第61話
冷水で気合を入れた僕は火中に飛び込む。
今回の方針は魔法を行使せず《
《繊細聴覚》と《感情嗅覚》の二つだね。
もちろん《魔法障壁》も展開する予定はない。肉体は格段に向上されているようだし、多少の無茶はできるはずだからね。
さて、まずは道標だ。
《感情嗅覚》で恐怖、絶望などの負の感情を嗅ぎ取りながら、匂いが強くなる方へ歩を進めていく。
刹那、
――バキバキバキィッ!
柱が燃えながら僕の方に倒れてくる。
それを予め《繊細聴覚》で捉えていた僕は必要最小限の捻りで躱す。
身に迫る危険を察知し、無駄のない動きで避ける。
僕の中でそれはカッコ良い部類に入るわけで。相変わらず中二病っぽいんだけど男子諸君ならきっと理解してくれるよね。
ただこの結論から言ってこの躱し方はあまり良くなかった。
だって、
「熱っち!!!」
必要最小限の捻りということは目と鼻の先に火を帯びた柱が倒れてきたわけで。
それだけ熱との距離も近いことを意味している。
顔が熱ければ、胸もとにかく熱い。想像以上の高熱。驚くほど熱い。スレスレで躱していくのはあまり得策じゃ無いかもしれない。
もちろん遊んでいるつもりは一切ないけれど、もっと急いだ方がいいかもしれない。
この建物はたぶん、そんなに保たない。
反省と自戒を込めて匂いの元に駆けつける。
どうやら逃げ遅れた子どもがいるのは最上階のようだった。もちろんエレベーターは使えないので階段を登っている次第。
柱の転倒や天井の落下物を軽い身のこなしでひょいひょい回避していく。
さて、ここで《繊細聴覚》がいかに優れた体術であるか――職人や達人レベルの習得難易度であるかを説明させて欲しい。
というか、なんで音で転倒や落下などを察知できるんだって思わない?
少なくとも師匠から習う際、僕は疑問だった。
そもそも《
いやまあ、空中に浮いた師匠が手に持ったスポイトから出した水滴が広大な海のどの地点に落下したか、目隠しをした状態で的確に言い当てないと何も食べられません、なんて悪魔のような特訓のせいで死にかけたことはあるんだけど。
あっ、もちろん死因は餓死ね。僕にも骨が皮を突き破りそうな時期がありました、はい。
ごほん。閑話休題。
だから、凄まじい距離の中、いかなる音も聞き逃さない、聞き漏らさないというのは言わば第一段階。最低でもそれは出来なければ話にならないというわけだ。
第一があるということは第二段階があるということで。
そっちが実は本命だと聞いたときは驚愕過ぎてお腹から肋骨が飛び出るかと思ったよね。あっ、比喩じゃなくて物理的に割と本気でね?
だって、スポイトから落下した一滴の雫の地点を十連続言い当ててようやく食事にありつけたときに師匠からまだ特訓は序盤だったと告げられたんだよ? いま思い返してみてもよく生きのびられたよね、本当に。
今度、長官に色々と聞いてみよう。
お酒はまだ飲める年齢じゃないけれど、きっと盛り上がる自信がある。
で、その第二段階というのが《繊細聴覚》の真価と言っても過言じゃない『識別』だ。
ここからずいぶんと専門的になるから分かりやすい例で言えば、揚げ物を取り扱う超一流の料理人はお客の談笑や厨房の雑音などが飛び交う状況で、揚った瞬間――水分が弾けたパチっという音一つだけを聴き分けて、油の中から取り出すという。
こうすることで衣に包まれた食材に火が入り過ぎず、最高の状態で食してもらうことができるからだ。
音は時と状況により放つ音が違う。これを師匠は《
同じ火に包まれる木材と金属でも、崩壊に向かう段階と崩壊を知らせる音は段階的に異なっているわけ。
つまり対象の状態や質、重量などの情報を緻密に聴き分けることができる。
とはいえ。
音が聴き分けられたとしても、その音が何を意味するのかが頭に入っていないと全く意味がないわけで。
