動き出した計画~②
シンが黙って食べている間、彼女は一度だけチラリとこちらを向いたが、マスクをはずしてゆっくりとした動作で、少しずつ食べ始めた。しかし食べることすら面倒なのか、疲れるのかなかなか進まない様子だ。
それでも少しずつ口の中にいれていく。思わず大丈夫ですかと声をかけそうになったが、それを堪えて黙々と食事を取り、食べ終えた後は同じく持参したポットに入れたお茶を蓋のコップに注ぎ、ゆっくりと飲んだ。
彼女の食べる姿を極力見ないよう目を逸らし、くつろぎながらお茶を飲んでいる姿勢を崩さないよう心がけ、静かな沈黙の時を気にせず過ごす。気付けば彼女は箸を置き、食事を止めていた。
お粥は完食し、唐揚げには手をつけていなかったが、その他のおかずはほんの少し残した程度まで食べている。元の量が少ないとはいえ、徐々に食が戻ってきたという女将の言葉通りだと分かった。
シンは顔を上げ、彼女を正面から見る。マスクは元に戻していたが視線を上げ、こちらをじっと見ていたからだ。ただその目から生気は感じられず、まだ何か用なのと問うているように感じた為、思い切って口を開いた。
「知っているでしょうけど、僕の父も精神的な病にかかって入院までしました。今は休職中で自宅療養しながら通院していますが、先日久振りに会ってきました。それなりに元気でしたが、仕事に戻るのはまだ時間がかかりそうです。休職も二度目ですからね。慎重にゆっくりと休んで、自分の体の声を聞きながら無理せず回復するのを待っているそうです。体調も三歩進んで三歩下がるの繰り返しだと。でも一回目のことがあるので、三歩進んで四歩下がらなければ良い方らしいです。悪化さえしなければ時間はかかっても、ゆっくり進めばいい。一度下がっても立ち止まり、進みだせるまで待ってそれから歩きだせばいい。焦らず体の声に耳を傾け、ありのまま今の状態を受け入れるのが一見遠回りだけど一番いい方法らしいです」
そこで言葉を切り、お茶を一口含んだ。彼女も合わせるよう、お茶に手をつけた。
「ではお邪魔しました。盆は僕が返しておきますね。また来ます。いいですよね?」
椅子から立ち上がって目を丸くしている彼女に告げると、頷いたように見えた。お邪魔しましたと言って扉を開けてると、後ろから小さな声が聞こえた。
「ありがとう」
それだけで今日の所は十分だと思ったシンは、もう一度声をかけて階段を下りた。
「また来ます」
こうしたやりとりを平日は三日に一度の割合で繰り返した。夕食を一緒に食べ土日はどちらかの昼食時に、というペースで彼女が負担に感じないよう注意しながら続けたのだ。
当初夕食事は駒亭の食堂で自分に用意された分を盆に載せて運んでいた。だが外はもう寒くてすぐ暗くなる時期だったため、女将が気を利かせて夕食事も保温機能の付いた弁当にして持たせてくれた。
隠しているつもりは無かったが、途中でシンの行動に気づいた女将は、なぜ最初から言わなかったのかとキツイ口調で問い詰められた。余計な事をするなと止められるかもしれないから、何度かこのやり取りが抵抗なく繰り返しできるようになれば、相談しようと思っていたと正直に説明した。
「ここ何度かはただ二人で静かに食べているだけですし、時々僕が一方的にその日あったことを話したり、父親のことや自分のことを話したりしているだけですよ」
女将は彼女の様子を尋ねてきた。
「その間、美樹ちゃんは黙って聞いているだけなの?」
その問いに頷くとその後はシンから何か言わない限り彼女の様子を聞いたりはせず、静かに二人を見守ってくれていた。彼女の部屋に行かない日は、今まで通り駒亭から渡辺家に食事を運んでいた為、おそらく女将は渡辺さんから二人の様子や彼女に変化があるかを聞いていたのだろう。
もしかするとおじさんが疑ったように、女将も敵と通じているのなら二人のやり取りなどは盗聴され把握しているかもしれない。しかし表面上は顔に出さないよう心掛けているが、女将の様子から彼女を心の底から心配していると何度も感じられた。
