美樹が若竹学園へ~③

「美樹ちゃん、荷物が運び終わるまでしばらくやることも無いから、その間に渡辺さんの家へ部屋を見に行きましょう。すぐそこよ。それとご両親は?」

 感傷などに浸る暇もなく急かせれ、慌ててスマホを取り出す。そこで一通メール着信があった。荷造りに没頭していたため気付かなかったようだ。中身を開くと、

“お父さんが高速に乗って車でそちらに向かっています。夕方五時頃には着くでしょう。近くまできたら、連絡があると思います。”と書かれている。驚いたことに母では無く、仕事中の父、和多津はじめがこちらにくるという。

 母は実家のミカン農家の手伝いをしているが、急な用件があっても抜け出せないほど今の時期は忙しくないはずだ。ただ母が来るならまずバスに乗り、M市に向かう特急が停まる猪野山いのやま駅へ向かわなければならない。その他乗り継ぎの時間も合わせると、下宿まで四時間余りはかかる。それでも夜までにはこちらに来られるはずだ。

 何か外せない用事でもあるのだろうか、と少し訝った。山奥の井畑から来るより井畑町が属する猪野山市の市役所に勤めている父が、高速を使って車を飛ばせば母より早く来られることは確かだ。

 しかし休みを取らない限り、そんなことはできないだろう。五十代の父は市役所でそれなりの役職に就いているが、娘の引っ越し程度で急な休みを取れる程融通が利く立場だとは思えない。

 同じ市内でも実家のある井畑町から市役所までは、山道を通って車で一時間程かかる。市町村合併を繰り返して大きくなった地域では良くある話だ。もちろん市の出先機関が実家からそう遠くない場所にあるため、井畑町民として不便な事はそれ程無い。ちなみに兄のみのるは父と同じ市役所の役人で、実家近くの出先機関に勤務している。

 母では無く父が向かっていることを女将に伝えた所、少し驚いていたがすぐ納得したようだ。

「それは大事な娘さんだもの。短期間とはいえ新しい家に間借りするのだから、大家さんへの挨拶が必要でしょう。今後の事もあるから気を使ったのね。急とはいえ遠くから父親が来たとなれば、下宿させる方もきちんとした所のお嬢さんなので安心ね、ってなるでしょ。一さんは市役所にお勤めで身元がちゃんとしているし。そういう人だと相手の信用度も上がるの。最初が肝心だから。まだ田舎のこの辺りでは大切なことなのよ」

 言わんとしていることは良く理解できた。ここよりずっと田舎の井畑では、そういった傾向がさらに強い。余所者に対しては警戒心が働き、親類やその知人など身元が判っている人には垣根が低くなる。さらには地位や名誉があったり、信用度の高い職業に就いていたりする人には弱く、そうでない人には風当たりが厳しい。

 一旦信頼できると認められればその結束はとても固い。だが輪に入れない者は住み辛くなる。それが田舎だ。そういう環境下では役所等の公務員は安定した職業とみられ、身持ちが固いと評される。

 兄が高校を出てすぐ父と同じ道を歩んだのも頷けた。美樹も同じような道を目指そうと思ったこともあるのだ。しかし今はそれが許されない。だからあの場所から離れざるを得なかったのである。

 父が到着するまでに部屋の内見はできるからと女将に背中を押され、渡辺さんのお宅へと向かうことになった。駒亭から歩いて一分もかからない、ほんの少し歩いた場所にその家はあった。

 数年前に二世帯住宅へと建て替えたばかりらしく外観は新しい。こぢんまりとしたシンプルでとても素敵な二階建ての白い壁の家だ。柵が立っていて、その隙間から緑の庭が見える。その佇まいがとても上品に感じられた。

 建物の玄関から少し距離を置いた場所に低い門が二つ。道路から見て右側の門にはないが、もう一方に「渡辺」という表札がかかっていた。女将はそちらのインターホンを押す。二つの門の先にはそれぞれ庭石が続き、突き当りには玄関の扉がある。

 平行に走る庭石の道との間には、赤レンガと白く塗られた鉄の柵で造られた低い垣根が立っていた。一目で世帯同士のプライベートスペースは守りつつ、しかし明確には区切られていない、とても考えられた構造だと判る。

