ー伍ー
思い切って田舎に来てよかったなと思えるのは、一時は本当に死ぬかと思っていた僕の心が、少しずつ回復の兆しを見せていることだ。
みーこさんのスキンシップにドキドキするのもその一つだと僕は分析していた。
失恋したくらいで人は死にはしないと聞くが、僕は死んだも同然だった。体や脳は動いている。けれど心が朽ちていた。
いつか元彼女とのことも思い出に変わるだろうと思っていても、それが一体いつなのか。思い出になるのなら今すぐ、瞬時に変わってくれないのであれば意味がない。そう思っていた。だって当時の僕の心は全く機能していなかかったのだから。
ただここへ来て何もしない毎日だったなら、今も僕は病んでいたかもしれない。けれどこうして麗しの女神であるみーこさんに心のオアシスをいただき、何かしら目新しい出来事や人々に出会ったことが功を奏したのだと思う。
ねずみ小僧には感謝するつもりは爪の先ほど、みじんこのケツの先ほども思わないが、この神社に出会えたことは良かったなと思う今日この頃だ。
「しかし今日も暑いですね。社務所に着いたら冷たいお茶でも入れますね」
僕はこめかみに滲む汗をポケットに入れいたハンカチで拭った。
「ありがとうございます。本当に暑いですね。夏も終わりのはずなのに……」
僕たちが神社の階段を上りきった時、輝くように白いワンピースを着た女性が目に飛び込んできた。その女性はつばの大きな麦わら帽子を片手で押さえながら、長い黒髮はそよ風と戯れるようになびかせている。
「あっ、参拝の方でしょうか。こんにちは」
みーこさんがいつもの様子で参拝客に声をかける。けれど僕はみーこさんの後を追って、その参拝客の元へは行けない。足が地に張り付いて動けなくなったようにビクともしない。
背筋良く凛と立つその後ろ姿。白いワンピースの腰部分には赤く細いベルトを巻きつけ、太陽の光で輝くように真っ白なワンピースの上でそれはやたらと際立っていた。
「……嘘だろ」
参拝客の女性はゆっくりと振り返りみーこさんを見た後、視界に入った僕の姿を見て大きな瞳は丸々と見開かれた。
「こずえ……」
そこに立っていたのは僕がよく知る人物であり、僕がこの田舎に来るきっかけとなった——元彼女だった。
な、なんで? なんでここにこずえがいるんだ?
いやむしろここどこだ? ここはあれか? 東京のどこかなのか? いや、そうじゃない。もちろんそうではない。
けれどそうじゃないとすれば、なぜ彼女がこんなところにいるんだ……?
——正直は僕は、突発的にパニックに陥った。顔は引きつり体は固まったままだというのに、僕の脳みその中は宇宙にまで飛び出す勢いで飛び立っていた。
「えっと……お二人はお知り合い、ですか?」
双方固まったまま、無言。そんな姿を見れば誰だって不思議がるだろう。その上ここにあらせられるのは他でもない麗しの女神、みーこさんだ。みーこさんが僕たちの不自然な様子に気づかないわけもない。
「あ、ああ……そうですね……」
なんと答えたらいいものか……今の僕にはそう答えるだけで精一杯だった。すると、こずえは僕から目をそらし、麦わら帽子のつばで顔を隠した。
なんとなくその様子は、別れを切り出された時の状況とダブって見えて、癒えかけていた僕の心がキュウと小動物のような鳴き声をあげた。
「あっ、依頼だ」
気まずい空気を割ったのは、みーこさんのこの一言。社務所の隣にある松の木の麓にあるおみくじを吊るす紐に、一つだけ寂しそうに括り付けられている。
「まっ、待って!」
みーこさんが社務所に向かうより先に、こずえは松の木までかけていき、そのおみくじにも似た手紙を引きちぎるように奪い取った。
「間違えました! ごめんなさい」
「えっ?」
手紙を握りつぶしてから、こずえはみーこさんに頭を下げ、そのまま鳥居へと向けて駆け出した。
ちょうどその時僕の隣を駆け抜けたこずえは、小さく「ごめんなさい」と懺悔の言葉を残し、僕の方を見ようともせずに階段を駆け下りて行ってしまった。
「……佐藤さんのお知り合いの方、だったんですよね?」
みーこさんは手紙を受け取れなかったことを悔やんでいるのか、少し元気のない様子で僕の元へと戻ってきた。
「せっかくの依頼だったのに、どうしたんでしょうか?」
僕にそれを聞いたところで答えは持ち合わせていない。そもそもなぜこずえがここにいたのかすら検討もつかないのだ。そんな僕には、彼女がどんな依頼をしようとしていたのか分かるわけもない。
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