よって敵に通じているとは信じられなかった。万が一そうだったとしても、何らかの事情で敵方の振りをしていて本当はシン達の味方だという可能性もある。真相は調査のプロのおじさんでさえグレーだと言うのだから、分かるはずもない。だから油断しないよう心がけながらも、最初から決めつけるのは止め、今まで通り接することに決めたのだ。
美樹とそんなやりとりを一カ月以上続けた。するとその内にぽつりぽつりと彼女も喋るようになり、時にはシンの話を笑って聞いていたりするまでになったのだ。食べる量も日に日に増え、用意する量もほぼ通常に戻りつつあった。
その為女将はシンが持って帰ってきた彼女の弁当を見る度に、残している量が減っていることを喜んだ。残さず完食した時など涙ぐんだほどである。心療内科の先生から出される薬の量も、最近は少し減らしているという話も嬉しそうに話してくれた。
そして十二月の期末試験も終わり、街の店や通りがクリスマスカラーに染まり始めた頃のことだ。冬休みも近づいている為か、学園では浮足立つ生徒達が出始めたある土曜日の昼、いつものように二人での食事を食べ終わった彼女は、突然泣き始めたのだ。
そこまで感情を露にした姿を初めて目の当たりにしたシンは、戸惑いながらも泣き止むのを見守り、何か話しだすまでじっと待っていた。十分近く続き泣き疲れたのか少し落ち着いた彼女は、ようやく小声で自分の事を語り始めたのである。
それは過去の出来事でもあり、告白でもあり、苦悩であり、後悔の言葉でもあった。隠し続けてきたものも含め、やっと今、自分の苦しみを他人に吐き出すことができるまでなったのだ。思い出すだけで辛いことを話す時は目を潤ませることもあったが、それでも彼女は黙って聞くシンに向かって、淡々と思いの丈を打ち明けた。
気づけば日の短い冬の空が赤く染まり始め、時間は夕方近くになっていた。それでも話は続く。余りにも長く喋り続けるため彼女の体調が気になった。それでも止められないような気迫と、今までにない気力を感じられた。
また話す内容の壮絶さに小説を読んでいるかのような、その物語の世界にシンはどっぷりと浸かっていた。だから窓の外が完全に暗くなり、途中で部屋の明かりを点け話が終わるまで、ずっと聞き続けていたのだ。
一通り話終わり、今度こそ本当に疲れ切った様子の彼女を見て、今日の所は一度帰った方が良さそうだと考えていたところ、部屋のドアがノックされた。渡辺さんのようだ。
「美樹ちゃん、起きている? シン君は? お夕飯を持ってきたけど、開けていい?」
もうそんな時間かと気づき、彼女を制してシンが代わりに答え席を立った。
「はい、今開けます」
扉を開けると心配そうにしている渡辺さんの手には、美樹の分とシンの弁当があった。
「すみません。今日は和多津さんの体調が良かったみたいで、すっかり話しこんじゃって。もうこんな時間ですね。和多津さんも休んだ方が良いので、僕はこれで帰ります」
そう言って彼女の分を受取り、食卓まで戻って弁当を置き話しかけた。
「今日は帰ります。また来ますね」
彼女はややぐったりした様子だったが、すっきりした表情をして頭を下げた。
「ごめんね。長い間引き留めちゃって。でも今日はありがとう」
「いいですよ。でも今日は食事が済んだら、早めに寝た方がいいですよ」
そう言い残し、部屋の中に入って立っていた渡辺さんの手からシンの分を受け取り、眼で合図をして二人で部屋の外に出た。その足で渡辺家の部屋に上がり、今度は一階のダイニングで駒亭の弁当を用意していた渡辺さんと一緒に食べることとなった。
食事をしながら今日の彼女の様子を報告し、話していた中身もどこまで喋るか悩みながらも、所々省略しながらほぼ大事な内容を含めて伝えたのだ。
その話を渡辺さんは時々涙を流したり、ある出来事の時など自分の事のように怒り始めたりと忙しく感情を変えながら聞いていた。そして話し終えた時、最後にありがとうね、また来て話を聞いてやってと頭を下げ、家の外まで送り出してくれたのである。
夜が更けた外はすでに真っ暗で空気はとても冷たかったが、シンもまた興奮していた。火照った顔には心地良い位だ。
その日は部屋に戻ってすぐ銭湯へと出かけ、熱いお湯に浸かって体の疲れを取り、今日くらいはいいだろうと参考書も何も開かず、早めに布団の中に潜った。そして今までに無いほど、その夜は深い眠りについたのである。
