美樹が若竹学園へ~④

 お互いが頭を下げ、廊下を出て階段を下り玄関を開けた。外では業者が玄関先に車を止め、防護用のシートを持った一人が今にもインターホンを押そうとしていた。

「早速お願いしますね」

 千夜は門の近くまで駆け寄り業者の一人に声をかけると、先ほど使った柵の扉を通り一階の玄関を開けて中に入った。その後を追うように女将がバタバタと走ってくる。もう戻ってきたようだ。

「美樹ちゃん、お願いね」

 そう一声かけ、何か書類が入った茶封筒を持って千夜の家に入っていった。彼女の行動の早さに驚いていると、業者の一人に声をかけられた。

「これから運びます。大き目の物から入れるので、どこに置くか指示して貰えますか?」

 そうだ、自分にはやることがあったと思い出す。判りました、お願いしますと返事をして階段を再び上がり、廊下の突き当たりにあるリビングの部屋へと戻った。

 しかし改めて見渡すと部屋が広すぎる。どこに運ぶかと言われても。そう心の中で呟く。それでもすぐに頭を捻り、右側の部屋の南側に机を置き、ベッドは西側の窓の下、本棚は一旦リビングの部屋へと運んでもらった。

 衣装ケースはクローゼットがあるから中身を移してと指示し、後は段ボールを運び終えて作業自体はそれほど時間がかからなかった。

 業者達が出て言った後、あらためて部屋の中を眺める。色々運び込まれているが、台所のカウンターキッチンの前と、リビング側の窓の辺りのスペースがぽっかり空いていた。テレビは持っていない。あまり観ないが駒亭での共同スペースにあったし、今はデスクトップのパソコンでも見られるからだ。

 ソファも自分専用はない。その為広すぎるリビングスペースには小さな低い丸テーブル一つと本棚が二つあるだけで、とても質素な風景に見えた。

「ソファぐらいは、買い揃えないといけないかなあ」

 すでに業者が去り、一人取り残され独り言を口にした。この広さでくつろげる場所がベッドだけ、というのも寂しい気がする。といっても約一カ月後には戻らなければならない。余り大きな物を買えば部屋に入らなくなる。

 そう言えばドラマでソファにも椅子にもなる丸い、ふかふかのものに座っているシーンがあった。あれを一つ買って丸テーブルの所に置き、そこへ座って南側から入る日差しを浴びながら本を読んだり寝転がったりしてもいいか、と色々頭の中で想像してみる。

 その程度なら駒亭に戻っても使えるし、邪魔にはならない。部屋は少し狭くなるが、それぐらいいいだろう。そんな想像ばかりを膨らましたが、段ボールが目に入った途端現実に引き戻された。

 早く箱から出して部屋を整理しないといけない。下にはもう女将が来ている。千夜との用が済めば後は私が下に来るのを待つだけだ。

 慌てて手近な箱のテープをはがして中の物を出す。作業に没頭しているとスマホが震えだした。父からのメールだ。いつの間にか午後の四時を回っていた。もう近くまで来ているのかもしれないと思って開くと、その通りだった。

 “若竹インター手前のパーキングエリアまで着いた。インターを降りて二十分もすれば駒亭に着くから”と書かれている。まず返信をした。

 “着きそうになったらもう一度メールか電話を入れて。迎えに行くから。新しく入る下宿先はもう決めたので案内します。場所は駒亭から歩いてすぐ。広くて良い部屋だし、大家さんもいい方だから安心して”

 送信してからスマホのカメラで部屋の中を複数枚撮り、それを添付したメールを追加で送った。また父だけでなく母親宛てにも送信しておく。部屋の様子を先に見ていれば、父も少しは安心すると思ったからだ。特に遠くで動揺しているだろう母には、早くこの素晴らしい部屋を自慢して安心させたい気持ちが強かった。

