛び込む。無防備に晒された顎を、下から掌底で打ち抜いてやった。

 勝ったと思った。それまで呑気に観戦していた取り巻きの少年たちが、全員揃って襲いかかって来るまでは。

 四方八方から打ち込まれ、そのうち捌ききれなくなった。急所を守るために身を丸め、容赦なく加えられる打撃にひたすら耐えるしかない。

 少年たちの暴力は、騒ぎを聞きつけた指導役の黒騎士がやって来るまで続いた。身体中に青あざを作ったセレネは、そのまま医務室に担ぎ込まれた。

 治療を受けながら指導役の説教を聞いた。見習いの分際で乱闘騒ぎを起こすとは何事か。

 セレネが骨折していないこと、深刻な打撲がないことを確認して、指導役は去って行った。

 医務室には、セレネが一人で取り残される。

「セーレネ、泣いてる?」

「な、泣いてないっ」

 医務室のベッドの上で、膝を抱えて丸まっていると、頭上から明るい声が降ってきた。

 慌てて顔を上げて、念の為に目元を手で拭う。

 いつの間にか、枕元に少女が立っていた。

 赤い髪をうなじのあたりで緩く束ねて、背中に流している。年齢はセレネと同じだ。袖がぷっくりと膨らんだ白いシャツに、ふわりと広がる茶色のスカート。右腕には、パンや水差しの入ったバスケットをぶら下げている。

「なんだ、結構元気そうじゃん。良かった良かった」

「何しに来たのさ、ルナ」

 セレネの目から見ても、ルナは可愛らしい少女だと思う。

 同じ赤い瞳に赤い髪。髪の長さも、束ねている位置も同じだ。だが、まるで少年のようだと言われるセレネとは違って、ルナには少女特有の華やかさがある。

「何しにって酷いなー。セレネ、喧嘩したせいでお昼ご飯食べ損ねたでしょ。持って来てあげたよ」

 皿代わりの布を寝台の上に広げて、ルナはバスケットの中身を一つずつ並べていった。使っているのは、右手だけだ。

 ルナは、生まれついての異形である。左腕が極端に短く、肘の辺りまでの長さしかない。本来、手や指がある部分は、丸い肉の塊だ。

 この異形を忌み嫌って、ルナの両親は幼い娘を捨てた。

 セレネは異形ではないが、親に捨てられたのは同じだった。似たような境遇のルナは、姉妹のようなものだ。

「白パンでしょ、アオナキ鳥のゆで卵でしょ、それから、じゃじゃーん」

 握り拳程度の大きさの白いパンが二つ、青みがかった卵が一つ、それからルナはもったいぶって、最後の一つを取り出した。

 パンと同じぐらいの大きさの、赤く可愛らしい小さな果実。

「キィルの実!」

「へへーん。セレネ、これ好きでしょ」

 歓声を上げたセレネを見て、ルナが得意げに胸を張る。

 キィルの実は、春の果物だ。セレネの大好物である。

 一口かじれば口の中いっぱいに春の風のような爽やかな香りと甘酸っぱい果汁が広がる。

 栄養価が高く、薬の材料としてもよく使われているが、そのぶん高価で子供の小遣いではなかなか手が出せない果物だった。

「ルナ、ありがとう!」

「どういたしまして。でも、お礼なら姉さんに言いなさいね」

「ダイアンに?」

 ダイアンは、ルナの実姉だ。九歳年下のセレネのことも、妹のように可愛がってくれている。

「これ、ダイアンが用意してくれたんだ。今頃お腹空かせて泣いてるんじゃないかって心配してたよ」

「泣いてなんかないもん」

 顔をしかめたセレネの頭を、ルナがぽんぽんと叩いた。

「そうねー、セレネは強い子だもんねー」

「ルナ!」

「怒った顔はしても手は振り払わない。セレネは良い子だねえ」

「ルーナー」

「ごめんごめん。悪かったって」

 口をへの字に曲げたセレネを見て、ルナはけらけらと笑っていた。

「それ、早く食べちゃいなよ。姉さんも仕事終わったら顔を見せに来るって」



 ………………子供の頃の夢だ。

 セレネの故郷は、神聖教会によって破壊された。

 生き延びてしまったのは、セレネだけ。

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