佐知子は年始の挨拶と聡の顔を見る為に、夫と共に車で名古屋の実家を訪れた。聡は年明けから本格的に大学受験が始まる。よって帰省する時間は無いと名古屋で年を過ごした息子の為に、受験合格のご利益がある有名な神社を訪れ、お守りを頂いてきた。
まずは井畑から持参したお土産を母の富士子に渡す。特にミカンは最高級のものを選りすぐってきた。聡の大好物でもあるから、いつもより沢山車に積んできた。受験の為に豊富なビタミンを含む果物は頭と体に必要だ。
しかし母は余り好きでは無いので表情が強張り、匂うから隅に置いてと素っ気なかった。けれど魚の干物を出すといつも喜ぶ。井畑の海で取れた秋刀魚や鰺等の干物は父も大好物なので、盆と正月の里帰りの際以外にも時折取り寄せて送っている。
和多津忠雄の嫁、
父も母もそういう物には目がなかった。ミカンも干物に負けず劣らずブランド化しており、持参するのは高級なものばかりだから、父は何も言わないが美味しそうに食べていた。
田口家本業のミカン産業は、実家からの支援で周囲の土地の買収を重ねて規模を拡大し、新しく建てた工場や研究所で品種改良を行ってきた。そして他の物とは差別化した高級ミカンの生産に成功したおかげで、今や井畑の地には無くてはならない特産品となっている。
一方同じく名家の和多津家は、美代が忠雄に嫁いだ頃こそ裕福で彼女の実家が貧しかった当時は、玉の輿に乗ったと喜んでいたという。それが今や共同経営の会社があるとはいえ田口家には生産規模も大きく差を付けられ、農家としての収入は少ない。
市役所に勤める息子の一や孫の実の給料と、嫁の美智子が共同経営の会社の手伝いで得ている収入が、和多津家の家計を支えているといっていい。それに孫娘の美樹が再び引き籠ってしまった状態では、経済的余裕など無くなっていた。
今の時代、農業を続けるには手間暇がかかる上、維持していく経費すら馬鹿にならない。跡取りもおらず細々と営んでいる和多津家が、いずれ所有する山を処分しなければならなくなるのは時間の問題だった。父の雅臣は早くからそこに目をつけていたのだ。
それこそ二十年以上前から田口家を支援し、和多津家が没落していく様を今か今かと待っていた。そして父が仕掛けた成果がいよいよ来年中には実を結び、悲願達成できるだろうと昨年の暮れに聞いた。今日の年始の挨拶はその前祝いも兼ねた集まりとなるはずだ。
今日は応接間と隣の広間の二間を繋げ、旅館の大きな宴会場ほどのスペースを作り、大きな長机がいくつも並べられた。その周りにはおよそ五十人分の座布団が敷かれている。毎回新年の集まりには、広間の中央の上座にドカンと座る父の元に、畠家一族の親戚達が一同に会し、挨拶をする為やって来た。
佐知子は毎年決まり事のように台所にいた母と義理の姉の
父に挨拶しようと部屋へ入った時、佐知子と茂は入口の端に座る聡の姿を見つけた。声をかける為近づくと、その周りには兄夫婦の子である雅文と仁美の姿があり、先に挨拶をされた。
「茂叔父さん、佐知子叔母さん、明けましておめでとうございます」
「明けましておめでとう。いつも聡が世話になっているようで、ありがとうね」
意地悪くそう言ったつもりだったが、相手は全く意に介さず、
「いえいえ、私達には弟のようなものですから。ね、お兄さん」
妹の仁美がそう返してきた。聡のいとこにあたる仁美は、佐知子が卒業した名門の短大に通う大学生で、春には父の顔が効く会社へ就職が決まったと耳にしている。
ただこの小娘は侮れない。聡が下宿しだした頃からちょっかいを出し、大学時代の情報網を使って調べた所、二人は付き合っているのではないかとの噂まで聞いていた。聡も仁美にべったりで、一度さりげなく注意したがその時から完全無視され、その話題を口にすることさえ許されなくなった。
幸いと言っていいのか、受験勉強の方は確かにしっかりとやっているようだ。学校の成績も良く、模試の成績も第一希望である東大二類の合格判定はA、悪くともBを取っていた。実家に下宿させた成果は出ていたため、多少の事は目を瞑るしかない。
東京の大学を卒業し、昨年から実家に戻って地元の地銀に就職している雅文は、聡とは余り一緒に暮らしていなかったため、仁美の言葉には曖昧に頷いている。
