直し屋

あべせい

直し屋

直し屋



「カメ、どうした」

 夫の鶴吉が、妻のカメの異様な眼差しに気がつき、彼女の耳元でささやいた。

 地方都市の中規模スーパーの店内だ。

「あの婆さん……かわいそうなこった」

 カメは、鶴吉を残して7、8メートル離れると、近くの商品棚の前で、まごついている老女のそばに近寄った。老女といっても、年格好は、カメとよく似たものだ。

「あんた、これとこれは、あたいが預かるからね」

 カメは、老女が下げている自前の布製買い物袋の中から、板チョコとチョコボールの袋を抜きとると、押している自分の買い物カートの店内用バスケットに放り込んだ。

「さァ、勘定すませて帰るからね」

「孫の京介が、チョコレートが大好きなンです……」

「大好きだから、買って帰るンじゃないか。行くよ」

 老女は、カートを押して行くカメの後に大人しく従った。カメと老女はそれぞれに店内バスケットをレジ前に置いて、支払いをすませた。

 鶴吉は、カメが老女の万引きを未然に防いだことまでは理解できたが、老女をこの先どう扱うのかがわからない。

 鶴吉は、機械や道具いじりが好きで、たいていのものは自分で修理してしまう。カメが運転する車が、25年も走っていられるのも、鶴吉がことある毎にこまめに修理しているおかげだ。しかし、鶴吉は人間の修理は苦手だ。人の心や生き方、考え方を真っ当にすることは、機械のようにはいかないと考えている。

「あんた、ここまで歩いてきたのかい?」

 と、カメが老女に言った。

「いいえ、長くは歩けないから、車です。小さいですが……」

「どこにあるンだ。その車……」

 老女は木陰にすっぽり隠れるように駐まっている小型車の前まで、カメを案内した。

 それは小型車といっても、イギリス製のハッチバックで数百万円はするものだ。

「ヘェー、こんないい車に乗っているのかい」

「でも、もう20年になります」

 見れば、塗装は色褪せ、タイヤのホイールも赤茶けて錆がきている。

「あたいのは、普通車でも1200㏄しかなくて、馬力がない。それに25年乗っているから、あんたのより年を食っている。替わってやってもいいよ」

 冗談だ。カメには、25年もかわいがってきた車に愛着がある。夫の鶴吉に手入れをしてもらっていることもあるが、エンジン以外の部品はすべて、純正品ではないことも手放せない理由の一つだ。

 カメが中古部品店やネットオークションで手に入れ、鶴吉がそれを使って車の傷んだ部品を交換、整備している。マフラーやバンパー、石礫で傷ついた窓ガラス、ハザードランプのようなランプ類のカバーなどなどだ。

「サァ、あんたの家に行こう。あんたの家族は? 京介というのは、息子のこどもだろう?」

「はい、京介は、口は悪いですが、本当はいい子です……」

「ほかに、だれがいるンだい?」

「嫁の果菜(かな)に、孫娘の佳未(よしみ)……」

「なんだ。孫は2人もいるンじゃないか。息子さんは?」

「去年、交通事故で……」

 老女は初めて、哀しい顔になった。

「そうかい。それは、いやなことを思い出させてしまってすまなかったね。あたいの夫は、ああ見えても、元刑事で、ここの警察署には、いまでも息のかかった知り合いがたくさんいる」

 それは真っ赤なウソだ。鶴吉が若い頃、10年ばかり、車の整備士をやっていたのは事実だ。しかし、警察とウソをついて、万引き行為について少し脅しをかけておいたほうがいい。カメはそう思ったが、後ろについてきている鶴吉は、またいつもの手を使っていやがる、と内心呆れている。