 部屋の中を再度見渡し、視線を南側の窓の外に向ける。外はもう日が傾いて夕焼け空が広がっていた。青く澄んでいた青空がいつの間にか赤く染まっている。昼前に事故で呼び出されてバタバタとしている間に、もうそれだけの時間が過ぎていたのだ。

 窓の下を覗くと、奇麗に整えられた小さな緑の庭が見える。周りは元々閑静な住宅地だ。この時間も静かだった。ああ、この家でしばらくの間暮らすことになるのかと思うと気分が穏やかになっている自分に気付く。本当は一人になりたかったのだ、と改めて思った。

 少し感傷に浸っていたが、もうすぐ父が着くことを思い出し、慌てて残りの荷物を整理し始めた。今夜からこの部屋に寝泊まりするのだから、ある程度は終わらせる必要があった。

 それに連絡が入れば父を迎え、階下に来ている女将と千夜に挨拶して貰わなければならない。もうこんな時間だし、明日は土曜日で市役所も休みだろうから、父は泊まっていくだろう。布団は予備があるし、部屋の広さは十分だ。

 初めて駒亭に引っ越して来た時は、手伝いに来た母だけが一晩泊まった。あの時美樹はベッドで寝たが、母は床に予備の布団を敷くしかなく窮屈そうだったことを思い出す。 

 だがここだとそんな心配をする必要は無い。両親が二人泊まったとしても有り余るほどのスペースがある。そうだ。せっかくだから夕飯は父と外食しよう。駒亭で食べる予定だったが、理由を告げてキャンセルしておけば、女将も許してくれるはずだ。

 駒亭の規則では、基本的に土日も含めて朝晩の食事とお昼のお弁当は、何も言わなければ準備される。その為食事が必要ない場合は、事前に申し出る必要があった。食堂の隅に貼られている朝昼晩とそれぞれの下宿生に名前が書かれた表に、いらない場合のみ×を基本的には前日までに記入することと決まっている。

 取り急ぎ最小限必要な物を箱から出し、今夜から生活できる程度に整頓を終わらせると、階下に降りて一階の玄関を開けた。先程鍵はかけずに開けておくからと言われていたからだ。

「お邪魔します」

 一声かけると、左手にあるドアの向こうにいるらしい二人の声が同時に聞こえた。

「上がって頂戴」「上がってきて」

 はいと返事をして靴を脱ぎ、声がした部屋のドアを開ける。女将達がいた場所は客間のようだ。広さは七畳程で中央にどっしりとした横長のテーブルがあり、両側に黒い革張りのソファが置かれていて、奥に千夜が座っていた。

 手前に女将が腰掛けていたので、美樹はその隣に着いた。一階の間取りは二階と同じ三LDKらしい。そうするとこの客間は二階だと、開かずの部屋の真下に当たるようだ。客間の南側に面した窓から庭が見える。今は遮光カーテンが引かれ、赤い夕陽の光が差し込んでいた。その明かりだけでは暗いからか、部屋には電灯が点けられている。