 はい、というインターホン越しに答える声に女将が名乗った。今行きますと返答があり、しばらく経ってから玄関が開いた。

「まあ、いらっしゃい」

 先ほど聞こえた優しい声が似合う、背が低く柔らかい笑みを浮かべた品の良い老婆が現れた。この人が渡辺のお婆ちゃんらしい。家や庭と同じく大家の第一印象は良い。

 女将が先に頭を下げて挨拶した。

千夜ちよさん、先ほどお電話した件ですが、さっそくお部屋を見せていただけますか。こちらが和多津美樹さん。美樹ちゃん、この方が渡辺千夜さん」

 紹介されたため、和多津ですと慌てて頭を下げて挨拶した。

「まあ、この度は災難だったわね。早速上がって見て貰いましょう。お話はその後で」

「ではお言葉に甘えて、失礼します」

 女将がそう答えた後に美樹も小声で失礼しますと挨拶し、後ろに続いた。

千夜は出てきた玄関の鍵を閉め、隣の玄関との間を遮る低い柵にある留め金を上げて軽く押した。すると柵の一部が開き、人一人分通ることができる幅が現れた。仕切りはあるが、隣の玄関との行き来を円滑にする為作られた近道のようだ。 

 よく見ないと気付かないほどさりげなく、玄関近くの一か所だけその出入口が設置されていた。門も玄関も別で、低いとはいえ間には柵がある。外から来た訪問者には、別々の世帯だと分かりやすい作りになっていた。

 しかし実際二世帯家族が住んだ場合、上に住む人が下の階に訪問する時やその逆の場合でも柵を跨ぐか、門を出て大周りするのは不便だろう。その為に作られた通路らしい。各々の私的空間を守りながらも繋がっている、慎ましい姿がその小さな扉から感じられた。 

 だけど現在ここに住んでいるのは千夜一人だ。二階に住む予定だった娘夫婦も、一階に住んでいた彼女の夫も今はいない。この扉を開けて行き来するのは彼女一人だ。それも時々誰もいない二階の窓を開け空気を入れ替えたり、掃除をしたりする為だけに使われるのだろう。そう考えるとこの小さな扉が、寂しい存在にも思えた。

 扉を通った千夜は取りだした鍵で隣の玄関を開け、入ってすぐ右手にあるスイッチを押した。玄関先に白色の明かりが灯り、目の前には二階へと続く階段が現れる。同時に二階の電灯も点いたので、その光が階段の足元を照らす。玄関先の左手に胸の高さほどの靴箱があり、その上には小さな一輪挿しの花瓶が一つ、ぽつんと置かれていた。 

「どうぞ上がって下さい」

 千夜に続いて女将、そして美樹が階段を登った。上りきった二階の廊下に立つと真正面に扉があり、そこはトイレだと教えられる。その左手を見ると、さらに奥へと長い廊下が続いていた。その突き当りにもドアがあり、その先が間借りする部屋だという。

 そちらに向かって歩き始めてすぐの、トイレの隣にある右手の引き戸が開いていた。そこから洗面、奥が風呂場だと分かる。覗いていると前を歩いていた千夜から声がかかった。

「ここはあなたが使うかもしれないところだから、しっかり見ていってね」

 そこで灯りを点け、美樹だけが洗面スペースに入った。入口すぐの右横にはまだ新しい、美樹の背より少し高い真っ白な洗面ドレッサーがあり、前面は鏡でその両脇にライトが付いていた。鏡の横には棚が二つ、洗面の蛇口はシャワーノズルとしても使えるようだ。

 洗面の下の扉を開けてみると、物が入れられる広めの場所が確保されていた。駒亭で使う洗面所は横に広く同時に三人までが使えるものだ。しかし下宿人が五人いるので使う時間が重なる時も多く、三つ全てが埋まっていれば待たなければならない。

 自分のペースで行動できないこともそうだが、自分が使用している際に横に人がいることも正直ちょっとしたストレスに感じていた。だがここだとその心配はない。これまでは複数人と同居の下宿が前提だったからこんなものだと我慢していたし、やがて慣れるだろうと考えていた。

 けれどもいざ一人で使える新しい洗面台が現れたことで、今までの生活が思っていた以上に窮屈に感じていたのだと気づかされる。横にはこれもまだ新しいドラム式の洗濯機が置いてあった。

「それも使って良いのよ。全自動で乾燥機もついているから便利よ」

 背後から千夜がそう教えてくれた。同じものを一階でも使用しているらしい。

洗濯もそうだ。駒亭ではもっと古いタイプの二つのドラム式洗濯機を共同で使用している。これも洗面と同様に使いたいタイミングが重なることがあった。それに横で使っている人に、自分の洗っている下着などを見られることが少し抵抗を感じていた。