たとえばこの火事の中、柱が転倒することを知らせる音を拾ったとしても、それが崩壊を意味する音だと認識しないと何の意味もないわけだ。
あっ、この音は燃え尽きた音だ、耐久性が失われた音だ、と認識できて初めて価値が生まれてくる。
つまり僕は対象があらゆる属性――それこそ今のような火、その他にも水、雷、氷、風、土など、瞬時に判断できるようひたすら特訓させられた。
――反射的に回答できるまでずーと、ずーーーーーーっと音を耳に染み込ませて続けてきたわけで。
いや、もう本当に気の遠くなるような修行だった。耳にタコなんてレベルじゃない。あるとき、耳を引きちぎればこの特訓を終えられるんじゃないかと本気で思った時期もあったほどだからね。
でも、そのおかげでこうして肉体強化の《付与魔法》を行使せずに、ちょっと丈夫な肉体一つでグングン前に進めるわけで。
こうなってくると師匠に感謝せずにはいられない。なによりアクション撮影にも活きてくるであろうことを確信することができた。
撮影は当然、安全が担保された中で行われるのだろうけれど、どうせやるなら魔法を行使せずに最高難易度に挑んでいきたいからね。
これは師匠から送ってもらった素晴らしい
最初こそ不満がたくさん出ていた僕は気がつけば感謝の気持ちでいっぱいだった。
と同時に床の底が抜け落ちるであろう限界の音を拾う。崩れ落ちていく橋のように、前方の床も落下寸前ときた。
僕は躊躇することなく助走に入る。燃え尽きずに残る床へ着地するためには2メートル以上跳ばなければいけない。
ここへ来てまさかの走り幅跳びだ。
僕の疾走と共に床が抜け落ち始める。
歩を止めれば振り出しだ。しかもコンティニューは上階へ上がる手段が奪われた状態という鬼畜難易度に跳ね上がってしまう。さすがに魔法の行使を余儀なくされてしまうだろう。
それはいただけない。
というわけで耳で走っても瞬時には崩れ落ちない床を聴き分けながら全力疾走。
次の瞬間、僕の前方にある床が大体的に落下していく。まるで板チョコを割られていくような光景と音が目の前に広がっていた。
……せーの!
踏み切った僕は空中で身体をそらし、着地と同時に前傾姿勢に移る。
「えっ、嘘やん」
我ながら惚れ惚れするフォームだぜ、なんて浮かれていた瞬間が僕にもありましたとも、ええ。それがおもわず関西弁が漏れてしまうんだから本当に笑えない。
なんと着地までの距離があとほんのわずか届かないという、なんとも格好のつかない結末。いやいやいや、さすがにここで振り出しに戻るわけにはいかないよ!
僕は腕を伸ばし、床に指をかける。片手でぶらりと宙に浮いているような格好。
腕力に物を言わしてぶらぶらと揺られながら視線を下に向けると数メートルは落下できそうな大きな崩壊であったことを視認する。
……あっっっっぶな!!
でもこれで戻る道はなくなったし、子どもを救出したあとは、飛び降りることになるのかな? あぁー、しまった! 飛び降りマットを敷いておいてもらうよう言っておけば良かったね。風魔法で華麗に着地――は無理があるし、うーんどうしよう。
まっ、それは子どもを抱き抱えてから考えようかな。
グッと腕にチカラを入れて床に足をかけながら、這い上がる。
長官なら魔法を行使せずとも服を汚さずにスタイリッシュに着地しているに違いない。
着地と同時に掌や服に視線を落とすと、なんというか……ある意味必死だったことを一目でわかる状態になっていた。
というわけでここまで来ると感情の匂いも強くなってくるわけで。子ども部屋で僕の足は止まった。
「うわああああぁぁぁぁん、ママぁっ! ママぁっ!」
扉の先から幼い少女の叫びが聞こえてくる。どうやらこの中にいるようだ。
すぐにドアノブに手を伸ばすものの、
――ジュゥッ!