 美樹が座ると入れ替わるように千夜が立ちあがり、部屋から出ていった。その行動の意味を尋ねる意味で女将の方を向いて首を傾げると、その答えが返ってきた。

「美樹ちゃんの分のお茶でも入れにいったと思うわ。少しここでゆっくり休んでなさい。上の片づけで疲れたでしょ。それと一さんはまだ見えないかしら?」

「インター近くまで来たと連絡がありましたから、もう少ししたら一度連絡が、」

と説明している途中でスマホが鳴った。今度はメールでは無く電話だ。まさに今話していた父からだった。女将に断りを入れ、急いで通話ボタンを押して耳に当てた。

「着いた? じゃあ食堂の駐車場で待っていて。すぐ行くから」

 察しのいい女将には伝わったらしく、早く行ってらっしゃいと急きたてられた。一度お盆にお茶とお茶菓子を乗せて客間に戻ってきた千夜も察したらしく、

「行ってらっしゃい。待っていますから」

とすぐまた廊下へと出た。後から来る父の分を用意するためだろう。

「それでは行ってきます」

 玄関を出て小走りで駒亭の食堂へと向かった。既に待っていた父は、片手に大きな手提げバッグ、もう片方にはお土産らしき大きな紙袋を持ち、顔をみるなり声をかけてきた。

「大変だったな。部屋の写真も見たよ。良い所じゃないか。もう終わったのか?」

「うん。詳しい話は向こうの家でね。女将さんも今度の大家さん、千夜さんも待っているし早く行こう。すぐそこなの。荷物は私も持つから。で、これ何?」

 父の手にある紙袋を預かり、歩きながら尋ねた。

「ありがとう。これは駒亭の方々へと新しい下宿先の大家さんへのお土産だ。時間が無くて途中の道の駅で適当に買ったから、たいしたものじゃないけどな」

「しょうがないよ。それより仕事は? お母さんが来ると思っていたから驚いたよ」

「お母さんから連絡をもらってすぐ上司に理由を説明したんだ。そうしたらちょうどM市の市役所に届ける書類があるから、出張扱いにするので行って来いって言われたのさ。電車よりも車の方が何かと便利だろうし、とね。書類はもう届けた。だから出張も終了だ。かなり無理してもらったから、帰りは向こうの職場へお土産を買わないといけないけど」

「そんなことまでしてもらって大丈夫なの?」

「問題ないさ。今は色々打合せしている件があるからね。美樹が気を使うことはないよ」

「ふうん。で、お母さんは? 今忙しいの?」

 そう尋ねると父は一瞬眉間にしわを寄せたが、表情を変えて答えた。

「少し急ぎの仕事がね。それに俺が早く動けたから来ただけだ。明日には来られると思う」

 その様子からおそらく母は和多津の家では無く、自分の実家で和多津家の隣にミカン畑を持つ、田口たぐち家の仕事に駆り出されているのだと推測できた。田口家と和多津家とは今や深い親戚関係だが、両家の間では複雑な事情が絡んでいる。

 だから母は時々田口家から依頼された仕事に振り回され、忙しく働いていることは知っていた。そのこと自体父は良く思っていない。しかし農家を継がなかった立場では口を出せず、黙認しているようだ。

 父の説明に頷いた後は気まずい空気が流れ、そのまま二人は渡辺家に着いた。美樹が門のカメラ付きインターホンを押すと、千夜はすぐに出た。

「はい、あら、美樹ちゃん、どうぞ、お上がり下さいね。遠いところご苦労様です」

 後半は向こうのカメラに写っているだろう父に向けての言葉のようだ。父はありがとうございますと挨拶し、いい人そうじゃないか、そう言ったでしょ、良かったなあ、と先ほどまでの気まずさを忘れるように、二人は囁きながら庭を通り玄関を開けて中に入った。

 すると千夜と女将がお出迎えするように立っていた為、玄関先で社交辞令も含めた長い挨拶を一通り終えてから、ようやく二人は客間へと通された。

 その後女将が改めてこれまでの流れを父に説明し、短期間ですがこちらでいいならと、契約書のような紙を見せられた。駒亭を通して千夜と下宿する美樹との三者間で取り交わす賃貸契約書のようだ。

「サインは一さんが二階の部屋を見てからにされますか?」

 との女将の確認に、父は首を横に振った。

「いえ娘が気に入っていますし、女将のご紹介ですから問題ありませんよ」

 そしてざっと契約書に問題ないことを確認して三者でサインと捺印を押し、父は美樹の保証人として署名捺印をした。その間に今日の夕食は父と外食をしたいと伝え、了承を貰った。女将は用が済むと素早く席を立ち、後はお願いしますと戻っていった。