 だがここだとその心配も無くなる。洗濯機の正面にある、半透明のプラスチック窓のドアが開いていて白い浴槽が見えた。中はとても広い。真っ白の壁に真っ白のバスタブ、真っ白な床が目に飛び込んできた。

「掃除は時々しているから綺麗だと思うけど」

 言葉通り、とても清潔に保たれている。ここを一人で使っていいなんて夢のようだ。この時点で既にここへ移り住む前提で周りのものを観察し始めていた。誰もいないこの二階でなら、学園から帰ってきてから他人の目を気にせず自由な服装に着替えることができる。

 廊下を挟んでトイレや洗面スペースの反対側には扉が二つあったが、そこには鍵がかかっているそうだ。娘さん夫婦が使うはずだった部屋で、今は時々空気の入れ替えに入る場合を除き、開かずの部屋となっているらしい。

 洗面から出て右手に曲がると、廊下のつき当たりに扉が一枚、その右横に少し廊下が広くなった場所があって、もう一枚ドアがあった。先に千夜の手で右側のドアが開かれる。すると真っ白な床が目の前に広がった。右手にはクローゼットもある。

 方角でいうと西側には小さめの、正面の南側には大きめの窓が腰から上ほどの高さにあり、両方の窓には白い遮光カーテンがひかれていた。今日の天気だとカーテン越しに日差しが入り、電気を点けなくても部屋は十分明るい。

 それでも千夜がそのカーテンを開けると晴れた空から光が差し込み、白い木の板で張られたフローリングに反射して、一気に部屋全体が眩しいほど輝いて見えた。

「ここがあなたの寝室兼勉強部屋になるかしら」

 広さはここで七畳らしい。ほんの少し駒亭の部屋より狭いようだが、何も置かれていないからか、広さは気にならない。部屋の左手には四枚の木目の板の引き戸がある。これが隣との仕切りらしい。先ほど廊下から見た左手の扉が、隣の部屋への入り口なのだろう。

「この仕切り、夏やこれからの季節は開けたままの方が、風通しも良いわよ」

 そう説明しながら千夜の手により、引き戸が一枚だけ横にスライドした。すると目の前にはさらに広い空間が現れた。部屋の左手の壁に台所、その前に小さなカウンターがある。カウンターを越えた場所がキッチンで、その手前がリビングダイニングになるのだろう。こちらは十一畳だという。広い。一人で住むには余りにも広すぎる。

 部屋の南側には隣と同じ大きな窓があり、そこにも白い遮光カーテンが引かれていた。正面の東側の壁にも小さな窓がある。南側のカーテンを千夜が開けて日の光を入れると、部屋全体の輝きがさらに増し、壁と床の白さが際立った。

「せっかくだから全部開けてみましょうか」

 部屋を仕切っていた残り三つの引き戸をスライドさせ、一枚の引き戸と重ねる。部屋全体が繋がったことでさらに広くなり、東と南から入る陽の光で部屋が一段と明るくなる。ここへ来る前に条件の差を耳にしていたが想像以上だった。

 駒亭の部屋は、台所無しの畳の部屋で八畳。ここは台所とリビングダイニングと合わせて十八畳。倍以上の広さで、さらに美樹専用のトイレと洗面、お風呂がここにはある。駒亭は共同トイレだ。お風呂は銭湯ほどではないが、一般家庭よりずっと大きい。

 けれども五人の下宿生共同で、使用できる時間は決まっている。下宿生の女子同士で話し合えば一人でも入ることは可能だが、基本は複数人で入浴していた。トイレもお風呂も掃除は下宿生で分担してやるが、お風呂は広くて大変だ。

 しかしここだと自分専用で掃除も一人だが、他人に気を使わなくて済む。掃除はやや面倒かもしれないが、それ以上の魅力がこの部屋にはあった。それだけではない。何故かここに入った途端、この部屋に住みなさいといわんばかりの温かい空気に包まれた気がした。 

 だから気付くと思わず叫んでいたのだ。

「ここにします。ここがいいです!」

「そう? 良かった、気に入ってくれた?」

「ええ! とても気に入りました!」

 千夜が相好を崩し、美樹の顔を覗き込んだ。気づかなかったが部屋に入ってくれるかどうかを案じていたらしい。その為とても安堵した顔をしている。

「一さんが来てから決めてもいいのよ? でも一カ月くらいの短い期間だし、本人が気に入ったのならいいでしょうけど。早く荷物も運べるし、他の部屋を探すのも大変だから。一さんもここなら安心してくれると思うわ。私からもちゃんと説明すればいいわね」