二人は成人しているのでお年玉をあげる年でもない。彼らに構うことは止め、見慣れない眼鏡をかけている聡を見る。最近勉強のしすぎか視力が落ちたので眼鏡かコンタクトを作るお金を送ってくれと言われていた。結局眼鏡にしたのねと声をかけようとしたが、言葉を交わす間を与えないためなのか、そっけない口調と目で促された。
「こっちは後でいいから、先にお爺ちゃんのところへ行った方がいいよ」
視線の先に目を向けた瞬間、父と目が合った。慌てて横にいた茂の手を引き、上座に辿り着くまでに出会った親戚達と簡単な挨拶を交わしながら、急いで辿りついた。
「お父様、新年明けましておめでとうございます。本年も宜しくお願い致します」
茂とともに頭を下げ、新年の挨拶をしたところ、
「おめでとう。今年は大事な年だ。詳しい話は夜にしよう。今は他の方と挨拶しておきなさい。それに聡は年末の里帰りができなかったから、後でゆっくり話をしていけばいい」
そう言ってお前らはもういいとばかりに父は横にいる親戚と話を戻し、再び周りから注がれる酒を飲みながら談笑を続けた。悔しいので
「もういい歳だから、余り飲みすぎないでね」
と嫌みの一つを言い捨て、再び下座へと戻りながら声をかけてくる親戚達の相手をしている間に、気付けば聡と仁美の姿が消えていた。雅文は別の親戚に捕まり何か話をしている。
気にはなったが、今この場所から席を外すわけにはいかなかった。父の娘として畠家一族をもてなすことも大事な仕事だ。それに夜は大事な話があると事前に聞いていた。そこで聡と話をすることを諦めたのである。
その日の夜、父の書斎に佐知子は茂と呼ばれた。そこには昼間顔を出さなかった義母の田口洋子と和多津家の次女、久代がいた。親戚一同が帰った後でこの家に入り、別の部屋で待機していたようだ。
他には若竹学園の教師と名乗った定岡という男と、経産省官僚の遠藤という役人が同席しており、紹介されたため挨拶を交わす。二人とも初めて会う人物だ。
七人の顔が揃い書斎のソファに全員が腰を掛けた。そこでふと父の書斎机の上にどこかで見かけたものを発見する。気になったのでそれは何かと聞くと、
「聡のだよ。さっきまでここにいたからな。置き忘れたのだろう。気づいたら自分で取りに来るさ」
どおりで既視感があったはずだ。今日広間で会った時に聡がかけていたものである。
「仁美から先月貰ったクリスマスプレゼントらしい。本人は気に入っているようだが、まだかけ慣れていないのだろう」
プレゼント? 私が送金したお金で買ったものではないのか。ならばお金はどうしたのかと疑問を持つ。また父の表情と口ぶりからも、聡が喜んでいるから仕方がないが貰った相手が仁美だというのが気にくわない、という思いが伝わってくる。
話題を変えたかったのか、父が洋子と久代の方を向いて本題の話を切り出した。
「ところで遠くから来てもらって悪いが、早速両家で話がまとまったかを聞かせてくれ」
最初に洋子が答えた
「田口家では茂や佐知子さんもご存じの通り、受け入れ態勢には問題ありません」
「そうは言っても正明の態度がはっきりしないようだが、そっちはどうだ。和多津家の山を共同出資する会社で買い取る話に賛成したとは聞いている。正明も忠雄の為にもなると思い、了承することまでは計算済みだ。問題はその後の計画に協力するかどうかだ」
「最初は思い切りませんでしたが、周囲からの説得が効いたのか、了承してくれました」
洋子がそう答えると、父より先に遠藤と名乗った役人が口を挟んだ。
「それは本当ですか。田口家は共同出資会社で土地を取得した後、国の事業として行う計画の為に提供していただくことは間違いないと考えていいのですね」
「はい。そう理解していただいて結構です」
その答えに父も満足したように頷き、今度は久代に話を振った。
「和多津家の方はどうだ。忠雄は土地を手放す決心がついたのか」
「大丈夫です。年末に家族会議を開きましたが、兄も売却の件は父に一任すると言いましたし、父も決心したようです。年明けには田口のお義父さんや茂さんと話をし、新会社についての詳しい説明と売却額も確認して書類に判を押すつもりだ、とのことでした」