「孫の京介はチョコが大好きなンです。買ってあげてやらないと……」

 老女は、名残惜しそうにスーパーを振り返る。カメは、老女のそのことばで、ようやく勘が働いた。

「あんたが、これからまたあんなことをやらないように、何か方法を考えないとね……」

「京介のチョコは、どこにあるンでしょう……」

 老女は、車の後ろのハッチをはねあげ、そこに勘定をすませたレジ袋を置いてから、中身をとりだして、そこに並べだした。

「ない、ないッ。京介に叱られる!」

「あんた、京介のチョコはここにあるよ」

 カメは、自分のレジ袋を老女のレジ袋の横に置いて、中から板チョコとチョコボールを取り出した。

「それ、それダ。あんた、いつの間に盗ったンだ!」

 カメは冷静だ。後ろにいる鶴吉のほうが腹を立て、一歩前に出てきたが、カメに睨まれ、その場に踏みとどまった。

「あんたの袋に入りきらなかったから、代わりにこっちの袋に入れておいただけじゃないか。そら、あんたの袋に移すよ」

 カメは、板チョコとチョコボールの袋を老女のレジ袋に入れた。老女はホッとしたように笑顔になった。

「じゃ、あんたの家まで、あたいが運転しようか。そのほうがラクだろ?」

 老女は頷く。

「ツル、あんたが、うちのオンボロを運転して、ついてきてくれないか」

 と言って、カメは自分の車のキーをポケットから出して鶴吉に投げた。

 鶴吉は、免許証は持たないが、運転はできる。いま続けている車内泊旅行でも、カメに代わって運転したことが何度もある。勿論、警察に見つかれば、摘発対象だ。しかし、そんな細かいことにこだわっている年齢ではない。2人は、いつお迎えが来ても、だれも不思議に思わない年になっている。

 要は事故を起こさない運転をすることだ。2人は、そう自分勝手に言い聞かせている。法的には、とんでもない話だが。これまでカメは無事故無違反、鶴吉も免許の更新をしないまま、無免許を除けば無事故無違反でやってきている。

 小型ハッチバックに続いて、カメたちのオンボロ車が、スーパーの駐車場をすいすいと出た。カメの運転は巧みだった。


 老女の名前は、尾張シズ。そのスーパーから車で10数分の、周りに田畑が広がる屋敷林に囲まれた、大きな民家だった。ただし、その田畑の半分近くは雑草が生い茂り、耕作された形跡がないことがわかる。

 シズの家は、いわゆる萱葺きの古民家。といっても壊れかかった、廃屋同然のボロ家ではない。大きな長屋門が出入り口を固めていて、内部にはどでかい母屋を中心に、納屋、作業小屋、いま風のガレージまである。

 母屋のなかは、築3百年は経っていそうな太い松の木の梁が天井裏を走る勇壮なつくり。部屋数も開け放たれている襖や板戸を閉じれば、10数部屋になる豪邸だ。手入れも行き届き、柱も床もつやつやしている。

 長屋門をくぐると、母屋の前庭に古いハリウッド映画に出てきそうなピンク色のキャデラックが駐車していた。

 シズは車を車庫に入れるように勧めたが、カメは、何気なくキャデラックの隣に車を駐めた。キャデラックの実物を見るのは初めてだった。

 と、キャデラックの後部座席から、むっくりと何者かが起き上がった。滅多なことでは驚かないカメも、さすがにギョッとした。後部座席は青い布で覆われていたため、人がその下に寝ているとは思えなかったからだ。