「女将さん、忙しそうだね。さっき聞いた話では家の修理の打ち合わせもあるだろ?」

 父が千夜の用意してくれたお茶を飲みながら尋ねてきた。

「それもだけど、いつもは夕飯の準備や仕出し弁当の準備で忙しいのよ。今日は事故の件があったから、代わりをお願いしているようだけど、じっとしていられないんだね」

「女将さんは仕事が早いから。あの人じゃないとこんなに早く下宿先が決まらないだろう。荷物だってもう運び終えたって言うから、驚きだよ」

「私もびっくり。事故自体は不運だけど、結果的に良い部屋へ入れたからラッキーだったかも。バタバタしたけど、得しちゃった気分だから」

「そうか。あとでゆっくりお借りする部屋を見させてもらおう」

 二人の会話に、千夜は優しく微笑みながら参加した。

「これから外食されるのでしょ? 明日は土曜日でお役所も休みでしょうし、今日はこちらに泊まられてゆっくりしてくださいね。お食事はどちらに行かれるの?」

「はい、お言葉に甘えて今日は泊まらせていただきます。食事はM駅近くで親戚が鰻(うなぎ)屋をやっていまして。こちらへ来た時しか寄れないものですから今日はそこで、と」

 父が答えると、千夜は少し驚いた顔をした。

「鰻屋といえば“ウナギのミタ”がこの辺では有名ですけど、もしかしてそちらの?」

「ご存知ですか。そこの三田みたが家内の母親の実家でして。今は家内の伯父がもう高齢なので、従兄弟の息子夫婦が後を継いでいます」

「あの三田さんと御親戚ですか。今はどこも鰻はお高いですけど、あちらはお値段も良心的で、味も良くて昔から評判ですよ。この辺りじゃ老舗ですから、私も昔は何度か寄らせていただいたことがあります。良い御親戚をお持ちですね」

 身内を褒められ、父はその言葉に心から喜んだ。美樹もまた嬉しかった。母の従兄弟である健一おじさんには、高二の娘と高一の息子がいる。残念ながら二人とも若竹学園ではなく地元の県立高校へ通っているが、昔から仲の良い親戚付き合いをしていた。

 あの店の鰻が食べられるのも楽しみだが、彼女達に会えることはさらに嬉しい。渡辺さんも良ければご一緒にと父は一応お誘いしたが、千夜は心得たように親子水入らずの方がいいでしょうと、やんわり断っていた。

 美樹達は一度二階へ荷物を置き、ざっと部屋を確認してから時間も時間だから先に食事へ行こうと用意して外に出た。通勤にも使っている父の車に乗って移動したのだが、車内では千夜の話ばかりしていた。

「あのお婆ちゃんはいいね。すごくいい」

「そう! お父さんには悪いけど、和多津のお祖母ちゃんは漁村育ちのせいだって自分でも言うけど、喋る言葉が汚くて煩いじゃない? 田口のお祖母ちゃんも生まれは三田家だから少しはましだけど、性格はきついし。でも千夜さんの上品な話し方や仕草を見ていると、本当のお祖母ちゃん達よりもずっと優しく見守られている感じがするのよね」

「はっきり言うなあ。でもその通りだな。ここだけの話、確かに母さんは気が荒くて口が悪いし、三田のお義母さんも元は鰻屋の看板娘で、田口のお義父さんが見初めて井畑に連れてきたと聞いたけど、商売人の娘らしく頭の回転は速い分、口が達者だから」

 そう苦笑いをして美樹の意見に同意した。

「でも渡辺さんは違うな。お一人だからか少し寂しそうだけど、品があるし笑った表情が柔らかくて、会ったばかりでも親身だ。良い人だってことがすごく判るよ」

「そうなの。工事の期間だけじゃなく、ずっと下宿させてもらえたらなあ」

 思わずそう口にしたが、さすがの父もその話には頷いてくれなかった。。

「それはまずい。女将になんて言うんだ。紹介したのも駒亭だし、あそこにだけは絶対迷惑をかけられないからな」

 当たり前だ。何せ父の勤める市役所の関係も含め、学園との繋がり等色々あるから美樹は駒亭に下宿することとなったのだ。その経緯は良く判っていた為、それ以上は何も言わなかった。

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