「忠雄が書類に判を押しさえすればいい。その後の土地に関する利用方法に関しても、売却先の新会社に一任すると一文を書いておけよ。そうすれば、計画が発表されてから文句を言っても手遅れだ。もちろん新会社の持ち株も田口家や私達で半数以上確保しておけ」
「それにしてもよく決断しましたね。よほどお孫さんへの攻撃が効いたのでしょうか。さすがは戦略家の畠家先生の発案です」
ご機嫌な父の言葉に、遠藤が判りやすいゴマスリを重ねる。だがそれは余計な一言だった。その証拠に父の表情が一気に険しくなる。
「戦略って? 孫への攻撃って何のことですか?」
詳細を知らされていない久代が尋ねた。洋子や茂、佐知子は事前に父から計画の一端を聞いていたが、田口家の嫁だが和多津家の人間でもある彼女には伏せていたことだ。
彼女は姪の美樹を小さい頃から可愛がっていた。井畑で引き籠っていた彼女を、一や美智代と共に和多津家一体となってどうすれば元気になるか、と本気で心配していたほどだ。
そこで美樹の噂を意図的に若竹学園内で広める工作についてはあえて話してなかった。
「そんなことはどうでもいい。それより今後の流れを打ち合わせする為に、新年早々集まったんだ。遠藤君、そっちは間違いなく計画を進めているんだろうね。余計な手間をかけさせるなよ。こっちは二十年以上前から練ってここまで漕ぎつけたのだ。君はその頃何をしていた。学生かせいぜい官僚になったばかりで下端仕事をしていた程度だろう。本来今回の窓口はもっと上の人間がやってもおかしくない。なんなら今からでも変えようか」
「も、申し訳ございません。大丈夫です。現在国交省と連携して行っている、地方創生と亜炭発掘跡の地下埋蔵作業を組み合わせた特区の選定会議で、井畑は間違いなく選ばれます。早ければ来月に発表し、年度末には井畑との正式な調印もできます。必ずします」
「本当だな。それなら土地の手続きも急がなくちゃいかん。発表される前には新会社へ移行しておけ。判っているな、久代。余計なことは考えるな。まずは土地の売却を急ぐことだ。それで和多津家には莫大な金が入る。もちろん田口家にとっても大きな利益だ。お前は大事な役割を任されているんだぞ。逆に計画が失敗すれば和多津家も田口家も崩壊するだろう。一や実も役所勤めの人間だ。今後一生窓際で働くことになるかがかかっている。地方の一役所の人事なんぞ私の一言でどうとでもなる。分かっているな。私を怒らせるな」
彼女に美樹の話をこれ以上口にするなと言外に含ませ恫喝した。彼女も話の途中で父から事情を聞けないことを悟り、周りをキョトキョトと見渡す。説明してくれそうな人物を探っていたようだが、誰も目を合わそうとしない状況と最後の脅しに怯えたのか、最後は首を項垂れたまま、声を震わせながら答えた。
「わ、分かりました。今月中に売却の手続きを取れるよう、段取りをつけます」
当然だろう。実の娘の佐知子でさえ父に反抗などできないのだ。まして彼女はこの計画の仲間だが、父と直接顔を合わせたことは数回程度である。その時は和多津家の土地を売ることが田口家に嫁いだ彼女にとってどんなに得な事か、売らないとどうなるかを滔々と説明され、いい気にさせられていただけだ。
跡取りのいない和多津家に残された人達で農業地である山を相続すれば、優遇されるはずの税が適用されず、莫大な相続税を払うはめになる。その為結局山を手放さなくてはいけないと父からも畠家御用達の弁護士からも彼女は説明を受けていた。
その上暗に政財界への力を持つ父の仕事を手伝えば、役所勤めの一や実の地位も今後は約束されるだろうことを匂わせていた。さらに田口家の嫁としての地位も大いに高まると期待させ、甘い言葉ばかりをかけ続けられて今に至る。
それがここにきて失敗は許されないと初めて父の怒りに触れたのだ。田舎育ちで井畑からほとんど外に出たことのない世間知らずの四十を過ぎたおばさんにとって、海千山千の父に叶う訳がなかった。その迫力の前では蛇に睨まれた蛙どころではなく、巨象と蟻程の差がある。
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