 起き上がったのは、20代半ばの男。髪の毛を茶色に染め、黒いサングラスを掛けている。

「あんた、だれだい?」

 他人の家に来て、「あんた、だれだい?」はないだろうが、聞かれた若者は、カメを不審がらずに、ごく自然に「京介」と名乗った。

 シズの孫とは、この男なのだ。

「こんなところで、何をしているンだい?」

「バアちゃんと、ちょっと不動産屋にね」

 畑を売る契約に行くのだと言う。

「あんた、シズさんにはそういうことはさせられないンだよ」

 京介は、いきなりキャデラックから飛び降りると、

「何を言いやがる。あんたこそ、だれだ。他人の家に勝手にきやがって!」

「わたしかい。あたいは、シズちゃんと小学校で机を並べた仲さ。ナン10年ぶりかで、そこのスーパーで出会ったから、遊びにきたンだ。何か、文句があるかい」

 鶴吉は、カメのウソ八百には慣れっこだが、この先どうウソを繋げるのか、少し不安になった。

「ばばァは、畑を売ることに承知しているンだ。後は判を押すだけだ」

 京介はいきなり、口調が乱暴になった。

 尾張家には、シズのほか、嫁の果菜。果菜の息子の京介と娘の佳未がいる。果菜の夫、すなわちシズの息子が昨年亡くなってから、尾張家は急におかしくなった。

 果菜と佳未は外出しているようなのだが、そのとき、

「バアちゃん!」

 大きな声がして、2人の女性が駆け寄ってきた。

 果菜と佳未の母子だ。

「チッ、余計なやつが帰って来た。だから、もっと早い時間にやろうと言ったンだ。あの司法書士の野郎は大バカだ」

 京介は、ひょいとキャデラックの運転席に乗り込み、猛スピードでバックすると、アッと言う間にUターンして長屋門へ。

「京介―ッ!」

 果菜は声をあげたが、キャデラックは無視して門をくぐって走り去る。

 果菜と佳未は目を転じて、カメと鶴吉を見た。

 カメは、如才なく2人に近付くと、スーパーでのいきさつを話した。当のシズは、いつの間にか母屋の中に消えている。

 シズは認知症、いわゆる痴呆だった。程度は軽いが、法律行為には問題がある。カメは、以前鶴吉の行く末を考えて調べた成年後見人制度のことを、果菜に話した。

 果菜も佳未もその制度のことは知っていたが、具体的にはまだ行動を起こしていない。それには、まずシズが認知症であることを医師に診断してもらう必要があり、県庁に出向き、成年後見人になることを申請しなければならない。

 後見人には、嫁の果菜が最も適人だが、果菜は息子の京介を恐れている。京介は地元で高校時代の悪友がやっている不動産屋とつるみ、尾張家が所有する田畑を売り払い、その金をもって東京に行こうとしていた。

 また、京介は、その不動産屋の妹である、タチのよくない美弥(みや)という女と同棲中だ。美弥は浪費家で、一応三島のスナックでホステスをしているが、いつもお金にピーピーしている。カメは、そんな話を果菜から聞いた。

「じゃ、あたいらはこれで……」

 カメは、母屋の居間を出ると、自分の車に乗ってエンジンを掛けた。ところが、鶴吉は、果菜の美貌に一目惚れしたかのように居間に居座ったまま、果菜を見つめて動かない。

「どうか、されましたか?」

 果菜は不思議に思って鶴吉に尋ねる。娘の佳未は看護師をしていて、この日は夜勤のため、帰宅後すぐに出勤していった。

「果菜さん、わしはもうこの年だから、生意気なことは言えないが、京介という息子さんは、何の仕事をしているンだね?」

「何もしていません。ただ、車が好きで、外車を次々に乗り換えては、あれはダメだ、あれはあそこがダメだと、独りでぶつぶつ文句を言っています」

「ともだちは?」

「決まったのはいませんが、いまは高校が同じだった不動産屋の方とつきあっています」

「それで、先祖伝来の田畑を売ろうというのですか」

 鶴吉は本気になってきた。

「でも、土地や家は全部、お義母さんの名義ですから、お義母さんの実印がない限り、売れないはずです」

「実印なンか、なければ新しく作ればいい。紛失したと言って、本人の委任状を揃えて役所に差し出せば、新しく実印は作れる。役所仕事なンて、実にいい加減なものです」

「では、これから、京介は義母の実印を偽造して、土地を売るつもりでしょうか?」

「女は?」

「いま、三島で同居している女がいます」

「三島なら、ここから車で30分ほど。すると、京介クンは三島に帰ったのか」

「それはどうでしょうか。三島の女性とは最近、うまくいってないようすで、もう別れたかも知れません。でも、そのお兄さんとはまだツルンでいますから、不動産屋に行ったのかも知れません」