 美樹の部屋の気に入り方が少し気に障ったのか、女将は少し再考を促す言い方もしたが、一瞬のうちに考え直したようだ。事故による臨時の移動だし、別の物件を見るなら新たな段取りが必要となる。それも厄介だと思ったのだろう。

 そこですぐに美樹の意見を尊重しそれならば早速と、携帯を取り出してその場で業者に連絡をし始めた。先程出したばかりの荷物を、もう運び入れるつもりらしい。その横から千夜が、邪魔にならないような小さめの声で話しかけてきた。

「和多津さん、女将さんのように美樹ちゃん、って呼んでいいかしら?」

「はい。ええと、私は大家さんとお呼びすればいいですか。それとも渡辺さんの方が、」

「そんな他人行儀じゃなくて、女将さんみたいに千夜さんって呼んでくれたらいいの。それがいいわ。ちょっと図々しいかしら」

「いえ。では千夜さん。短い間ですが、宜しくお願いします」

 頭を下げると、短い間という言葉に反応したのか少し寂しそうな顔をしたが、すぐにこやかに笑い、小さな体を折って頭を下げた。

「こちらこそ宜しくお願いします」

 そんなのんびりとした会話に、女将が割って入る。

「業者さんには荷物をここへ運ぶよう指示したから。千夜さん、正式な賃貸契約書を作らないといけないので少しお待ちいただけます? 私は駒亭に戻って書類の用意とその後の手配がありますので。美樹ちゃんはしばらくすると荷物が届くから、ここにいてどこへ置くかの指示と段ボールの中身を開けたりして頂戴。いい?」

 はいという返事を聞き終わる前に、廊下へ出て彼女は階段を駆け下りていった。

「まあ、相変わらずせっかちな人ねえ」

 一階の玄関から出た音を確認した後で、千夜は笑って呟いた。

「そうですね。話が早くて助かりますが、何もかもが誘導されている気もします」

 その言葉に同意して苦笑いした。

「本当はご迷惑だった? 女将さんは最初にこの部屋へ連れてきたのでしょ?」

 再び心配そうに美樹の顔を窺うので、慌てて首を横に振った。

「最初ですけどすごく気に入りました。しょうがなく決めた訳じゃありません。もし三月に下宿先を探していた時ここを紹介されていたら、間違いなく即決していました」

 本心でそう告げると、顔を崩して喜んでくれた。

「でもここでは食事の用意ができないので、どちらにしても駒亭さんのお世話にはなったでしょうね。あそこは食事が美味しいでしょ。私も週二、三回はお世話になっているのよ」

「仕出し弁当ですか。お一人でお住まいですし、一人分を作るのは大変ですからね」

「そうなの。少しだけ買っても食べ切れないし、お野菜とか結局腐らせちゃうから。でも全く作らないのもいけないからって、ボケ防止の為に毎日の朝ごはんと残りの週四、五回の昼と晩ご飯は、自分で作っているわよ。それでもお弁当をお願いするより高くついちゃうの。あそこは沢山数を作っていて、地元の農家や業者と契約して材料も大量に仕入れている分安く済むらしいし、栄養バランスも考えてくれているから助かるわ。一人だとおかずの種類はあんなに沢山作れないし、味も私みたいな年寄りにはちょうど良いの」

「確かにおかずの数は豊富ですし、下宿生は朝食と夕食も駒亭でお世話になりますから、弁当のおかずがかぶらないように色々な種類を日替わりで出されるので、すごく助かります。私も味付けは好みで気に入っています。他の学生の女の子達も言っていますよ。男子の中には味を濃くして欲しいと言う子もいますけど、そういう子は他より調味料を足したりして、色々工夫しているらしいです」

「駒亭だからできるのよ。昔から料理には煩いところだし、だからこの辺りでは絶対の信頼があるから。女将は若いのにちょっと仕切屋の面が強い分戸惑う時もあるけれど、あれぐらいじゃないとこの地区ではやっていけないのね。私みたいな一人暮らしの人とか、お弁当作りを手伝っている人達の面倒見も良いからすごく助かるし。この街では無くてはならない存在になっちゃって、色んな所で頼られているから」

「そうみたいですね」

 そんな雑談をしていると、階下から騒がしい声が聞こえてきた。どうやら荷物を運びこむ準備をしているようだ。

「あら、もう来ちゃった。お話は後でゆっくりとね。部屋が片付いたら下に来て頂戴。その頃には女将さんの用件も済んでいると思うし、あなたのお父さんも着くでしょうから」

「有難うございます。宜しくお願いします」

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