触れた瞬間、指が焼けた匂いと煙が立ち上がる。
おもわず、熱いいいいいいいいっー!! と叫びたくなる痛覚を押し殺しドアノブを捻るものの、中から鍵がかかっているのか、それともなにかが引っかかっているのか、開かなくなっていた。
「お嬢ちゃん! きこえるかいお嬢ちゃん!」
僕はドンドンドンと扉を拳を打ち付けながら中の子どもとコンタクトを試みる。
「だっ、誰⁉︎」
「消防士さんだよ! すぐに助けてあげるからね!」
「うぐっ、ひぐっ……」
「扉を開かないから壊すからね? 扉から離れられる? 離れたらお兄さんに知らせて欲しいんだ」
「……うっ、ううっ、離れたよ」
いい子だ。こういうとき女の子の方が意外と肝が据わってたりするからね。
ありがたい。
僕は深呼吸を一つしたあと、右足に《付与魔法》をかけて扉を回し蹴り。
バンッ! と扉が吹き飛んでいく。
「お嬢ちゃん! どこだい?」
「うわああああああああああぁぁぁぁっん!」
僕を視認するや否や、感情が爆発したんだろうね。取り残されていた幼女は号泣しながら僕に駆け寄ってくる。
小さな頭を優しく撫でであげる。
「よく頑張ったね。もう大丈夫。お兄さんが絶対にお母さんの元に返してあげるから」
幼女を抱き抱えながら、子供部屋から外の様子を窺ってみる。
僕が救出に向かったことに機転をきかしてくれたのか。衝撃緩和マットの設置を始めてくれていた。
音からも分かるように建物は崩壊寸前。消防車のハシゴでこちらに駆け寄るのは難しいのかもしれない。
僕は窓を開けて下にいる隊員に叫ぶ。
「ここから飛び降ります! マットをもっとこっちに近付けてください」
幼女を抱き抱えた反対の手でマットの位置を指示する僕。
幸い僕は大の女性を抱き抱えながら高層ビルから飛び降りた経験がある。そのときはもちろん命綱や徹底した安全が確保されていたわけだけれど、まさか人命救助でも役に立つとは思わなかった。
けど、怖いのは僕じゃなくて幼女のはず。
年齢や身長条件を満たさない子どもがジェットコースターに乗車できないように、あの五臓六腑がふわりと宙に浮くような感覚は恐怖でしかないはずだ。
僕は幼女を優しく抱きしめながら確認する。
「お嬢ちゃん名前は?」
「……レナ」
「――これからお兄さん、ここから飛び降りようと思うんだ。でも一人じゃ怖いからレナちゃんにぎゅっと手を握って欲しいんだ。僕に勇気をくれるかな?」
レナちゃんは高所から飛び降りる現実に驚きと恐怖を隠せない反応を示した。
そりゃそうだ。怖いに決まっている。
けどレナちゃんは僕の手をぎゅっと握り返しながらこくこくと頷いてくれた。
物分かりのいいお嬢ちゃんだ。本当にありがたい。
「それじゃ1、2、3で行くからね?」
助走のため、後ろに下がる僕。
さあ、行くぞと歩を進めようとした次の瞬間だった。
「飛び降りるのは少年、君だけにしてくれないか?」
突然、背後で呼び止められた僕はすぐに振り返る。気配は――感じなかった。《感情嗅覚》や《繊細聴覚》が拾いこぼした?
いや、ありえない。まさか――。
僕は呼び止めた主を視認して目を見張る。
そこにはスーツに身を包んだ一人の男が立っていた。年齢は三十代前半といったところか。
特筆すべきは上半身の左側が炎に覆われていたこと。普通は熱と痛みで転がり回るはず。なのにまるで身体の一部とでも言うように飼い慣らしていた。
次の瞬間にはもう確信していた。
――帰還者だ。それも異能持ちの。
「申し訳ないがその娘はここで死んでもらう必要がある。飛び降りるなら少年、君だけにしてもらいたい」
九条長官の言葉が脳裏に過ぎる。
すでに二人の帰還者が犯罪に手を染めている。
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