「だったら、お義母さんの成年後見人の手続きは、早くしたほうがいい。これから、医者にいって診断書をもらい、県庁に行ったほうがいいと思いますが、どうされますか?」

「エッ!? でも……」

 果菜は、鶴吉の突然の提案に戸惑いを隠せない。

 「周りの田畑は半分以上、使っておられないごようす。娘さんと2人ですから、半分程度しか出来ないのは仕方ありません。といって、みすみす売り払っていいのですか? 亡くなったご主人だって、よく思わないでしょう。なんなら、わしと女房のカメで、荒れているほうの田畑をお借りして、米や野菜を作ってもいい。わしたちは東京で、長年農家をしていましたから……」

 農家をしていたというのは、鶴吉のウソだ。カメも鶴吉も、農家に生まれたというのが正しい。だから当然、農業のつらさは知っている。

 果菜の顔色がたちまち明るくなった。いままで、心につかえていたものが取れたように、

「では、そうさせていただきます」

 と言い、すっくと立ちあがった。

 病院にいる看護師の佳未に電話をかけ、シズを連れて行くと話し、認知症の診断をして欲しいと頼んだ。そして、カメが運転する車の後部に、鶴吉と並んで腰掛けた。


 瞬く間に、5ヵ月が過ぎた。

 カメは夜明けとともに起きると、尾張家の周囲に広がる畑に出て、ほうれん草、大根、カブの収穫を始める。それが、このところのカメの日課になっている。

 夫の鶴吉は、昼頃まで床にいて、図書館から借りた本を読んでいる。

 果菜は7時に起床して、掃除、洗濯をすませると、畑からカメを呼び、出勤前の佳未も加えて一緒に朝食をとる。そのとき、機嫌がよければ、鶴吉が顔を出すこともある。

 尾張家は、いま一見、順調に進んでいるようだ。しかし、京介がいる。

 京介は土地の売却が出来ないことを知ると、露骨に金を要求した。家を出るから、相続財産の前渡しをしろというのだ。

 カメは考えた。このままでは京介は本当のバカ息子になってしまう。性根を入れ替えてやる必要がある。では、どうするか。

 鶴吉は、

「あの息子はバカだ。どうしようもない、あきらめろ」

 と、言いなからも、珍しく考え事をした。

 カメは、シズのことが他人事に思えない。

 そのとき、「これしかない」と、鶴吉がうまい方法を思いついた。機械や道具類しか直したことがない鶴吉に、天から何かが降りてきたようだ。

 カメは鶴吉の思いつきを聞いて、「あんたは、ホントに『直し』がうまいよ。道具だけじゃない。世間さまは、器用貧乏とも言っているがね」

 数日後。

 京介が新しく買った60年製フォードで生家に乗りつけると、果菜に言った。

「こんど、中古車屋をやる。まじめに働くから、金を貸して欲しい。外車専門だ」

 果菜は、息子が初めて商売をやるというので、銀行から3千万円借りて京介に与えた。京介は中古車屋なンかやるつもりはない。しかし、格好だけでも、と街道すじに適当な土地を見つけて借りると、そこにプレハブの小さな事務所を建て、畳6枚分はある巨大な「外車専門、爆安ユーズドカー」の看板を掲げた。

 その中古車屋のプレハブ事務所には、オープン前からカメと鶴吉が寝起きしている。中古車屋は鶴吉のアイデアであり、京介はうまく乗せられたわけだが、カメ夫婦を事務所の電話番と店に展示している車の見張り番に、2人で1日1万円という格安で働く約束ができている。宿代がタダだから、カメ夫婦にも不満はない。

 すると、オープン初日から、お客が次々とやってきた。もっとも中には冷やかしもいるが、買う気をみせるお客も少なくない。京介は元々車好きだから、車の話題や知識には事欠かない。話が弾む。

 商売がおもしろくなってきた。売れなくても、車の話をして、車をいじり、一日がアッという間に過ぎる。車いじりにかけては、京介よりも鶴吉が上手だから、京介は鶴吉を尊敬のまなざしで見るようになった。

 瞬く間に、1ヵ月が過ぎ、京介は商売に本腰を入れだした。すると、老夫婦に店の留守番や電話番は任せられないと思うようになった。当然のなりゆきだ。

 京介はハローワークに求人を依頼した。応募してきた女性の面談には、カメと鶴吉も同席した。しかし、思うような適当な女性が来ない。始めたばかりの店だから、世間並みの給与が出せない事情がある。ガムを噛みながらやってきたり、二の腕などにバラや百合のタトゥーをしていたり、サービス業にはほど遠い女性ばかりだ。さすがの京介も、呆れて相手をする気にもなれない。

 カメと鶴吉夫婦は、プレハブ事務所をあてがわれて、住居費に困らないからありがたい反面、そろそろ同じ所にいることに飽きが来ている。2人は、車内泊旅行を続けている間に、ひとつ所に長くいることに耐えられない体質になってしまったようだ。

 そんなとき、シズが、京介の大好きなチョコレートをレジ袋にいっばい詰めて、ふらりと京介の事務所に現れた。

 シズは、カメと同じ年格好に見えたが、実年齢はカメより若く、まだ60代後半。認知症と診断されたが、カメと気が合う。このため、カメは毎朝尾張家に顔を出して、シズと互いに昔話をしていく。それがよかったのか、シズの認知症が徐々に回復してきた。奇跡的なことだ。

 シズは京介が大好きだ。こどもの頃から、畑仕事で忙しい母親に代わって食事を与えたり、遊び相手になってきた。京介も、こどもの頃を思い出したのか、シズに対して乱暴なことばを遣わなくなった。

 京介は、徐々に、俗に言う真っ当な人間になってきたのだ。シズも世間並みの能力を持つ祖母になりつつあった。

 カメは思った。シズがいい。京介の中古車屋の電話番、留守番は、シズ以外に考えられない。勿論、カメと鶴吉のように事務所に寝泊まりするわけにはいかない。売り物の車の見張りは、警備会社に頼めばいい。

 鶴吉もカメの考えに賛同した。鶴吉は果菜の美貌にも、そろそろ飽きてきていた。なぜなら、果菜に恋人らしき男の陰がチラつきだしたからだ。

 果菜には再婚の意思は毛頭ない。しかし、恋愛は自由だ。残りの人生はまだまだある。存分に楽しめばいい。

 京介は、カメが店をやめたいと申し出たとき、引き止めた。しかし、それは社交辞令に過ぎない。

 京介は売り物の外車の中から、適当な車をプレゼントしたいと言った。しかし、カメは国産車がいいと言う。鶴吉に言わせると、外車はメンテナンスに金がかかる。そこで、京介は新しくできた中古車屋の業者仲間から、国産1400ccの普通車を調達してきて、カメにプレゼントした。カメは満足した。いままで使っていた車とデザインや使い勝手がよく似ていたからだ。さらに、燃費のいいことが一番の決め手になった。

 カメと鶴吉は、初めて、まだ新車の香りがする車に乗った。あとでわかったことだが、その車は一度買い手がついたものの、事情が出来て、中古車になっていた、いわゆる新古車だ。だから、実質は新車同然。

 カメはそのことに、すぐ気がついたが、京介の思いやりに心の中で感謝しながら、出発する朝、

「ただでもらうンだ。これ以上、贅沢は言えないやね」

 と、見送りに出てきた尾張家の一同の前で言った。すると、シズがにこやかな笑顔を浮かべながら、

「カメさん、その車は壊さないでくださいよ。京介は、カメさんたちがどこにいても、すぐに修理に駆けつけると言っていますから。京介がいなくなると、わたしが淋しいですから……」

「シズさん、うちの人は昔、車の整備士をしていたから、この程度の車はすぐに修理が出来ます。心配いりません」

 すると、鶴吉は内心、「バカこけッ」と思った。いまの車はコンピュータ制御だから、昔の整備技術は役に立たないことが多い。だから、修理というより、部品交換ばかりになる。

 それでも、鶴吉は、

「そうです。わしは、いまでも、女房から、腕のいい『直し屋』と呼ばれています」

 と言った。

 すると、カメは小さな声で、「だれも『腕がいい』なンて言ってない」と言い、新古車のハンドルを握った。

               (了)

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直し屋 あべせい @abesei

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